第六章・3
※
泥から這い出るように目を覚ます。
全身に不快感がある。血液が少しずつ毒に変わるような感覚だ。
あたりは暗いままである。手近に置いていた電気スタンドを点灯させる。ばしりと光が皮膚を打つような気がして、眼球が何かを追う。大きな獣が闇の奥に逃げ込んだように見えた。きっと何かの錯覚だろう。
時刻を見失う、という表現が浮かぶ。
こんなに夜は長かっただろうか。人生など怠惰に過ごしていれば一瞬で終わるものと思っていたのに、もう何度も寝て起きてを繰り返しているのに夜が終わらない。
りりりーん
電話は古傷の痛みのように鳴り続けている。鳴り始めてからどのぐらい時間が過ぎたのだろう。数時間のようでもあるし数分のようでもある。電話の音が私の意識を縫い付けて、この時間に固定しているような気がする。
私はのたうつように動いて菓子の袋を開ける。さくさくとした何かをチョコレートでコーティングしたもの。柔らかくて軽い生地でイチゴ風味のクリームを包んだもの。名前はよく分からない。甘さのほかに何も意識していない。
胃がずっしりと重くなる。頭がぼんやりしてきて思考がまとまらない。だが眠くはならない。まどろみから目覚めたばかりだからか。それとも脳のどこかが緊張しているのか。
りりりーん
私は、あの電話に出るのだろうか。
この拘置所のどこかにある黒電話を探して、執拗なコールを続ける誰かの言葉を聞くのだろうか。
そうしなければならないような気もするし、それをやればすべてが終わるような気もする。終わることが良いのか悪いのかはまだ考えられない。
たとえば、何もない部屋に猛毒の薬だけがあるとする。薬の瓶には毒である旨がしっかりと書かれている。
そこにいる人間は空腹を覚えない。病気にもならず、退屈にもならない。
この人間に無限の時間を与えたなら、いつかは薬を飲むだろうか。
それは、飲むだろう。
理由はなく、必然もない、誰かからの強制もない。
あえて言うなら、いつか飲むに決まっている。だから飲む。飲むか飲むまいかという無意味な悩みを終わらせる。
私は立ち上がる。
暗がりの中に歩いてゆく。体がとても重い。見つけた中で一番大きな服でぎりぎり入る胴回りになっている。途中で給湯室に入り、水道の水をがぶがぶと胃に入れる。
私のいた食堂は3階だが、音は下から聞こえるようだ。階段を手探りで降りていく。
闇は液体のように濃い。
※
あてがわれたのはホテルの一室だった。
ハイエンドなPCを渡され、必要なツールなども言えばすぐに手配するという。だが特に必要なかった。もともとフリーのツールだけを使っていたから。
黒日女史とはビデオ通話でやりとりをした。背景はいつも違う。オフィスや会議室らしい場所もあったが、空港などもあった。忙しい人らしい。
「ステージはよく再現できています。この調子で続けてください」
「はい」
私はまず資料を渡された。それは何かの事件における被害者の調書のようだった。
女子大生が地下空間に閉じ込められ、半年あまりもそこで過ごした記録。ずっと後になって知ったことだが、女子大生生き埋め事件というものがあったらしい。これはその被害者の記録のようだ。
警察の内部資料のはずだが、なぜ手に入ったのだろう。担当者は砂田という人物だったが、警察とパイプでもあるのだろうか。
非常に長大で、微に入り細を穿つような記述。被害者が考えたこと、感じたこと、予感したこと、後悔したこと、徹底的に聞き出している。
そして、実際に女子大生がいた地下室の資料も渡される。私はそれらをもとにサバイブを作る。
だが実際の事件と違うのは、このキャラクター、櫟セラはけして脱出できない。いざ脱出しようとすると凶悪な罠が発動し、必ず命を落とす。
そして指示を出していたプレイヤーに怨みを抱き、呪いを与える。理屈としてはそうなる。
「必要なものは自己進化です」
