第七章・2
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翌日、私たちは山を登っていた。季節はぬるい春を過ぎて梅雨の手前、酷暑の予感が迫るころ。蒸されたような草いきれとぬめる土の感触、空は灰色の雲に満たされている。
登山口から入って山の中腹をぐるりと回る道。標高400メートル前後でアップダウンは少ない。先を行く金咲はかなりの健脚だ。通常の荷物に加えて、やはり電源装置を背負っているのに足取りは早く、山道をぐいぐいと進んでいく。
私も山登りは趣味程度にやるけれど、もし山頂を目指すような行軍なら彼女にはついていけなかったかも知れない。
「あとどのぐらいかな」
「1時間半ってとこだ。キックボードで行ければよかったんだけどな」
目的の須銭寺には車で行ける道もあるが、つづら折りになっている急坂のポイントがあり、キックボードでは登れなかった。
「金咲さん、山に慣れてるね……」
「いろいろ登ったからな。冬の日本アルプスも登ったし、羊蹄山とかも行ったし」
私は、彼女のことを取材したことがある。
櫟セラは高校ではバスケ部に所属し、大学ではサイクル同好会だった。登山などもこなすアクティブな人物だった。
彼女はとある事件、世間的には女子大生生き埋め事件として知られる事件の被害者であり、半年ほど密閉された地下空間にいた。
脱出を果たし、自由の身となった彼女は、雑誌記者となって自分の事件を追っている。そこまでが彼女のストーリー。
記者として私の前に現れた櫟セラは、アクティブではあってもスポーティな人物には見えなかった。ひどく痩せていて目がぎらぎらと光っていて、獰猛な人相がいつも張り付いている。
私は、そのことを少し奇妙に思う。なぜ彼女はサバイブの中の櫟セラと違うのだろう。
サバイブの中の櫟セラは。おとなしく物静かで、時として知的で人の心を見透かすような顔をする。
櫟セラは本来そんな人物なのだろうか。今の彼女。金咲星と名前を変えた彼女はひどく変貌してしまった姿なのだろうか。
「見えたぞ、あの寺だ」
緑なす山の中腹。大きな蜘蛛のように存在する寺。
なんだか奇妙な眺めだった。古さびた山寺をイメージしていたが、大きな駐車場やビルなどもある。山道に突然、ひと区画ほど町が現れた印象だ。
「あの寺はネットワークに乗ってない」
「え?」
「宗務庁への登録もない。仏教らしいが宗派もよく分かんねえ。まだ未登録の新興宗教に近いらしい」
「新興宗教って、もっと都会にあるものじゃないの」
「共同生活体かもしれねえ。独自の宗教観を持った連中が集まって、仏教の新しい派閥を興そうとしてたとか、そんな感じかもな」
新興宗教にもいろいろある。ゼロから新しい神様を創り出すものもあれば、仏教系やキリスト教系もあるとは聞いている。
そういう情報、ニュースの切れ端のような知識は私の中に散在している。私の中にはジャーナリストを目指していた自分もいる。櫟セラを取材したこともその一部。そういうジャーナリストとしての私は、今はどこに行ったのだろう。将来など考えている余裕のない身の上ではあるが、ジャーナリストとしての私は消えてしまったのだろうか。
私たちはしばらく歩いて、その寺までたどり着く。
10トントラックでも潜れそうな立派な門構え。建物は複数あるが、正面から見れば宗教建築が並んでいる。本堂、講堂、僧坊などだろうか。
「これ……だいぶ古いお寺じゃないの? あの建物とか真っ黒に色褪せてて」
「もともと縁起を失った寺があったのを改修したんじゃねえのか。知らねえしどうでもいいよ。それより坊さんいねえのか」
金咲はいつもと変わらない。物おじせずにどんどん踏み込んでいく。
彼女は私との間に起きたことについて何も言わない。昨夜のことも。何も言わず接してくれる。昨日のことは二人の関係性に影響するものではなく、私の抱える不安を、呪いを癒すための手当ての時間だと割り切ってくれているのか。それとも、何も気にしていないのか。
山鳥が鳴いている。砂利のすき間には花も咲いている。中に進むとちょっとした池などもあり、蓮の葉が浮いて、石で彫られた猿などもある。
