第七章・6
「分からない……さっきのお経みたいな言葉は何なの。その情報も有料だって言うの」
『ただの仏教用語だ。一言で言えば「悟り」のことだよ』
沼弟はどうでもいいように言う。
悟り。確かにこのトコヨノクラといい、仏教が背景にあることは分かる。でも私には素養もないし、信仰心があるとも言えない。
悟り、という概念も言葉を知っているだけで、それが何なのかは分からない。
『櫟セラというのは半導体のカタマリが生み出した擬似的な人格だ。それは無限の死を経験している。そして自分が無限の死を経験していることを理解している。精神はだんだんと個別の顔を失い、一種の境地に達する』
「境地……」
『それは死の概念に似ている。閉鎖された世界で永遠の苦痛を味わうネズミがいるとする。ものごとに永遠はないのでネズミはいつかは死ぬ。ではそのネズミが不老不死であり、無限の死と再生を繰り返すとしたらどうか。死と再生すらも無限ではないので、ネズミはいつかはその無限から抜け出す。抜け出して異なる階層に向かう』
沼弟は私に講義するというより、自分の考えを反復するために話しているようだ。私は彼の話を断ち切らないタイミングで質問する。
「異なる階層というのは?」
『仏教で言うなら三界ってやつだろう。俺たちの住んでいる世界は欲望にまみれた欲界。煩悩から抜け出しているが、まだ肉体の枷に縛られているのが色界。やがては精神だけが存在する無色界に昇っていく』
つまり……AIの櫟セラはやがてお釈迦様のように悟りの境地に到達する?
……だとしても、だから何だと言うのだろう? まるでピンと来ない。
「それが黒幕の目的だって言うの? 人類のほとんどを生き埋めにしてまで目指すこと?」
『やがて櫟セラは肉体を持つ』
そのようなことを言う。
「この大穴が生き埋めにされた人間で一杯になったとき、それを登って外に出ていく。トコヨノクラはそういう儀式のための場所でもあるらしい」
「肉体を……でも、それに何の意味が」
『意味? 悟りを得た知的存在が生まれるんだ。めでたいことじゃないか。人類ってやつはそのために生きてきたんだよ。あとの地球なんか櫟セラに任せりゃいいのさ』
今、はっきりと感じた。沼弟は誠実な話をしていない。
しかし口から出任せを言っている雰囲気でもない。櫟セラが高位の存在に変わるというのは、少なくとも計画に関わる思想の一部ではあるのかも知れない。沼弟はトコヨノクラで手に入れた情報をもとに、それをそのまま語っているのか。
では、今の話に隠れているものは何だろう。
沼弟は何かを語っていない。今の話の中で、矛盾と言える部分は。
「……永遠は存在しない」
『ほう』
沼弟がこちらを向いた気がした。スマホの向こうで振り向いた気配があっただけで、その姿はやはり見えないが。
「永遠とか無限という表現はおかしい……。櫟セラのサバイブをプレイした人間は数えられる。この世界のコンピューターも、それを稼働させる電力も有限なもの。櫟セラは生と死を繰り返すけど、それは無限でもないし永遠でもない」
『だが、高位の存在に変わるには十分な数だろう』
沼弟の声に試すような響きが混ざる。私は彼から何かを聞き出せるような、聞き出さねばならないような感覚にとらわれる。
「櫟セラは肉体を持つと言った。それは色界止まりのこと。櫟セラが肉体を得たとしてもそれは生物でしかない。いずれは滅びる」
『人類だって永遠には続かんよ、櫟セラという終着点を生み出せりゃ十分じゃないか?』
「違う!」
そうだ、だんだんと分かってきた。沼弟はこれ見よがしに高尚な目的を掲げている。実際トコヨノクラの成立過程にはそんな目標もあったのかもしれない。
でも違う。この計画の最奥にいる人物。
黒日卒。それが人類がどうの、悟りがどうのという崇高な目的で動いてるとは思えない。
ーーなぜ思えないのか?
