第七章・1
夜は嫌いだ。
父のことを思い出すから。
それは断片的で、悲しくて、何の役にも立たない雑然とした記憶。新聞のスクラップが趣味だった父。それを紐解くことのなかった父。
人生に示唆を与えるような言葉をもらったこともないし、大きなものを成し遂げた人でもない。でも現実的な父親はそんなものだろう。平々凡々と、誠実にたくましく生きて家族を養う、それが何よりも立派なことだと皆は言うだろう。私もそれは否定したくない。
だが、流れる時の中でふと立ち止まるとき、思い出すのは父の姿だ。新聞記事のスクラップに囲まれていた父。ニュース用語を何も知らなかった父。それを愚かな教訓として思い出してしまう。
人間に、たくさんの情報は必要ない。
それは一つの真理として私の中にある。これもまた生きるための指針。父が私に与えてくれた宝。
反面教師。あるいは親と子の関係としては真っ当なものかもしれない。
私は情報を持ちたくない。
情報は、私にとって毒になるから。
※
目を覚まして天井を見つめる。鼓動の速さを意識する。
夢は見なかったはずなのに、夢の中でずっと逃げていて、命からがら現実へ飛び込んだような感覚。全身にじっとりと汗をかいている。
同居人の姿を目で追う。イヤホンをつけてテレビに向き合っている。小柄で猫背。標準よりもかなり痩せているのにその背中には存在感がある。何かに常に怒っているような気配。それは錯覚では無いかもしれない。
「金咲さん」
「ん、起きたか」
テレビを消す。私はテレビを見ると混乱してしまうので、見せないようにしてくれてる。
「ごめん、寝過ごしたみたい。すぐご飯作るから」
「その前にお前、汗びっしょりじゃねえかシャワー浴びろよ」
確かにそうだった。私は寝床から出るとシャワーを浴び、服をすべて新しいものに替えて、インスタントと冷食でご飯を作る。品数は多めにするようにしてる。毎日たくさん移動するし、昼と夕方にちゃんと食べられるか分からないから。
金咲はメンチカツと冷凍の餃子を食べながらスマホで新聞を読んでる。紙媒体の新聞はもう残っていないが、なぜかネット配信は健在だ。内容は以前とあまり変わらないという。
「今日はどうするの」
「S県の寺に行く」
お寺? 私は首を傾げる。
「奥賜村に出入りしてた僧侶がいたらしい。そいつがS県の須銭寺ってところの僧侶だと分かった。取材に行く」
金咲は出かける時に取材という言い方をする。もう週刊新柳なんて雑誌が刊行されることもない気がするけど、取材とは彼女の立っている足場のような言葉なのだろう。
「そう……お弁当作るね」
「ああ、でけえの頼む。途中まではMEVで行くけど、泊まりになるかもな」
本当は金咲だけで行くほうが身軽なのだろうけど、私も同行しないわけにいかない。
もし一人になってしまったら、私はどうなるか分からない。今の私は百万キロの綱を渡り続ける道化師のようなもの。一瞬でも気が緩めば、私はきっと綱から落ちてしまう。
MEVとはマイクロEV、いわゆるマイクロモビリティと言われる小型の乗り物だ。マンションの駐車場とか駅前などに何気なく置いてある電動キックボード。私たちはそれに乗って国道を走る。
道路に車は少ない。以前の十分の一もないだろうか。大きな交差点に差し掛かって、数台の自動車が同時に見えていると少しほっとする気持ちがある。
世の中は、奇妙な恒常性を見せて動き続けていた。
表向きは誰も混乱していない。あらゆるものの規模が縮小して、溢れるほどいたはずの人々がごっそりと消えて、それに対して誰も何も言わない。
異常なことだと思えない。
変化が起きたことすら意識していない。商業というものがほとんど成り立たなくなっても。
私はその変化を目にしている。呪いが広がり始めた時期から見ている。だからかろうじて認識できている。でもそれは、けして幸運とは言えなくて。
「ミヨ! 耳ふさげ!」
はっと気づく。慌てて電動キックボードを停めて。強く耳をふさぐ。
私の横を、野菜を積んだトラクターが通り過ぎる。住宅地へ食料を売りに行くのだろう。
その車体から流れる行商の声が、ぼわぼわとした厚ぼったい音声となって耳に届く。
私を埋めようと。