人はいない。建物をつなぐ回廊には木の葉なども落ちていて、あまり手入れはされていない雰囲気がある。完全に無人と言うほど荒れてはいないが。
「ずいぶん広いね……建物もたくさんある」
「坊さんの生活空間があるんだろ。オフィスとかもあるんじゃねえのか」
道は複雑で、建物の影になってて先が見通せない。私たちは何度も曲がりながら人を探す。
ばさり、という音が聞こえる。大きくて薄いものが風で動く音だ。金咲がそちらに向かう。
20畳ほどの広間だった。仏像があり、それを囲うように腰の高さの柵があり、部屋の隅には座椅子が重ねて積んである。法事でこういう空間に何度か入った気がする。
そして部屋の周囲には、掛け軸が。
地獄の絵だ。閻魔大王がいて、裁きを受ける死者がいる。彼の生前の行いが浄玻璃の鏡に映される。
掛け軸の下方では攻め苦を受ける罪人がいる。鬼に舌を抜かれ、煮え立つ大釜に落とされ、針の山を歩かされる。
同じような掛け軸が十幅、もっとあるだろうか。炎の赤が室内全体に散らばっている。
「ご開帳ってやつだな、地獄絵図をこうして張り出してんだ」
「それ……お盆とかの話じゃないの? 少し早いような」
「知らね。そういう寺もあるんじゃねえのか」
よく見れば地獄の風景ではない絵もある。飢饉を描いた絵、妖怪を描いた絵、火山の噴火に洪水、あらゆる災いの形が描かれている。ということはこれはご開帳ではなく、保存してある掛け軸の陰干しとかそういうことだろうか。
絵の中の亡者たちは苦悶の表情。膨れた腹、まともに動かぬ手足、飛び出した目玉、うめき声が聞こえてきそうだ。
「ねえ、出ようよ……」
「ああ」
絵の中の死者たちが放つ濃厚な気配、私は内臓がせり上がってくるような圧迫感を覚え、部屋を出る。
首吊りが。
「……!」
息が詰まる。声が上げられない。白装束を着た女が、井戸の上に。
違う。これは絵だ。
井戸の底から浮かび上がってくる女の霊。顔は瘤だらけで真っ青になっている。髪はぼさぼさに乱れており、白装束はすりきれて、それでいながら目が異様に白く。怨みのこもった眼光を私に向ける。真っ直ぐに浮かぶ姿が首吊りに見えたのか。
声の塊が肺から喉をせりあがり、悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れる。私は腰から倒れて足をばたばたと動かす。
「おい落ち着け」
ばん、と背中を叩かれる。肺から空気が吐き出される。
「幽霊画ってやつだ、番長皿屋敷だな」
言われてみれば、確かにそれも掛け軸。
皿を持った白装束の幽霊。その湿度というのか霊気というのか、悄然と憂いに沈む顔でありながら激しい怒気を併せ持つような筆致。これが幽霊画というものかと、その凄みを理解する。
しかし、この絵。
それは回廊の手すりの上、屋根のひさしから吊り下げられている。
私達は廊下を曲がって地獄絵図の部屋に差し掛かった。幽霊画を右目で捉えて、背中を向けて歩いたことになる。そんなことがあるだろうか。
あるはずがない。こんな絵に気付かないはずがない。
「か、金咲さん、これって」
「ああ、ふざけやがって、誰かが遊んでやがる」
私達が地獄絵図の部屋に入ったとき、この幽霊画を吊り下げた人間がいる。
何のために? 分からない。
だけど、誰かがいる。
「おい出てこい! ふざけてるとタダじゃ済まさねえぞ!」
金咲が腹筋から声を張り上げるが、何の反応もない。まだ尻もちをついてる私を尻目にどかどかと歩き出す。私も慌てて立ち上がる。
その時、凄まじい音圧が。
耳から脳を揺らし、風景がぶれるような感覚。
読経だ。大音量で館内全体に鳴り響いてる。高齢の僧のようなしわがれた声。非常識なほどの音量は徳の高さなど感じない、何かの責め苦のように思える。
よろめきながら進めば、風景が変化している。
あらゆる場所に衝立、屏風、掛け軸が飾られ、そのどれもが地獄の絵。幽霊の絵。天変地異の凶相を描いている。むせ返るほどの死の気配。亡者の叫び。怨嗟のまなざし。
「くそっ! どこいやがる! 火いつけるぞ!」
金咲が叫んでいる。これらはさっきまでは無かったはず。私達が通り過ぎたあとに置かれている。なぜ? 何のために?