黒日女史は言う。背景に砂丘が見えるが、中東かどこかにいるのだろうか。
「櫟セラは人間と同等か、それ以上の精神性を持つようになります。その複雑さが魂の実在に繋がると思われます。こちらはT社のデータセンターをひとつ確保しました。ここをゲームサーバーとします」
豪気な話だ。正確な数値などは分からないが、世界で最も盛んなオンラインゲームでもそこまでの演算は必要ないはずだ。
「ゲームのキャラクターが人を襲うでしょうか」
「正確に言えば櫟セラが殺すわけではありません。櫟セラは生き埋めというミームで世界を汚染します。櫟セラとは強力な拡散性を持ち、伝えられる中で深化し、進化するミームなのです」
ミームとは人から人へと伝わっていく行動やアイデアのこと。それは短いフレーズであったり、イラストや動画の場合もある。時として人の考え方に影響を与え、社会を変えることもある。
それは「噂」という概念でもある。
噂は進化する。人から人へと伝わる中で実際的な力を持つ。
海外の例で言えば、スレンダーマンという都市伝説の怪人を恐れて命を絶った人間がいる。国内でもオカルトを恐れて自他を加害したり、命を絶った人はいるだろう。おもに発達途上にある少年少女がその犠牲になる。
だが櫟セラのミームはもっと強力にしたいらしい。老人であろうと賢者であろうと汚染するものに。
「なぜ生き埋めなのですか」
「別のチームが導いた結論です。主な理由は三つ。櫟セラと近い状態に導かれることがミームへの感受性を高めること。死体の損傷が観測できず、死後の導きという概念と親和性が高いこと。比較的、既存のミームに汚染されていない死因であることです」
この世界にはさまざまな死因がある、ミームによって生き埋めをメジャーなものに押し上げる。
それは社会を一変させるが、そこに他のミームを食い込ませる隙間が生まれる。生き埋めになった人間はどうなるのか、なぜ生き埋めにせねばならないのか。人々はその理屈や意図をさまざまに想像する。
「ミームとは植え付けられるものではありません。人々の想像力こそが真に強いミームとなります。端的に言えば、自分で思いついた理屈は妙に正しく感じられる、というあれですね」
それも噂の概念。噂には尾ひれがつく。噂の受信者だけでなく、尾ひれを考え、付け加えた発信者すらも影響を受ける。
誰もが生き埋めになり、死後に櫟セラの導きを受けて連れ去られるというミームに加担する。その長大な蛇の一部になる。
段々と分かってきた。私がこの仕事に選ばれた理由は、つまりは鈍感だからだ。
私は感受性が低く、ものごとへの関心が薄く、コミュニケーションが取りにくい人間。だからミームに汚染されにくい。
それは図太さとか、独自の世界観を持つとかではない。単純に鈍重で愚かなのだ。それが私の至った自己認識だ。
だが、黒日卒は。
「別チームからステージのアイデアが提出されました。順次反映させてください」
「櫟セラが自己言及矛盾を解決できないようです。人格構成のプロトコルを調整してください」
「デバッグチームからプログラム上は行わないような会話が見られたとの報告です。自己進化の兆しですね」
この人だけは、私をさげすんだ目で見ない。
他人からの目など気にしたことはないと思っていた。最初から諦めていたからだ。誰とも目を合わさずにじっとしていれば、少なくとも無害そうには見えると思った。学生時代のクラスメートも、教師も、親すらも私をただ弱くて無害な生き物だと思っていた。自分でもそうあろうとした。
黒日女史は私に対等に話してくれる。それは優しさではなく、生き物としての格があまりにもかけ離れているだけなのだろうが、それでもーー。
「なかなか思い通りにいきませんね」
ある日のこと、黒日女史がそう告げる。
「数百人の被験者にサバイブをプレイさせましたが、目覚ましい効果は見られません。自己進化も進んでいません。クラウドで接続されていないからでしょうか」