それは、私が俗物だから。
崇高なことが理解できないから。我々はみな、悟りの境地など知るわけもない愚物に過ぎないから。
そうだ、まさにそれだ。沼弟と宗教論を戦わせる気はないが、矛盾なら指摘できる。
「他者に悟らせるなんて、何の意味もない」
『ふむ』
「そう……悟りはきわめて個人的なもののはず。何を思いつけば悟りなのかなんて他者には分からない。だから櫟セラが至高の存在になったことを確認する方法はなく、生み出した人間にも何の関係もない。あなたの言った計画はおかしい」
『上出来だな』
沼弟は乾いた笑い声を出す。動作が入るほどの笑いなのかは分からない。
『仲良川さん。あんたの言ったとおりだ。櫟セラは悟りに至るのかも知れんが、それは俺らには何の関係もない。また、人類以外の誰かを悟らせるなんてことにも意味はない。あるいはどこかの研究機関では、AIを人間以上の精神的境地に到達させようと頑張ってるやつもいるかも知れんがね。その研究自体が自己矛盾をはらんでるのさ』
では。
では、何だったのだろう。今の会話は。
すべてが嘘ではない。少なくとも櫟セラが高位の存在になりうることは本当だと思えた。やがては肉体を得て、この大穴という胎から地上に出ていくのか。
ーーやがては。
「もしかして、その過程に何か意味が」
『無駄話はこの辺にしとこう。知りたきゃ対価を払いな」
「対価って何なの!」
『さあね、何も思いつかんね』
通話が切られる。
急にあたりの闇が濃くなった気がする。スマホの画面はまだ点灯しているが、それを押しつぶさんとするかのように全方位から迫る闇。
「……」
番号は通知されている。折り返すことは可能だろう。
その前に、金咲のスマホにかけてみよう。私は亀の甲羅のような携帯をいじって、覚えている番号にかける。
回線をさぐるかのような数秒の間。やがてコール音が鳴る。やった、電波が届く場所にいるのだ。
『も もし、 だ』
金咲の声が聞こえる。私は胸の奥にこみ上げる感情を抑えて話す。
「もしもし、金咲、いまどこにいるの。私は大穴のところにいる。心当たりがあれば」
『聞こ ね 、ミヨ 、くそ、こ あた 化け 多 る』
声が途切れている。電波が弱いのだろうか。それとも何かと混線しているのだろうか。
「金咲! 聞こえたら大穴のところまで来て! 穴の底でもいいの! スマホと死体のたくさんある場所がどこかに」
通話が切れる。
すぐに掛け直すが、今度はコールしない。
何度もかけ直す、何度も、何度も……。
じ
指に、振動が伝わる。
スマホが震えている。金咲からの着信?
いや、違う。アプリが立ち上がった。
QRコード読み取り用のアプリ、そして画面の中央。巨大で虚無な闇の中に何かを見つけて、四角い枠の色が切り替わり、次の瞬間にURLが。
「こ……れ」
がん。
私のすぐそばに何かが高速で飛来する。
スマホだ。さっきのと同じような耐久力重視のモデル。着信の番号は、さっきのと同じ。
「……」
私はURLを開く。そこには暗闇の中、胸元にライトを装着して前方を照らす人物。この苺のヘタのようなベリーショートの髪は。
「金咲さん!」
『お、ミヨか、どこにいる』
金咲が後ろを振り向く。私の方を見ているが視線は合わない。
この映像は何? カメラがどこかにあって、その中継?
私は周りの様子を見ようとしてスマホをまじまじと見る。すると奇妙なことに、スマホを動かすのに合わせてカメラが少し上に動き、見下ろす視点になった。
「……? 金咲さん、どこかにカメラがあるの?」
『見つからねえぞ、くそ、隠しカメラでもあんのか?』
いや、隠しカメラの視点ではない。これはまるでVR映像のよう。
スマホが窓となって金咲の周囲の世界を覗くことができる。私が動かすのに合わせてカメラの角度が変わる。真横を向けばカメラも90度横を。
現実感の喪失。まるでゲームのような、という言葉がおぞましくも浮上してくる。この異常な状況。私たち二人の状況すらゲームという言葉が包括せんとする。
『おい、なんか音楽鳴ってんぞ、そっちはどうなってる』
近くにあるスマホの音だ。沼弟からの着信が続いている。私はどうしようか一瞬悩んだが、沼弟の着信から少し距離を取ることにした。
「なんでもないの……金咲さん、合流したいの、こっちは大穴の近くにいるけど、そこは通った?」
