第一章・4
「女子大生生き埋め事件……? 何だそれは」
『え、知らないんですか?』
仲良川は意外なと言うより、信じられないという声だ。そんなに有名な事件なのだろうか。
彼女は事件のあらましについて語る。
S短大に通っていた女子大生、これが櫟セラだが、彼女は大学から寮に帰る途中、こつ然と姿を消した。
発見されたのはそれから1年後。住宅展示場にあるようなオープンハウス、それが丸ごと地面に埋まっているのが発見され、櫟セラはその中で生きていたのだ。
「ちょっと待て、一年も生きてたって言うのか」
『そうですよ。だから世界中が震撼する事件だったんです』
櫟セラが生き埋めにされていた家は3LDKの広さがある平屋であり、それぞれの部屋には家具もあり、箪笥には服も入っていた。屋根も配管も手抜かりせずに作られており、どこかにある家をそのまま運んできたようだったという。
天井からは換気扇付きの煙突が何本か地上に伸び、ソーラーパネルからの給電を受けて24時間動いていた。
部屋の一つには大量の缶詰。水は雨水を貯めるタンクが設置されており、ろ過装置を通って室内に送られ、排水は手近な川に流されていた。
『すごい話なんですよ。缶詰だけで5000個以上あって、無駄に動かなければ何年も過ごせたかも知れないとか』
「犯人はイカれてるぞ……いくら金がかかるか想像もつかない……」
生き埋めにされていた櫟セラがなぜ助かったのか。
それはドキュメンタリー番組などで何度も再現されたらしいが、配管を叩いていたためだ。
彼女はベッドの脚を外すと、日に何時間もトイレの配管を叩き続けた。救助された時は鉄の配管が変形していたらしい。
彼女が埋められていたのは所有者が曖昧な耕作放棄地だったが、土地を見回っていた不動産業者がわずかな音に気づき、警察に通報したのだという。
「ん……ちょっと待て、最初に櫟セラは死んだと言ってなかったか」
『助け出されたんですけど、ひどく弱ってて、自力では歩けない状態で、入院してから1週間後に死亡したそうです』
むごい話だ。犯人はなぜそんな事を……。
「犯人は見つかったのか?」
『見つかってないです。埋まってた家も徹底的に調べられたそうですけど、その家というか、地下室というか、その空間にはカメラもなかったし、誰かが地下室の面倒を見てた様子もなかったとか』
数年過ごせるだけの準備をして、閉じ込めたあとは放置したというのか。
想像する。地下の中で1年近くも過ごす日々のことを。不安と恐怖が積み重なっていき、精神が押しつぶされそうになる心情を。
『これ調べるの大変だったんですよ』
仲良川はまずS短大に赴き、櫟セラの名前で聞き込みを行った。すると、噂ではあるが女子大生生き埋め事件の被害者ではないかとの話が聞け、警察署に行ってみたり、地元の図書館で新聞のバックナンバーを調べたり、櫟セラの知人と会うなどしてウラを取ったのだという。
「櫟セラのサークル活動とかは分かったか?」
『サークル活動ですか? ええと、当時の雑誌記事とかにも流れた情報ですけど、サイクル同好会だったそうですよ。高校の頃はバスケ部だそうです』
「……櫟セラが被害者だというのは噂程度の話だったのか? 報道で被害者の名前は伏せられてたのか?」
『ええ、あんまり異常な事件ですし、被害者が自分の名前を出さないでほしい、とうわ言のように言ってたとか』
死の床にあっても、櫟セラは強い恐怖に囚われていた。
無理もないだろう。自分を閉じ込めたのはどこの誰か分からないのだ。自分が助かっていると知ったら、また襲ってくるかも知れない。また地下の奥底に閉じ込めようと……。
犯人像がまるでイメージできない。粗暴な巨漢だとか、薬物に溺れているだとか、そんな類例に当てはめられない異常な人物だ。
それが、恐ろしい。
人間にここまで猟奇的なことができるという、その事実が恐ろしいのか。聞いたこともない状況に置かれた人間、それを想像するのが恐ろしいのか。
『丸一日使っちゃいましたよ、ちゃんとバイト代くださいね』
「ああ……次のシフトの時に現金で払うよ」
