第七章・3
「こんな場所では話に身が入らぬな」
臥空は立ち上がって言う。
「奥へ案内しよう。お前たち、この須銭寺には櫟セラの呪いから逃れるために来たのだろう」
「……まあな、あたしはまだそこまで影響ねえけど、連れが少しやばい」
「ならば見せるべきものもある」
私たちは寺の奥へ向かう。
進んでいくと和風の建築ではなくなって、近代的なオフィスや白塗りの廊下などが続く。やたらと入り組んでいて、真っすぐに見通せる距離が短い。
匂いが。
鼻がむず痒い。この奇妙な匂いは何だろう。あまり奥へ行きたくない。
「臥空っつったか、あんた以外の人間はいないのか」
「おらぬ」
中庭のような場所を通りがかる。20メートル四方ほどの空間だが土しかない。雑草がまばらに生えているぐらいで、隅には土の山が、いくつか。
あの土の山は何だろう。名前がとっさに出てこない。よく知っているもののような気もするが。
前を歩く臥空と金咲は会話を続けている。
「ここは寺社であると同時に研究機関でもあった。優秀な僧が集められ、宗教をミームとして強化する試みが行われておったのだよ」
「ミーム?」
「宗教観というものが売り物になる。そう考えた者がいた。事の始まりは京都であると言われるが、おそらくは800年以上前のことよ」
広い空間に出る。
そこは博物館のようになっていた。仏像があり、キリストの像があり、さまざまな宗教の彫刻やタペストリがある。
ガラス張りの巨大な陳列スペースがあり、無数の図画が貼られている。この円が重なったものは曼荼羅
というのだったか。経文らしきものや見取り図のようなものも。
「これは……文字曼荼羅ですね」
「そうだ。宗教の開祖となるような徳の高い御方が、自らの宗教観を表現したものだ。寺院においては立派にご神体となりうる品だな」
もちろん読めはしない。そして先に進むと、一見して日本語に見えないものが出てくる。楽譜のようなもの、双六のようなもの、色鮮やかな布をパッチワークのように繋ぎ合わせたもの。
それらには規則性のようなものを感じた。けして適当なものではない。私が想像したこともないような深遠な世界観を表現していると。
金咲はそれらを一瞥して言う。
「新興宗教で儲けるなんて平成の発想だろ」
「もっと昔からだ。何百年もの研究でさまざまな宗教観が生まれたようだが、その中でももっとも効果の高いものがオブサリ様だったという」
臥空は立ち止まる。
左右に仏像が並んだ空間。そうとしか表現できない場所だ。木彫のものや石彫のもの。ブロンズ製のものもある。おそらくは実在の寺から集めてきたと思しき仏像。いったいどこからこれだけ集めたのか。集めることにどんな意味があり、どれほどのコストを払ったのか。
「時に娘よ、宗教を数値化し、比較するならば、それは何によって測れると思う」
「そりゃ……まあ、信者の数だとか、寄進されるカネとかだろ」
金咲のそのような答えには、どこか歯噛みするような言い淀みがあった。頭に浮かんでる答えはとても口に出せない。そんな気配が。
臥空は首を振る。
「その宗教にどれだけ殉じられるか、つまり、どれほどの人間を殺せるかよ」
「馬鹿げてる!」
金咲はそれを予感していたのだろう。臥空の話は、つまりは櫟セラの呪いに繋がるのだから。
櫟セラ。あれはミームであり、一種の宗教観なのだ。
「オブサリ様は死者を導く神。死後の永遠を約束する神なのだ。奥賜の村にてこの宗教観は醸成されていた。あの村の者はな。チノクラという場所に降りて生者でも死者でもないものになる。そしてオブサリ様が連れ去ってくれるのを待つのだ」
「ただのバケモノだろうが! なんでそんなもんのために死ななきゃいけねえんだよ!」
「バケモノと神など表裏一体のものよ。オブサリ様はあの村で醸成され、そして大いに利用された。天文学的な金があの村に集まっていた」
「金? どうやってだよ」
「お主が言っておったことだろう。強力な宗教概念は多くの寄進を招く。オブサリ様の力を信じて大勢の富豪どもが全財産を投げ出したらしい。わしが雇われる前の話だがな。奥賜の村とはそういう村なのだ。奥とは真理の奥。この世の果てのさらに最奥の救いを賜る村。あの村はそうやって富を集めてきたのだ」
「ふざけたこと……」
オブサリ様は死者を連れ去る神。無ではない永遠が約束されるから、全財産を投げ出す。
理解できない。連れ去られるって、どこへ。永遠の責め苦かもしれないなら、無になったほうがよほどマシではないか。
無の、ほうが。
私は死んだら、無になったなら、その先どうなる?