『大穴か、わからねえな。というかミヨはどこに行ってたんだ、いつの間にかはぐれやがって、あれから12時間は経ったぞ』
「ごめんなさい……歩いてるうちにトランス状態というか、何もわからない状態でひたすら歩き続けてたみたい……」
金咲はそうか、とだけ行って前を向く。
そこは通路のようだった。石の冷たい質感。岩肌ではなく古いコンクリートである。壁面や床には正体不明の染みがあり、天井にはコードが這っていて、皿を伏せたような形のフレームが天井についている。本来は白熱電球でも据え付けてあるのだろうか。
金咲は通路を進んでいる。慎重な歩き方だ。真ん中は歩かず、壁に肩をこするようにゆっくり歩く。そして几帳面なほど直角な曲がり角に差し掛かり。
人が。
金咲が蛍光灯のようなものを突き出す。飛び出してきた人影と接触してスパークが散る。空気の焼け付く音。
それはぼろぼろの服をまとった男。食いしばりながら悲鳴を放つような声を上げて倒れ込む。
「金咲さん!」
『大丈夫だ。ロッド型スタンガンは電池式だがまだ撃てる』
襲撃者を撃退したことを遅れて理解する。あまりにも躊躇のない一撃、おそらく初めてではない、金咲は何度も襲われている。
私はスマホを動かして倒れた男を見た。薄汚れたズボンにほとんど布切れと化しているシャツ。そしてこめかみのあたりに金具が突き刺さっている。
大きさはマグカップの持ち手ほどもあるだろうか。コの字型、ゲートボールのゲートのような形状。それが頭に深々と刺さっている。足の長さが全体の大きさに比例するなら頭骨にも届きそうなほどだ。
「あの人……頭に金具が」
『あれが鎹らしいな。ここにいる人間はどいつもこいつもマトモじゃないが、あれが埋まってるやつは特にやべえ、初手で15万ボルトを撃ち込むしかない』
金咲はどこにいるのだろう。同じトコヨノクラにいるはずなのに、どこかの廃墟か、あるいは遺跡でも探索してるかのようだ。
『ミヨ、お前どっから見てんだ。モニタールームでもあんのか』
「よく分からない……ごめん、ちょっとだけ待ってて」
『ああ、少し休みてえ、身を隠せる部屋を探しとく』
私は金咲の映ってるスマホをそっと置き、まだ遠くで着信を無らし続けるスマホへと近づく。
発信者を見る。やはり先ほどと同じ番号、沼弟だ。
「……もしもし、どうかしたの」
『いまサバイブに繋がったな? いちおう言っとくが櫟セラは助けられんぞ。無駄なことはやめてスマホを踏み砕け』
……サバイブ。
今のは、今の金咲と繋がったのは、サバイブだと言うのだろうか。AIのキャラクターに指示を与え、死地からの脱出を図るというゲーム。AI時代が生み出した悪趣味な対話型ゲーム。櫟セラという呪いを生み出した特異なゲーム……。
『早くしろ、櫟セラのサバイブをプレイすると精神をやられる。それにこの穴に櫟セラを呼び込む形になりかねない』
「沼弟さん、聞いて」
この男と交渉事は成り立たない。何を求めてるのか言おうとしないし、どこか精神性が隔絶している。
それに沼弟は敵対者ではないのだ。なるべくなら味方につけたい。だからすべて話すべきだろう。
「櫟セラというネットミームには元になった事件があるのは知ってるでしょう。女子大生生き埋め事件よ」
『ああ知ってるよ。俺が集めた情報の中にその言葉も出てきたし、ニュースサイトで読んだこともある』
「いま私と繋がったのは、元となった事件の被害者、本物の櫟セラよ」
『何だって?』
「私は縁あって彼女と同行していた。そして2人でこのトコヨノクラに踏み込んだの。はぐれてしまったけれど、奇妙なことに彼女と繋がった。サバイブのような形で」
沼弟は黙り込む。眼下に見えていた点のような光が消えた。沼弟が手元のスマホをスリープにしたのか。
「彼女は襲われてる。トコヨノクラには正気を失った人たちがいるみたい。この状況は何なの? 沼弟さん、あなたなら何が起きているのか推測できるんじゃないの」
『少し考える。とりあえず地上へは行かせるな。なるべく安全な場所を見つけて休ませろ』
通話が切れる。協力してくれると考えていいのだろうか。
トコヨノクラ、遥か地の底、生者の領域でも、死者の国でもない場所に、さまざまな思惑が入り乱れている。
櫟セラは助けられない。
何度も死んで、生き返って。
やがて悟りを得て、高位のものに。
私は、そんなとりとめのない言葉を噛み潰した。
 