目を覆うような深紅の日本画。狂気と暴力を描いた油彩画。仮面まで飾られている。その表情は虚無。永遠の停滞と不変を感じる。誰かのデスマスクだろうか。
「か、金咲さん、帰ろう。マトモじゃないよ」
「今さら絵でビビってられっか! それよりおちょくられてんのが許せねえ!」
数人の手に押さえつけられるような音量。居並ぶ怪奇の芸術。曲がりくねった回廊が方向感覚を失わせる。頭がくらくらしてくる。
私たちを排除したいの? それとも攻撃しているの? 分からない、なぜこんな。
「うるっせえ!」
大部屋の一つにて金咲が叫び、部屋の隅にあったスピーカーにテーザーガンを撃つ。数十万ボルトという電圧を受けた機械は金切り声をあげて沈黙。
私はそれを見て思いつく。
「どこかに放送機材があるはずだよ、それを止めれば」
「探すのがめんどくせえ! こっから配線に過電流かけてショートさせてやる! いやそれよかコンセントを短絡させてブレーカー落としてやる!」
ドライバーを取り出し、部屋の片隅にあったコンセントのネジを外そうとする。
そこで、音が止んだ。
放送が止まったのだ。同時に、どかどかと廊下を踏み鳴らす音が近づき、ふすまを開ける人物が。
「粗暴な娘だ」
ごく短く詰めた黒髪に袈裟を着た僧侶風の人物。金咲はもちろんその人に食ってかかる。
「てめえ!」
「落ち着け娘、ただの治療だ」
テーザーガンの電極を入れ直してたら撃っていたかも知れない。僧侶風の男はその場にどかりと腰を落とす。
「そこの娘、櫟セラの呪いを受けておるだろう」
私を目だけで示して言う。私は僧侶の視線から身を守るように腕を体の前に出す。
「そ、そうです」
「お前もだな、金咲、いや櫟セラ」
言われて、金咲がはっと固まる。
「てめえ、なんで知ってる」
「愚か者どもめ。かつて奥賜の村で死にかけてたのを救ってやったのはわしだ。あの黒日透という男に感謝するがいい」
奥賜村でのこと。
黒日くんの生家を調べていたら、妙な匂いを感じたと思った瞬間に全身から力が向けた。次に気づいた時は別の家にいて、全身が血とも泥ともつかないもので汚れていたのだ。
そして、黒日くんはいなくなった。
警察に捜索願も出したけど、その頃は警察も行方不明者の届けが多すぎて手一杯だったし、今は警察自体がほとんど機能していない。
あの地下に通じるマンホールは溶接されていた。金咲はそれでも工具を使って無理やりこじ開けたけど、中は何メートルもコンクリートが詰まっていて、とても調べられなかった。
「てめえ、あの村にいたのか」
「話を急ぐでないわ」
今度は芯の通った声だった。目の前で銅鑼を打たれるような音圧。金咲もぐっと黙る。
「先に説明しておく。そなたたちに見せた地獄絵図のたぐいはな、認識の汚染を治療するためのものよ」
この部屋にもある。やはり20畳ほどの広間で、脇には座卓や家電のダンボールなどが置かれている。物置のようだが、やはり地獄を描いた掛け軸、幽霊画、油彩画などが。
「これが何の治療なんだよ」
ふてくされたような金咲。だけど分かる。声のトーンが落ちてる。金咲は何となくそれらの意味を悟ったのだ。
「櫟セラとは既存の宗教観ではない新しいものだ。人の人生を生き埋めという結末に収束させ、死して後にどこかへと連れ去る概念。それを治療するためには、別の宗教観を強く植え付ければよい。地獄の概念。霊魂の概念。輪廻転生。厭離穢土欣求浄土、まあ何でも良い。心に訴えかける宗教的なものなら何でも良いのだ」
確かに、これらの絵は恐ろしいけど、それは櫟セラの呪いとは異質な恐ろしさだ。
私がこれらの絵に感じたものは、子供が恐れるような原初的な恐怖だ。それは思い返してみればどこか懐かしく、ある意味では健全なものにも思える。
「音と唐突さで心を揺さぶり、視覚で訴えかけるのよ」
「じゃあ、これで呪いが消えるのか」
「残念ながらそこまではない」
僧侶は袈裟の下で立て膝をして、手には青銅製の小さな鈴を持っている。それをちりんと鳴らす。
「あの呪いはあまりにも強い。人間の精神性を凌駕しておる。この寺はせいぜいその侵食を遠ざけるのみ」
「あんた何なんだ。奥賜村に出入りしてた僧侶ってのはあんただな」
「左様。名を臥空という。お前たちは覚えておらぬだろうが、会うのは……何度目かだな」
私を見て言う。
そう言えば私も何度か見ている。あの居酒屋で見かけたお坊さん。
いや、この人はお坊さんと言えるのだろうか。この奇妙な場所は寺社と言えるのだろうか。
そして、何だろう。
ずっと消えていない、この違和感。
そうだ、人間が少なすぎる。世の中からごっそり人が消えているから気づくのが遅れた。
この寺もまた、異様に人が少ない。少なくとも気配は感じない。
それが意味する、こととは……。