『やった、じゃあそういうことで』
通話を終える。仲良川の明るい声がいくばくかの救いだった。
「……」
櫟セラは死んだらしい。
ならばやはり、スマホから呼びかけられるセラは別人、というより架空の存在ということか。
だが、まだ信じられない。
画面越しにありありと伝わってきた彼女の恐怖が、怯えが、虚構とは思えないのだ。
俺は日報を書くのもそこそこに、店舗の電気をすべて落として休憩室へ。
下半身だけを寝袋に入れる。
耳を澄ます、地下にはまだ音が残っている。人の気配に囲まれてるような気もする。俺は土の中の幼虫のように息を潜める。
誰かが入ってくるのではないか、そんな疑念が浮かぶ。
無駄な怯えだ。入り口の施錠は何度も確認したはずだと己に言い聞かせ、闇の中で己の思考に沈んでいく。
俺が語りかけていたセラが、実在の人物である可能性はあるか。
可能性1 同姓同名。
櫟という名字がどのぐらい珍しいのか知らないが、大学やサークルまで同じとは考えにくい。
可能性2 櫟セラという偽名を使っている。
何らかの理由で俺に嘘をつこうとして、事件の被害者の名前を使った……。
いや、その名前は仲良川が調べたから分かったことだ。大きな事件だったらしいし、名前ぐらい噂で知られてても不思議ではないが、だとすれば俺に対してそんな偽名を名乗る意味がない。俺が雑誌か何かで櫟セラの名前を見ていたら、彼女の死を知っていたら虚言だと分かってしまう。
可能性3 ルール。
「……ん、そうか」
そういうルールが存在するとしたらどうか。
名前を尋ねられたら櫟セラと名乗れと。そしてこのルールは相手に伝えてはならない。それが地下の壁に書いてあったなら。
「それなら説明できる……のか?」
セラの置かれている状況は、明らかに実際の事件の被害者になぞらえてある。犯人は過去に起きた事件の再現を……。
そうなのだろうか。
そんな複雑な話なのだろうか。
あの人物が、櫟セラ本人ではないのか。
背中に汗をかくのを感じる。思考が危険な方向に進んでいる。虚構と現実が混ざり合い、常識の崖から俺を突き落とそうとする。
当たり前に考えれば、やはりあれは黒日の言っていたサバイブ、事件を元にしたゲーム……。
俺はスマホを開く。
履歴を確認する、やはり無い。
例の短冊を取り出し、QRコードを撮影、ブラウザに移行すると画面は闇色に染まる。赤黒い液体でスマホが満たされるような感覚。
このページは履歴にも残らないし、タブを閉じることもできない。こうしてコードを撮影して移動するしかない。
この仕様は何だろう。サバイブとやらが違法なもののため、スマホに証拠が残らないようにされてる、と説明できるだろうか……。
――セラ、そこにいるか。
文字を送る、しかし返事がない。もう眠っているのだろうか。その場合、彼女はメッセージに気づけるのか。
――セラ、見てるなら返事をしてくれ。
俺の刻んだ文字が、闇の中で震えるように見えて。
【ここにいる】
ぱっと言葉が浮き上がる。気づいてないのではなく、反応が遅れたのだろうか。
――準備はできたか? 昨日言ってた場所に。
【あそこは登りたくないな……】
言葉の表示がやや遅い、ゆっくりと喋っているように思える。
――どうして。
【あそこは、なんだかとても怖い。よくないことが起きそうな気がする】
……。
これも、ゲームだろうか。
容疑者を尋問するゲームのように、彼女を勇気づけて登らせる言葉の遊戯だと、そういうことなのか。
俺は少し嗜虐的な気分になっている。彼女の存在の曖昧さがそうさせるのか。
お前は本当に櫟セラなのか。
地下空間にある団地、そんなものが実在するのか。
そう聞いてしまえば彼女はどう答える。ゲームの住人であってもとぼけたり、怒ったりするのか。
それは俺とセラとの関係を決定的に壊す気がする。壊してしまいたい衝動に駆られる。
だが万に一つ、本当に人間だったなら。そして俺の肌感覚は、まだセラが人間だと訴えている。俺はゆっくりと文字を打ち込む。
――落ち着かないなら、少し話でもしよう。
【ええ、そうね】
