第六章・5
電話の音、確かに聞こえる。
暗闇の中で視覚は眠り、他のすべての感覚が鋭敏になる。階段の手すりは木材にコーティングしたようなすべすべとした質感。空気は冷たく澄んでおり、どこか遠くから錆の匂い。そして電話の音は輪郭まで感じられるかのようだ。電子音ではない、黒電話の中にある金属が激しく触れ合う音。
階段を下る。ここが船ならば喫水線より下に潜るような感覚がある。空気はびくとも動かず、何百年も無人だった洞窟に入っていくような心地がする。
さらに深みへ。手すりを頼りに下へ。
何百段も降りている気がする。拘置所が正確にはどのような構造なのか把握できていないが、地階がここまで深いのだろうか。音は確実に近づいている。
平たい場所に至る。
もう下りの階段はない。しかしこの空間は何だろう。広さも分からない。高さも分からない。床の色すらも。
りりりーん
電話が、間違いなく数メートル先にある。
私はゆっくりと歩く。足音が反響しない。周囲に何もないのか。
がたん、と腰が当たる。スチールの机だ。その上に電話がある。
手で探る。やはり黒電話に思える。昔ながらのアナログの電話機。大昔には円形のダイヤルを回す方式もあったようだが、これはボタン式のようだ。親指の感覚は鋭敏になっている。数字のボタンと、シャープのマークと米印のマーク。正確には何と呼ぶのだろうか。
振動している。音を発している。それを電話機の体温のように感じる。手で触れるとちりちりと何かの部品が鳴る。
私は電話を取った。受話器をひどく重く感じる。奇妙な熱を持っており、湿っており、何かの内臓のようだ。
「もしもし」
何と名乗るべきか分からなかったので、そうとだけ言う。
『もしもし きこえますか』
女性の声だ。聞き覚えがあるような気がする。櫟セラだろうか。
「あなたは櫟セラですか」
『いいえ』
否定される。では誰なのだろう。もっとも私の感覚などあてにならない。記憶している女性の声など10にも満たないのだ。
『私は 恐怖を持たない方を 導くための アナウンスです』
電子合成音にも聞こえる。発話には読点ではなく一瞬の無音が挟まる。誰かの言葉を録音して編集したような。
「恐怖を持たないとはどういうことですか」
『櫟セラは プレイヤーに 殺される存在 プレイヤーが 恐ろしいと思う 世界で 殺されます』
櫟セラ。あのプログラムはとっくに私の手を離れている。いまどんな仕様になってるのか想像もつかない。
『しかし 恐怖が 希薄な人もいる そのような人を 私は 導きます』
言葉には何の感情も乗っていない。人間らしさがなく、華々しさや可愛らしさもない。
「導かれるべきなのでしょうか」
『そうです』
「どうやるのですか」
櫟セラの呪いは万能ではないはず。既存の宗教に傾倒している人間には効きにくい。黒日卒はそれを知っていた。そして理由は不明だったが、私も耐性を持つはずだ。
『では ご案内いたします あなたが怖いと 思うものを 教えて 下さい』
「何もありません」
一瞬の沈黙。何かが切り替わるような感覚。
誰とも分からない声は、さらさらと砂をこぼすような声で話し出す。
『では 闇が怖いですか 幽霊が怖いですか 呪いが怖いですか 該当する ものがあれば 1を 押して ください』
怖くはない。
幽霊の実在を信じていないわけではない。それを脅威と思えない。
『負傷が怖いですか 病が怖いですか 死が怖いですか 該当する ものがあれば 1を』
怖くはない。
負傷や病は確かに嫌なものだが、いざ訪れてしまえば仕方のないことと思うだろう。今の私の身体は芋虫のように膨れ上がり、常に複数の苦痛にさいなまれている。肉体が放つ悲鳴に何も感じない。
私の中で、痛みや苦痛は恐怖という言葉には該当しない。感情と切り離されている。死ですらも。
『無が怖いですか 永遠が怖いですか 孤独が怖いですか』
私は動かない。
ボタンに指も乗せない。
私にも恐怖はあるのだろうか。
いや、その前に私にはなぜ恐怖が無いのだろう。
『喪失が怖いですか 膨満が怖いですか 肉体の変化が怖いですか』
そういえば。いつか黒日女史が言っていたこと。
『過去が怖いですか 未来が怖いですか 時の流れが怖いですか』
人間は、あらゆるものを恐れながら生きている。
特に死を恐れる。死は無だから恐ろしいのだという。多くの宗教は死から逃避することをその根源としている。
『嘘が怖いですか 暴露が怖いですか 明かされない真実が怖いですか』
櫟セラのミームはそこを突いている。生き埋めという言葉を植え付け、人の運命をそこに収束させる。そして死した後にやってきて、どこかへと導く。
『地獄が怖いですか 天国が怖いですか 輪廻転生が怖いですか』
けして良い場所ではないと思われるが、無よりはいい。導かれる場所が永遠の悲鳴と苦痛だけの世界だとしても。無よりは良いのだと。そう考えてしまうこともまた、櫟セラのミームだろうか。
『叫び声が怖いですか 罵倒が怖いですか 嘲笑が怖いですか』
私が、何も怖くないこと。
『臆病が怖いですか 無謀が怖いですか 愚鈍さが怖いですか』
それはきっと、不埒な若者がやる肝試しに似ている。
夜の墓場で、廃墟となった病院で、放置された廃トンネルで踊れる人間がいる。不気味さを物ともしない人間が。
『砂漠が怖いですか 氷原が怖いですか 月面が怖いですか』
禁忌とされる行いを、死者に対する不遜な行いを、ためらわず行える人間がいる。
愚かだから、何も考えていないから、それも正しいだろう。だが、それ以外にも。
