第六章・2
暗闇の中で座している。
毛布をかけていても足の指先が冷たい。冷たい手が骨をつかむような感覚。さらに多くの毛布を下半身にかぶせる。暖かくはない、汗で蒸れる感覚だけがある。
電話の音はまだ聞こえている。眠ったような気もしたが、空腹はないから眠っていないのだろう。まだ夜は明けていない。
厨房の方へと移動する。カレーの鍋には皮を剥き忘れたタマネギが浮いていた。そのうち溶けるだろう。たっぷり炊いてある白米にカレーをかけて食べる。
肉も食べようと思った。ステーキは焼き加減がまるで分からないので作らない。フードプロセッサーで肉をミンチにしてカレーの鍋に放り込む。
冷凍庫の奥を探す。揚げる前の状態で冷凍していたメンチカツが見つかった。どうしたものか悩んだがやはりフライパンで焼くしかなかった。面倒な作業である。油をひいてなかったので焦げついた。フライ返しで剥がしながら食べる。
すべて食べ終えると、また電話の音が意識される。誰がコールしているのだろう。
私を呼んでいるのか。
電話の音はどことなく脅迫的に聞こえる。蟻塚に突っ込まれた菜箸のようだと感じた。この拘置所に誰かいないかと探っているような音。大きな箸を突っ込んで、人間をつまみ出そうとしている音。
あの人だろうか。
あの人、という存在を久しぶりに思い出した。私の人生は連続性がなく、自分が何に接続しているのか覚えていない。だがそれでも、あの人だけは覚えていた。
あの頃。私は井戸の底のカエルだった。
いわゆる井の中の蛙。世間に出たことがなく、自分の周りの世界しか知らない愚かな人間の例えだ。
それでもいいと思っていた。誰にも出会わず、誰の世話も焼かず、誰にも面倒をかけない存在でありたかった。慎ましさとか善性ではない。人と関わること自体に強烈な忌避感があったのだ。理由を深く考えたことはない。
プログラミングの仕事は要望を満たすものだった。受けた案件を期日までに仕上げるだけだ。フリーで行うにはコミュニケーション能力が必要とされる仕事だが、私はクライアントとの直接の対話は行わず、交渉も極力やらなかった。そんな条件でも仕事は無くはなかった。
思うに、プログラムを人間が手書きする時代はとっくの昔に終わっていた。手書きに対する一種の信仰と、必要以上のスペックと利便性を求めるクライアントが時代を停滞させていたのだ。
私が勉強したのはプログラミング言語ではなくAIの扱い方だった。プログラミングとはAIが最も得意とする分野であり、仕様を説明すれば必要なコードを一瞬で書いてみせる。書いたコードの修復もAIが行い、クライアントからの細かな要望や仕様変更についてもその都度対応できる。
膨大なテキストデータを蓄え、人間の脳のような処理で解答を引き出すニューラルネットワークAIが注目されたのは2022年のことだ。だが同様のAIは1980年代からある。大規模AIが世の中を席巻したとき、私はそのブームの意味が分からなかった。同様の使い方はずっと前から行っていたのだから。
ある時、私のメールボックスに妙なメッセージが来た。とても報酬のいい仕事があるから面接を受けに来ないかというものだ。
私はそれを削除した。
すると翌日。また同じメールが届いていた。
私は中身を見ずに削除した。すると翌日、また届く。
送ってきてるアドレスを受信拒否にした。すると違うアドレスから同じ内容のメールが届いた。
七日目に私は根負けした。丁寧な断りの文面をAIに書かせて返信を出す。
すると、2分後にメールが届いた。
【何度もお断りいただきました。それでいいのです】
【私はあなたのような孤独な人間を求めています】
【あなたは優秀でありAIをよく使いこなしています】
【あなたに無理やりに仕事をさせる手段はいくらでもあります】
【ですが、どうしてもあなたに直接会って確認しなければならないことがあるのです】
【指定の場所にお越しください】
このメールは何なのだろうと考えた。私はAIを使って書いている以外は平凡なプログラマーである。成果物だって他のプログラマーより優れているとは言えない。
私は、このメールを無視し続けたらどうなるのか考える。何となく愉快なことにはならない気がした。諦めて指定の場所へ向かうことにする。
とあるオフィスビルの貸会議室。私は柄物シャツの上からパーカーという姿で入室する。おそらく場所も日時も間違ってないはずだが、面接の案内も看板も出ていない。