怖気が走る。
そんなことで悩むのは馬鹿げている。子供のような恐れだ。誰だっていつかは死ぬのだ。死ねば無になって、いつか生まれ変わることを……。
生まれ変わり、それもまたミームだろうか。私はその考えに縋っているのだろうか。それは、いつから。
冷静に考えればそんなものはすべて架空の。いえ、でも。
「オブサリ様の伝承は数百年続いたようだが、それはまだ中途段階と考えるものが現れた。さらに強いミームが生まれうるとな」
私は回廊を歩いている。
さっきの場所から移動したのだ。山の斜面が変わらず左に見えているから、さらに奥へ奥へと向かっていることは分かる。私は混乱の中で時間が飛ぶような感覚を覚える。
あの奇妙な、臭気が。
強く。
「20数年前、オブサリ様よりももっと強力な存在が研究され始めた。さらに多くの僧や学者が集められた。薬物や催眠術についても研究されていたようだ。そして生まれたのが櫟セラのサバイブだ」
「そんなもん作ってどうすんだよ」
「さあな。中心にいた人物には考えがあるようだった。増えすぎた人類を減らしたいとか、世界の富を独占したいとか、そんなところかも知れぬ。少々、手に余るものが生まれたようだが」
回廊は一本道となる。板張りで、屋根のある渡り廊下のようなものがえんえんと伸びているのだ。歩くたびに床がきしむ。文明世界からどんどん遠ざかるような不安を覚える。
左右は開けていて、盛り上がった土の山が。
あれは何だろう。
「おい、全員埋められてんじゃねえか」
金咲の声が私の意識を起こす。そうだ、あの土の山は。人が。
それを不自然なことと思えなかった。恐ろしいと思えなかった。あまりにも何度も見てきたから。もう、当たり前の光景に。
ぐっと唇を噛む。いけない。意識が傾いている。
無意識が変異する。生き埋めという世界観にずり落ちていく。これが櫟セラの呪い。
「わしがオブサリ様を回収して戻ってきた時、すでに半数が埋まっておった。残りの者も耐えられなかった。職員はすべてのネットワークを隔離し、櫟セラに関する資料を焼いたが、それでも逃れられなかった」
「一度でも触れたら逃げられねえってことか」
「それだけではない、空だ」
廊下が終わり、お堂のような建物に至る。
悪臭が。
もう明確に分かる。この中には凄絶な何かが詰まっている。
「空を飛ぶ波長の中に櫟セラがいる。電波となって人の無意識に語りかけておるのだ。認識を補正し続けなければ、必ず生き埋めという結末に向かう。それが櫟セラだ」
扉が開き。
死体、が。
毒々しい紫色、しめ縄で囲まれた空間に。
手足が折り畳まれ、苦悶の表情を張り付け、煙で燻されたように黒ずみ、そして黒ずんでいない部分が腐り始めている。
それは醜く、矮小で、不快さを放ってやまない。死してなお辱めを受ける存在。
怨みに満ちている。これに関わったなら、どこまでも追ってきて、死んだあとにどこかに連れ去られる。それほどにどす黒い怨念。
融けている。
耐えがたい悪臭を放っている。部屋の隅では複数の空気清浄機が動き続けている。消臭剤の詰まったボトルも置かれている。そのおぞましい光景に足が震える。
「おい……この腐ってるやつは」
「オブサリ様よ。奥賜の村から回収してきたが、櫟セラのミームを遠ざける力がある。仏門の教えとオブサリ様、この二つでわしはかろうじて櫟セラの呪いから逃れておる」
眼球はとっくに失われ、黒のまだらの中に緑や紫が混ざり、泡立つような、裂け目のようなものが全身に。
それ以上はとても直視できない。これはただの腐敗した死体だ。神様などであるはずがない。
「……あん、た、この死体に祈ってんのか」
「左様。わしもまだ生き埋めになる気はない」
「防腐措置とか、しろよ、冷凍庫、とか……」
金咲も途切れ途切れに話している。この匂いには耐えかねるのだろう。
「できぬな。オブサリ様が最も力を強めるのはその身が朽ちゆく時。醜悪さと悪臭こそオブサリ様の本義なのだ。煙でいぶすことは表面の腐敗を遅らせる効果があるが、完全に腐敗を止めてしまっては霊験が薄れることが分かっておる。そんなに丁重に扱ってはいかんのだ。ぞんざいで、非礼でなくては」
「腐るままにしとくって言うのかよ」