俺は闇の中で指を動かす。空調の重低音、どこか遠くのパイプを流れる水流の音。人のざわめきに似た何かの音。
セラは地上のことを知りたがった。最近のニュースや、流行っているもの。だが俺はあまり答えられない。
自分のことがニュースになってるかも気にしていた。気の毒だが、短大生が行方不明になってもニュースにはならないだろう。
――高校ではバスケ部とか言ってたな、ポジションはどこなんだ。
【スモールフォワード。他のポジションと兼任する人もいるけど、うちは層が厚かったから2年から引退までずっと固定だった】
昔に読んだ漫画だと、主人公のライバルがいたポジションか。別に不自然さはないが、あまり深いことを言われてもこっちが分からない。
好きな食べ物、テレビ番組、ペットは飼っていないが、社会人になったら猫を飼いたかったこと。彼女はごく自然に受け答えをする。
【庭野さんは、どんな子供だったの】
逆に問われて、俺はふと答えに困る。俺はどんな子供だったのだろう。昔のことを思い出すことはあまり無い。
――あまり覚えてない。ごく普通の子供だった。家ははっきりと貧乏で、いつも同じ服を着てるのが恥ずかしかったな。家族旅行もあまりなかった。
――だから都会で稼げる仕事がしたくて、高校を出てすぐ上京して働きだした。
そう打ち込んでみると、自分のことを俯瞰して眺められる気がした。
俺は金を稼ぎたかった。というより、金が無いという状態から逃れたかった。
それは、親が。
――両親が、いつも金が無いと愚痴ばかり言ってて、だから家を出たかったんだ。
【そうなんだ、ごめんなさい、話したくないこと?】
――いや、別に。
実家のことを思い出すのは10年ぶりな気がする。俺にとってはどうでもいい家だ。
なぜ金が無かったのかと言えば、父親がギャンブルに狂っていたからだ。
パチンコと競艇、毎月何万も負けて、それでいて友人たちと飲み歩いていて、酔いつぶれた口で風俗のことを話すような親だ。
母親はといえば買い物が趣味だった。最新式の家電だとか、どこかの現代作家が作った置き物だとか毎週のように買ってくる。それでいて両親とも、金が無いと愚痴ばかり言っていた。
借金も多かったように思う。親戚から何度も金を借りて、消費者金融にも手を出していた。そして両親同士で金遣いの荒さを罵りあった。
そういう醜い場面はなるべく俺に見せないようにはしていたが、中学に上がる頃には察していた。この両親には救いがないと。
別に貧乏なことはいい。耐え難いのはあの愚痴だ。世の中が悪い、政府が悪い、競艇選手が悪い。お前の無駄な買い物が、あなたのギャンブル狂いが悪い。すべての責任を他者に押し付ける言動は自虐的でもあり、常に自分を愚者の立場に置こうとしていた。愚者でなければ死んでしまう危うさがあった。誰かを罵ることをやめれば、その矛先はすぐさま己に向くと分かっている。だから攻撃をやめられない。その姿が耐え難かった。
【辛かったのね】
セラの言葉が表示されて、俺は少し意識が停滞する。今、俺はどこまで話しただろうか。何年も思い出してすらいなかったことを、とても長々と話した気もする。
全部は話してないはずだが。
――今は楽しいよ。給料もいいし、店を任されてるし。
そうだ、俺は過去を振り切ることができた。
ならばセラにも勇気を出してもらうべきかと、そんな信念が心に浮かぶ。
――セラ、怖いかもしれないが、脱出しなければ未来はない。頑張るんだ。
沈黙。
――大丈夫だ、何も起きやしない。俺がついてる。
【ほんとう?】
彼女が俺の方を向いた、奇妙だがそんな気がした。
闇の中で幻視する。彼女はゆっくりと腰を上げる。
【いちおう準備はしてたの。カーテンを使って袋を作って、明かりとか、他のいろいろな……荷物とかを入れて】
食料もあるのだろうか。過去の事件を再現するなら、地下室には大量の缶詰があるのだろうか。
そうだとしたら言いたくないのは奇妙だが、それについては言及しない。
今はただ、彼女の決意を応援しなければ……。
【もう一度、行ってみるよ……あの場所に】