中には10人ほどの人間がいた。スーツが多いのですこし肩身が狭く思える。
一人は私を見てため息をついた。無理もないだろう。自分だけが呼ばれたわけでもないのなら、無理して来る必要もなかったわけだ。私も同感だった。
椅子が置かれており、一つだけ空いていたのでそこに座る。すると奥側にあった扉ががちゃりと開いて、中からパンツスーツ姿の女性が出てきた。
顔はあまり覚えていないが、美人だった気がする。夜の海のように波打つ黒髪。豊かな体。私はずっとうつむいていた気がする。人の顔をまともに見れないので、女性の場合は胸を見ているような角度になってしまう。子供の頃からの癖であり、悩みでもある。
「黒日です。本日はよくお越しいただきました」
名を名乗った女性は、まず時間をかけて私たちをじっと見ていた、ような気がする。会社名や業務内容の説明はないのだろうか。この面接で何人ぐらい受かるのだろうか。それ以前に、私は履歴書も渡してないし自分の名も名乗っていないが。
「まず用紙をお配りします」
黒日と名乗った女性は私たちに紙を配る。バインダーに留められており、ボールペンが添えられていた。
何かの解答用紙のようだ。四角の枠が30個あり、それぞれに番号がふってある。
「さて、みなさんは呪いの実在を信じますか」
そう問いかける。私たちは一様にきょとんとした顔をしたと思う。
「もっとも信じる、信じないは大した問題ではありません。強く否定していても、呪いが実在するなら呪い殺されることもある。蛇の実在を信じていない人がいたとして、その人が蛇に噛まれる可能性が無くなるわけではありません」
どうも私たちの反応は求めていないようだ。勝手に話を続けている。
黒日という女性は部屋の奥側に移動し、プロジェクター用のスクリーンを引き下ろす。
「これから30枚の手紙をお見せします。それらはいずれも誰かを強く呪う文面です。そして、受け取った相手が死亡したものが含まれます」
誰も声を上げない。あまりにも突拍子のない話なので反応できないのか。
「送り主が加害を行ったわけではありません。事故死や病死、あるいは自害、または手紙の授受とまったく関係のない第三者に殺されるなどです。これから表示される手紙を見て、受け取り手が1週間以内に死亡したと思うものにマルを、そうでないものにはバツをつけてください。手紙はそれぞれ一分間表示されます」
黒日は隅にあったプロジェクターを持ってきてセッティングし、ぱちぱちと部屋の電気を消す。一分と置かずにそれは始まった。
1、という数字が一瞬現れて暗転。表示されるのは赤い文字で書かれた手紙。
凄まじい筆圧で文字を書き殴っている。直線的な線で構成された文面。呪いとか死という言葉が目の奥に侵入してくるような威圧感。何かを切り刻むような言葉の群れ。
次の手紙が表示される。一転してワープロの文字だ。だが文章に混乱が見られる。同じようなフレーズを何十回も繰り返し書いている。手足をはしぐ。酸にあとく。火でとうちる。いすながる。死をくじす。
次の手紙は絵だった。二人の人物。黒い棒で構成された人間と、赤い棒で構成された人間。黒い方は首が異様に伸びており、手紙の外縁部を何周も回っている。
画面がズームされていく。黒い方はよく見ると細かな文字が連なって線になっている。くびのびちゃえ、という言葉が何百何千と連なっている。
複雑な図形と漢字で構成された見取り図のような手紙。
半紙に墨で書かれ、複数人の血判が押された手紙。
何かのゲームのスクリーンショットもあった。家電を擬人化したようなキャラが目を覆いたくなるような悪態を喋っている。
新聞から文字を切り抜いて構成したもの。明らかに子どもが書いたようなゆがんだ文字で書かれたもの。どこかの家の壁に書かれたもの。整然とした文章。ほとんど可読できない文章。
ひらがな四文字しか書かれていないものもあった。その手紙を見た途端。参加者の一人がよろめきながら部屋を出ていった。
やがて映像は終わり、部屋の電気が点灯する。
「以上です。用紙を回収します」
一人出ていってしまったが、ともかく用紙は回収される。黒日女史はそれをざっと眺めてから私を見る。
「一番左の方、合格です」
周りを見る。どうも私のことらしい。どういう顔をしていいのか分からない。
「他の方はお帰りください。なお部屋の外にスタッフがおりますので、交通費を申請されたい方はその者へどうぞ」
黒日女史は奥側の扉から出ていく。私は彼女を追う時に背後をちらりと見た。