「虫は沸かぬようにしておる。だがわしも読経を上げておって分かる。この醜怪さと悪臭がオブサリ様のミームなのだ。死してなお苛烈な仕打ちを受ける神。怨嗟こそがオブサリ様なのだからのう」
つまり、このお坊さんは、これからもこの死体と付き合っていくと言うのか。完全に腐ってしまうまで。
「馬鹿げてる……腐った死体じゃねえか、どこが神なんだよ」
「そうかのう。人の死して朽ちるまでとは仏教において重要な意味を持つ。九相図というのを聞いたことがあるか。人が死んで腐り、骨となり土となる。それを学ぶことこそ死へ臨ずること。オブサリ様はこれでさまざま宗教観を背景にしておるのよ」
嫌だ。
分かりたくない。
この死体は恐ろしすぎる。静かで安らかな眠りではない。オブサリ様もまた呪いだ。私たちに無限の怨嗟を投げつけている。
「お主らも祈りを上げるがいい。これに祈り続ければ、櫟セラの呪いを遅らせるぐらいはできる」
「……付き合いきれるか。もういい、帰るぞミヨ」
身を反転させ、お堂を出ようとしたところへ、声が。
「櫟セラの呪いを、跳ね返した者がおる」
金咲が足を止める。
くるりと振り返って、つかつかと臥空の直近まで。
「与太話じゃねえだろうな」
「わしはな、櫟セラの呪いをほうぼうにばら撒いた。さまざま人間があのQRコードを見つけ、櫟セラの呪いを受けた。それを観察し、上に報告することもわしの仕事だった」
「上って、この研究所か」
「黒日卒」
私ははっとなる。黒日、その名前って。
「日ノ本を牛耳っている女と言えばおおむね間違いではない。奥賜村とは日本の暗部の中枢であり、それが産み落としたのが黒日の家。そして黒日卒だ。あれはまさに卓抜の極み。表に裏にこの国を支配していた」
「そんな漫画みてえなやつがいるかよ!」
「お主の想像も理解も及ばぬ。黒日の家が特別に資産家だったわけでもなく、黒日卒という女を知っているものもそう多くはない。だが、この日ノ本が大きな決断をする時、その決断は必ず黒日の家と同じ決断となる。そういう家であり、人物なのだ」
そんな、黒日って、まさか同僚だった黒日くんの関係者。
いえ、もしかして、お母さん……?
「お主が聞きたいのはそんなことではなかろう。呪いを跳ね返した人間についてだ」
「黒日透には効果が薄かった。黒日の家ってのにカギがあんのか」
「それは奥賜村の者だからだ。オブサリ様の影響を受けておったからな。だがそんな理屈ではない。わしの語ろうとしている人間は黒日の家とも奥賜村とも関係がない。ごく普通の男であり、特別な宗教観や死生観など持ち合わせておらなんだ。だがわしの知る限り唯一、襲い来る櫟セラを殺したという」
「な……!」
金咲の反応は大きかった。爪先立ちになって今朝の襟首をつかむ。
「教えろ! どうやったんだ!」
「その者のことは観察していた。ごく普通の警察官であり、櫟セラのサバイブをプレイしていた。そして運命に導かれるように深い穴蔵に放り込まれた。その穴で死に、櫟セラに連れ去られたと思うておったが、数週間後、この寺を訪ねてきおった」
警察官?
そんな話をどこかで聞いた気がする。いつの事だったろう。
「その男は言った。あんたは……つまりわしだが、あんたはこの世界がどうなるか知ってるんじゃないのか、と。わしは其奴に尋ねた。なぜ死んでおらぬのかとな。奴は櫟セラの呪いを跳ね除けたから、あの女を殺したからだと言った」
跳ね除ける。
耐える、とか治療する、ではないのだろうか。私は言葉の端々を聞き漏らすまいとする。
「その話を聞かせてくれと言ったが、法外な金を要求してきおった。払えぬことはなかったが、わしは突っぱねた。その頃はわしは呪いに侵されぬと思っておったからな」
「そいつはどうしたんだ」
「金を持ってきたら話す、と自分の居場所を言って帰っていった。その後にこの寺でも呪いが深まり、わし以外の全員が生き埋めになったのだ。わしは奴を訪ねるべきかと思ったが、もはやオブサリ様のもとを離れることは難しいようだ」
「その居場所ってのは」
「人の手により作られた、この世の底の底」
臥空はにやりと笑って言う。
私たちの向かう運命に、皮肉の冷水を浴びせるかのように。
「名を、トコヨノクラという」