櫟セラは現状、数十テラものデータを背景に持っている。膨大なマップデータやギミックを用意しており、それはAIの自己連想によって数を増している。
「最も有望なのは言語データのみの仕様です」
「対話型チャットのやつですか」
「はい、それをプレイした被験者の14%が精神の不調を訴えました。自傷行為に及んだ被験者もいます」
黒日女史は紙束を手に、ボールペンで頭をかきながら言う。
「やはり想像力の問題でしょうね。黒い背景に言語が流れるだけ、それが最も想像力を刺激するのでしょう」
「じゃあ。それを基本にしてあとは自己進化させますか」
「それもいいですが、ミームとなるには少し弱いですね。今どき広くプレイされる仕様ではありません」
ふと、アイデアが浮かぶ。
「黒日さん。要するにプレイした人が生き埋めになればいいんですよね。逆算で被験者を探せませんか」
「というと?」
「ええと、借金に追われている人とかどうでしょう。かなり多額で、見つかればすぐさま埋められるような人がいれば」
「ふむ」
黒日女史の目が。
枯れ井戸のような漆黒の瞳が私を見る。
ぞくぞくするような寒気が襲う。会話を誘導されている気配があった。それすらも心地いい。
「事実からミームを生成する、それも可能でしょう。一人そのような被験者候補がいます。背水底さん、あなた外食産業に興味はありますか」
「外食ですか。したことないです」
沈黙。
ふ、と息が漏れる音がした。黒日女史が笑みを漏らしたのだと分かった。
「いえ失礼しました。我々のコネクションを使って、ある居酒屋チェーン店に入社していただきます」
黒日女史の計画は、おそらく数十のものが同時並列的に走っている。
櫟セラのサバイブをミーム化するために、数え切れないほどの伏線を撒いている気がした。私の想像など遠く及ばない規模で。
私は就職した。
もちろん一般社員とは違う。私の実際的な仕事は、ある街の地下街にある居酒屋にときどき出向き、店長や従業員の様子を観察することだ。比較調査であるから、実験が始まる半年前から出向くことになった。
「はじめましてえ、背水底といいます」
私を見た店長の反応を言葉にすると、何だこいつ、である。私のような鈍重そうな男が幹部社員というのは似合わないのだろうか。まあその反応は想定していた。
被験者の名は庭野。一種の人格破綻者であり、ほうぼうで借金を繰り返しては逃げ続けている。裏社会からの借金も多い。もし捕まったなら、一も二もなく殺されるだろう。ある種の連中にとっては、この男が生きているだけで恥となる。そんな人物だった。
「庭野さん、とりあえずコスト高になっちゃってますから、減らす方向で検討していきましょうねえ」
庭野は露骨に渋面になる。別に経費などどうでもいい、プレッシャーをかけているだけだ。
「コストですか。クオリティも大事にしたいですから、なかなか難しいかもしれませんね」
「そうですかあ? まあ検討は常に続けてくださいねえ」
ねばっこい話し方になってしまってる。もともと人と話すのは苦手なのだが、それを隠すように発言するとこうなってしまう。
主なバイトは2名。
一人は女子大生の仲良川、この人物は有名なまとめサイトである「嫌なニュース」を運営しているらしい。ミームの拡散力がある人間ということだろう。かなりの美人だが、私は顔をまともに見れない。
もう一人は、黒日透。
「……」
仲良川と庭野のプロフィールは渡されたが、黒日透のものは貰っていない。
私はその理由を聞かない。聞く気も起きない。私に教えていないなら、そこにも理由があるのだろう。
こんな地方都市の片隅の、ありふれた居酒屋から世界が崩れようとしている。
何がどこまで計画のうちなのか、黒日卒にはどこまで見えているのか。
その計画の中に、ぜひ私の末路が記述されていることを……。