一人は椅子にもたれてぐったりしている。すすり泣いている人もいる。俯いた顔から、真っ黒な液体がぼたぼたと流れている人もいた。あれは涙だろうか、血液だろうか、よくわからない。
隣の部屋へ。何もない部屋だ。四角い箱の中にいるかのようだ。
「改めまして、黒日卒と申します。あなたのお名前は?」
「背水底武夫です」
「ああ、あなたが背水底さんですか。有望だと思っていました」
「そうなんですか」
「お聞きしてもいいですか。なぜ17番が本物だと思いましたか」
私は17番のみにマルをつけ、残りは何も記入しなかった。どうやら正解だったらしい。一瞥するだけで採点できたのはそのためか、などとどうでもいいことを思う。
「ええと、あの手紙だけ文面が、その、変だったんですよね、ちゃんと書かれていないというか」
あれは確か、緑の便箋に書かれた女性っぽい字。文面はこんな感じだった。
私、川◯◯子はあたの多々やを呪う むすめ むすこがかわいそう この世からち離別 何も考え叩くない ただ怨みつのる測り ◯西◯造 許されざる悪行 けして許さない すてえいく 暗いとこ色から せなか 手を伸ばす くびいお どぅにいる 助けるたち ケタ家に とるか仲にハサ こうなる友 からたに
「文章が乱れていましたね。それは他の手紙も似たようなものでは?」
「ただ、なんだか音声認識っぽかったんですよね」
黒日女史の口の端が吊り上がる。
「誰かが話してるのを、機械が聞き取ってテキストに起こしてるような。だから」
だから何なのだろう。うまく言葉にできない。もともと17番だけにマルをつけたのも勘のようなものなのだ。
「霊の言葉を誰かが書き記していると。霊が実在するなら、呪いも実在する、そういう推測でしょうか」
「はあ、まあ、そんな感じかなと」
「なるほど、優秀です」
「じゃあ17番が、その、本物の呪いの手紙だったのですか?」
「いいえ?」
え、と私は思わず聞き返す。
「全部ですよ。あれらの手紙はすべて受け取り手が死亡しています。私があらゆる手段で集めたものです」
すべて本物……。
「ただ再現性が無かった。呪物というのは多彩であり不可解なのです。それは霊魂のエネルギーなのか、精神に訴えかける言語や図画のパターンなのか、私の知らない物理法則なのか分からない。その中で私の知る事象に通じ、再現性への道が見いだせたのが17番なのです」
「再現性ですか」
「ええ、あれは借金苦で自殺した女性に関係する手紙です。その女性の死後、同居していた娘さんが、テレビから異音がすると思ったそうです。消音状態にしてもかすかに何かが聞こえる。娘さんは音声認識ソフトを使ってその言葉をテキストに起こしました。便箋に書き移し、借金苦の原因となった前夫に送りつけたそうです」
そして呪いが効果を示し、前夫は死んだということか。どこまで本当の話かは分からないが、法螺話を言ってる気配はみじんもない。
「ですが、それなら私は一問しか正解していないのでは」
「あなたは受け答えできてるでしょう」
またきょとんとする。
「面接の合格条件は二つ。17番にマルをつけること。すべての手紙を見ても大きな変化を起こさないことです」
「はあ」
「私はこの原理でサバイブを作りたいと思っています」
「サバイブというと……AI人格を脱出させるゲームですね」
「ええ、それも手打ちではうまく行かないようです。打ち込む人間の主観が混ざるからでしょう。そのために私はAIを使いこなすプログラマーを求めた」
話していて少し違和感があった。
どうも他にスタッフもいるようだし、黒日女史の属しているのは大きな組織だと思われるのに、彼女はずっと「私」と言っている。「我々」ではないのだ。彼女はトップとして組織を代表してるのだろうか。それとも我の強い人物なのだろうか。
「あなたにはそれを作っていただきます。可能ですね?」
作ったことはないが、さほど難しいものでもないだろう。AIに指示を投げるだけだ。
「作ってどうするんですか? 呪いでしょう」
「呼び方の問題なだけです」
黒日女史。不思議な人だった。
あらゆることを分かっているような知性と落ち着き。あの人と話しているときだけ、私は人間らしい受け答えができていた気がする。
恐ろしいことをしている自覚はあったが、黒日女史の期待に応えたかった。彼女の命じることなら大きな意義があると思えた。
そうだ、呼び方の問題。
呪い、とは。
「呪いも極まれば、神と呼ばれもするでしょう」