この世のすべての人間に対し、私を地の底に埋めろと命じるアナウンス。
そんなはずはないと分かっている。
でも。その音声を聞くわけにいかない。
私は頭を押しつぶすほど強く耳を押さえ、その場にうずくまって、音が通り過ぎるのを待つ。
い
聞こえる。
生き埋め、と言っている。
ありえない。誰も私を襲ったりしない。私も埋まりたいなんて思ってない。
意識が引っ張られる。音から逃れたいのに、全身全霊で音を聞こうとしてる自分がいる。
音が通り過ぎて、私はゆっくりと手をはずす。
「ミヨ、大丈夫か」
「うん……」
仲良川深佳だからミヨ。金咲は私をそう呼ぶ。そう呼ばれることで私は私の実在を確かめる。まだこの世にいると分かる。
私は、呪われている。
肉声ではない音声を聞くことと、文字を読むことができない。そういう呪い。
「急ごう……暗くなる前に着けるかな」
「いや、何度か充電するから明日になるな」
私は呪いから解放されたい。
そのはずだ。
そのはずなのだ。
※
県境の山道に来ると、車では通れなくなる。
放置されている車が多いのだ。多くは道の端に止めてあるけど、真ん中に停めたままのも多い。
事故を起こしているわけではない。車体に傷はないし、故障でもない。
中をのぞき込むが、やはり運転手はいない。駐車しているというより、運転していた人間が、何か、それより大事なことを思い出して車を出ていった、そんな印象がある。
まだエンジンがかかっている車もあった。少し先行している金咲がカーラジオを切っている。
こういう車は都市部では片付けられるが、郊外に行くと放置されたままのが多い。事実上、車での都市間の往来は途絶えてしまった。
「この車でちょっと充電していく」
電動キックボードは航続距離45キロほど。だが登りの山道ではパワーが足りない。それに金咲はなるべく常にフル充電にしておきたいらしい。私たちは何度か休憩が必要だった。
「電源装置はいいの?」
「家を出たときフルだったからな。問題ない」
金咲の背負っているバッグは二つ。一つはキャンプ用具や取材道具などを詰めたもの。もう一つは電源装置だ。金咲はいつも家庭用のポータブル電源装置を背負っている。かなり重いものだが、金咲はいつもそれを手放さない。
護身用としてスタンガンやら小型チェーンソーやらも持っており、金咲の荷物は30キロ近いはずだ。だが彼女はけして荷物を減らさないし、私に持たせようともしない。
「S県もこんな感じかな」
「どうだろうな。最初は大都市圏だけだったが、今じゃどこも変わりないらしい。海外もだ」
その後は県境の峠道を越えて、代わり映えのない道をひたすら走ってS県へ。
S県もあまり変わらなかった。道路には車がなく、ほとんどの店は空いておらず、夕方を過ぎても明かりのついてる窓が少ない。
明かりがついていたとしても、人間がいるのかどうか。
郊外へ向かうと土が増えてくる。畑には土の盛り上がった部分がある。
学校のグラウンド。住宅街の公園。どこにでも土の山がある。あまりにも頻繁に目にするので、それがあることの異様さや恐ろしさが遠くなっている。
その土の山が、日常に溶け込んでいる。
いつも隣りにある。
それは異質で異様なことのはずなのに、私はそれを。
「気をつけろ」
先を行く金咲が言う。郊外の閑散とした町並み。進行方向の左側に畑があり、道路に土が散らばっている。
人がいる。大きなショベルを足で地面に突き刺し、腰を入れて土を放り投げる。私は緊張を顔に出すまいとする。
50ほどの中肉中背の男性。カーキ色のセーターに緑のチノパン。一心に土をかき出している。その脇には肥料の袋がいくつか積み重ねられ、有刺鉄線や膝の高さの草が。
足が。
足が見えている。ごくわずかに。積み上げた肥料の袋の陰から。
通行人から隠そうとしているわけではない。肥料の袋は偶然そこにあって、偶然それが隠されてるだけだ。もうそれは隠す対象ですらない。
男が動きを止める。非常にゆっくりとした動作で腰を伸ばし、首だけを緩慢に回して私たちを見る。
電動キックボードはきゅるきゅるとアスファルトを噛み締めながら進む。長く走るために速度を落としている。時速にすれば10キロも出ていない。