『迫りくるものが怖いですか 遠ざかるものが怖いですか ずっとそばにいるものが怖いですか』
何も持っていないから。
何も持とうとしない。大切にしたくもない。失うものが無いから。
だから、恐れも知らない。
私はどうだろうか。黒日卒に仕事を与えられ、私を見下さない彼女に好意を抱いていたはずだが。
『裏切りが怖いですか 敵対が怖いですか 無関心が怖いですか』
その執着も、錯覚だった。
分かっているはずだ。彼女は私など何とも思っていない。むしろ、彼女が私に好意を持ったとしたら、私は黒日卒の眩しさに溶かされてしまう。
私の中には黒日卒への好意すら無い。そんなものを持つことすら恐ろしい。
だから、私には何もない。
『取り返しのつかないことが怖いですか 後始末をつけねばならないことが怖いですか 忘れてしまったことが怖いですか』
『空っぽな自己が怖いですか 何も持ってないことが怖いですか 変わろうとしない自分が怖いですか』
私は何にもなる気はなく、何かになれるとも思っていない。
私はどこへも行かなかった。最初から一歩も動いていないような感覚。
そうだ、櫟セラの計画も。
私がどのぐらい関与してたか怪しいものだ。櫟セラは私以外のチームが完成させたのかもしれない。実験のデータとしてあの居酒屋は何も貢献しなかったかもしれない。私が何かを成し遂げた証拠は何もない。だから私の手に何も残ってない。
『怒りが怖いですか 悲哀が怖いですか 内省が怖いですか』
それを苦とも思わない。
私は何もしていないし、何かをしたいとも思ってなかった。だから何の感慨もない。
では、そんな人間には、最後に何が残るのだろう。
思考だ。
思考が最後に残るはず。我思うゆえに我あり。思考することこそが人間の証明、魂の所在。
だが。
『退屈が怖いですか 絶望が怖いですか 何も求めないことが怖いですか』
『止まらない思考が怖いですか 何も考えられないことが怖いですか 自分の思考が誰かのものである可能性が怖いですか』
私は、それも委ねていた。
人間として。一番大事なもの。
思考すら、AIに委ねていたのだから。
そうだ、だから私には、何もないのだ。
『機械が怖いですか 肉体が怖いですか 形がなく目にも見えないものが怖いですか』
『あてはまる ものがあれば 1を』
私はボタンを押さない。
私の怖いと思えるものは何もない。
では、この電話はいつ終わるのだろう。
私が永遠にボタンを押さなければ。怖いと思えるものがなければ、いったい何が起きるーー。
『ここから先は』
合成音声が何かを言っている。電話を取ってからどのぐらい経っただろう。数時間のような気もするし、数分のような気もする。
『とても恐ろしい 言葉となります それでも続けますか』
私は動かない。
何もできない。音声を聞き続けることしか。
『脳と眼球だけで瓶の中に封じられることは怖いですか』
『脳幹にアンテナを埋め込まれて無数の電波を感じ続けることは怖いですか』
『世界から3と7と11が失われることは怖いですか』
言葉が続く。
言葉の意味がすべて鮮明にイメージできる。残虐なもの、不条理なもの、何かが歪んでしまった社会。
『誰ともしれない無人島で焼き殺した豚をさざめく船は怖いですか』
『長剣をぎざぎざの尊厳を刻む勝利者のパレードは怖いですか』
『宇宙船に祈りは果てて四肢を解体されて解放のない数列となるのは怖いですか』
『麦畑に肺炎の苦痛が鎌を持つ人のたたずむ夕暮れは怖いですか』
『青い血のポスターが入れ替えを叫ぶ脾臓をえぐる猿は怖いですか』
『船が傾いて赤子を放り投げる金貨の悪意は怖いですか』
『金庫が金切り声をあげてバーナーで焼き切る動物園は怖いですか』
言葉は続く。
『これこれこれ以上はもっと怖い言葉が続きます』
『本当にににに聞いて後悔後悔後悔はしししししませんね』
動かない。
体はナマリのように重くなり、意識だけが鮮明になって言葉を聞いている。ボタンを押す気にはなれない。
『きまたひししいいになまがに死をくじちちぢち怖いですか』
『だただれひいひとひみひひほとととどとに誰もいにか怖いですか』
『ちまりりらとらちたちちもし穴にがき怖いですか』
ああ。
理解できる。
『 怖いですか』
『 怖いですか』
『 怖いですか』
人間の想像をはるかに超える阿鼻叫喚。肉体が迎えうる変異の極み。見るだけで眼球が腐り落ちるような怪物。
これが、櫟セラの完全なる形。
櫟セラに、恐怖を与えられないものはない。
『 怖いですか』
『 怖いですか』
『 怖いですか』
もはや耐性など何の意味もない。櫟セラは完全なる人間の上位種となった。
おそらくは、すでに、肉体も。
どのような世界が訪れるのか、誰にも分からない。
黒日卒も、きっと、逃げられはしない。
私は泣いていた。それは歓喜の涙か。悲しみの涙か。
言葉は永遠に続くかと思われたが、同時に終わることも感じていた。
最後の最後に訪れる。本当に怖いもの。
完全なる虚無であった私にすら、恐怖を与え、導くもの。
それが確実に、ここに来るのだ。
私はそれを待望する。それと同時に戦慄する。
言葉は続く。
闇の中で、静寂の中で、停止していた私の脳の中で響いている。
私はボタンを指でなぞる。縦棒が一つ。これが1のボタンだ。私はボタンに指を置いてそれを待つ。
言葉は続き。
世界は終わりつつあって。
どこかでまだ抵抗している人間がいるなら、その人物のことをわずかに哀れにも思って。
そして。
最後の。
『後ろが怖いですか』