男は私たちを見ている。落ち窪んだ目。あごを覆うほどに生えた黒い髭。唇は枯れ木のように乾いてわずかに震えるかに思える。何かを言おうとしているのか。
私は視線を合わせないようにしつつも、その男の気配を無視できない。
そこにあったのは敵意とか警戒ではない。あえて言うなら疑問の眼差し。家の壁に何かの虫を見つけて、それが何の虫だろうと凝視する一瞬。私たちに目の焦点を合わせようとする気配。頑丈で重そうなスコップ。軍手についた黒い染み。
「だ」
ばし、と圧搾空気が解放される音。
私たちに何か言いかけた男は痙攣してその場に倒れる。体には二本の電極が刺さっている。
「か、金咲さん、乱暴は」
「先手必勝だよ。今まで何度襲われたと思ってんだ」
テーザーガン、射出された二本の電極の間に数十万ボルトの電圧を流し、目標の動きを封じる低致死性武器だ。昔は非殺傷武器と呼ばれていたが、大の男が痙攣して泡を吹く威力。死のリスクがないなどとはとても言えない。
日本では輸入も購入もできない武器だが、金咲は所持している。世の中がこうなる前から持っていたらしい。私も何度か助けられたことがあるので、その事に何も言う権利はない。
金咲は手元の機械から電極を引き抜き、とっととその場を後にする。電極の回収はしない。一発ごとの使い捨てだ。
あの男は何を言いかけたのだろうか。
金咲の行動は正しいと思う。それでもコミュニケーションの断絶は悲しかった。
帰りはこの道を通らないようにしよう。私はいくつかの看板を見て、周囲の景色を記憶した。
「そろそろ日が暮れるな。あと5キロ走ったら休むとこ探すぞ」
都市部には電気と水道が維持されているが、地方へ行くとインフラはほぼ壊滅的である。とはいえ電気は放置されてる車から確保できるし、寝るところは……。
私たちは道から少し外れた民家に入る。鍵はかかっていなかった。私は誰かいないかを探し、そのあと台所を漁らせてもらう。
「お味噌があったから、何か作るね」
「着替えもあったぞ、適当に貰っとくか」
缶詰とアルファ米を使った夕飯。みそ汁には乾燥わかめの具。そのゆらゆらした緑の影が、ひどく豊かなものに感じられる。
「車から電気を取るって、いつまでできるのかな」
「一ヶ月ぐらい車を動かさないとバッテリーが上がるんだよな。そうなったら小型の発電機でも調達するしかねえな」
「発電機……重そうだね」
「消防署とか市役所には置いてあるだろ、出かけた先でそういうところ探せばいい。燃料はガソリンだろ、ガソリンならいくらでも調達できる」
「うん」
私達は地図を見て明日の日程を検討する。地図アプリはまだ有効だ。電気も水道もほぼ壊滅した地方でも、スマホで出来ることは維持されている。奇妙なほどに。
「嫌なニュース」さえも更新されているのだ。もう私は何もしておらず、AIが記事を集めて編集し、キャプションをつけて放流しているだけ。そして私のスマホには電子マネーが入ってくる。電動キックボードもそれで決済できる。
いったい私のサイトを誰が見て、誰が広告収入を払っているのか。世界の奇妙さは速度を増し、私の理解を振り落とそうとしてくる。
私たちは早々に休むことにした。湯を含ませたタオルで体を拭いて、下着だけでも替えて布団に入る。
この布団を使っていた人はどうなったのだろう。この家に住んでいた家族は。考えてもきりがないことを考えまいとする。
「金咲さん」
隣にいる人物の名を呼ぶ。彼女は答えない。私は金咲が眠っている姿をあまり見たことがない。
「これって、解決できることなのかな」
主語の曖昧な言葉。金咲は答えない。
私は布団の中で体をずらして金咲の方に寄る。
「私、どうなるのかな」
そのことを考えると恐ろしく、とりとめのない想像だけが肥大していく。
私はどうなるのか、どうなるのが正しいのか、どうなりたくないのか。
夜は嫌いだ。
余計なことばかり考えるから。
私は金咲の体を掴む。私よりずっと痩せていて、手足も細い。だけどその身体は針金の束のよう。私がぎゅっと掴んでも曲がらない。
金咲は私を拒まない。
それに甘えてしまっている。私の体が金咲を縛り、金咲の体が私を縛り付けるような時間を過ごしたい。夜が明けるまで絡み合いたい。
夜は嫌いだ。
あまりにも永すぎるから。




