第六章・1
静けさの中で目を覚ます。
拘置所の一室である。畳が長い方の辺を接して4枚ほど並び、書き物机にちゃぶ台、便器や洗面台があるだけの狭い部屋。
布団をたたみ、直立して待つ。日は昇っているようだが、誰も点呼に来ない。
今は何時だろうか。拘置所には時計はおろかカレンダーもない。逃亡の日時の打ち合わせをさせないためとか、裁判や尋問を行う上で、執り行う側が主導権を握るためとか言われている。
誰も来ないので直立から正座に移る。拘置所には労役もなく、点呼と三度の食事のほかは室内で過ごす。読書をしたり勉強をしたりする者もいるようだ。私は本に興味がなく、一日ただ座っていることが多かった。
1時間たち、2時間たち、さすがに空腹になってきた。立ち上がって扉の小窓から声を出す。
「あのう、恐れ入ります、点呼はどうなっていますでしょうか」
返事は返らない。まったく人の気配がない。
ふと扉に手をかけると、鍵が開いている。
「あのう、出てもいいのでしょうか」
出てみると、がらんとした拘置所の廊下。
私の部屋だけでなく、すべての個室が開け放たれている。収容者も、刑務官の姿もない。
「お祭りかなあ」
そんなはずはないが、適当な推測をつけて思考の隅に追いやる。私はとにかく空腹だった。個室にいては飢え死にしそうな予感があったので外に出る。
ここの収容人数は600名だっただろうか。大勢の職員がいるはずだが、誰もいない。
収容者のスペースから出て一般職員の通路にまで来てしまう。鍵はすべて開いており、荒らされた様子もない。壊された物もない。
窓の外を見る。静かな朝の街だ。住宅街のそばを大きな川が流れている。道路に車が1台も走ってないのが気になった。
食堂があった。一般職員のための食堂だ。
どうも本当に誰もいないらしい。
その理由を確認する必要もあっただろうが、私はともかく空腹を何とかしたかった。
厨房に入り、倉庫へ。非常に清潔にされていて、米粒一つ落ちてない。
冷蔵庫を開けると冷気が流れ出してくる。野菜や魚、バターなどがたっぷりと入っている。
私は冷凍されていた粒あんの袋を取り出し、袋のまま電子レンジで700ワットで5分ほど加熱。トマトを丸のままかじって待つ。
袋が大きいので五分でもまだ冷たい。それをスプーンですくいながら建物の中を歩き回る。
たっぶり2時間かけて調べ終わった結果としては、本当に人っ子一人いないこと。正面の可動フェンスも開け放たれており、歩いて出ていくことも可能なこと。そして運動場と裏庭に、何かを埋めた形跡があることぐらいだった。
土まんじゅうと言えばいいのか、土の盛り上がった部分が30ほど。なんだかアンモニア臭がしたのであまり近づきたくなかった。
この拘置所の近くには警察署もあるし、小学校やショッピングモールもあるはずだ。三階の窓から目を凝らすが、敷地の外に人は見えない。
昼食を作る。トンカツが食べたかったので冷凍庫から豚肉を出してきたが、作り方がよく分からないので単に塩水で茹でたものを2キロほど作り、たっぷりの白飯とともに一時間かけて食べる。キャベツは千切りにするのが面倒なので丸のまま洗い、葉をむしりながら食べた。
水と電気は問題なく使える。3時になるとまた何か食べたくなったので、大根やゴボウを適当に切って大鍋で煮て、醤油をかけて食べる。
個室まで戻るのが面倒だったので、適当に布団を集めてきて食堂の一角に積み上げる。
不要な明かりが点いていることが何となく不快だった。電気室のブレーカーを落としておき、電気スタンド一台だけを食堂の中心に置いて明かりにする。
夕飯は刺身を作ったが、食感がいまひとつだったのでポットの湯をかけて白くして、ポン酢をかけて食べる。食べ終わると一時間ほど寝転がって、コッペパンに砂糖をかけたものを三つと電子レンジで温めたじゃがいも2個を食べて寝た。
起きるとまだ誰もいなかった。次の日に備えてカレーを作る。作ると言っても鍋に張った湯にカレー粉をたっぷり入れるだけだ。米も大型の炊飯器で炊く。
虫は苦手なので用心せねばならなかった。食べ終わった食器は食洗機に放り込み、床はきちんと掃除する。倉庫に毒団子があったのでありったけ撒いておく。
それから五日。私は拘置所にて40キロあまりの食料を消費した。
だんだん味付けが単調に思えてきたが、料理の本は読む気になれなかった。工夫の余地はないかとトーストに粉山椒をかけてみたり、豆板醤を冷凍ピザにかけてみたりする。タバスコをかけすぎると辛味より酸味のほうがずっと強くなることを学んだ。
まだ誰にも出会わない。
※
大雨が降ったり雪が降ったような気もするが、よく分からない。
夜の街には窓の灯が見えない。西側の窓からは川を挟んで対岸の街が見えるが、ひっそりと静まり返っている。あまり興味はない。
毎日はけっこう忙しかった。調理をして食べて、ロッカールームや収容者用の厨房など、あちこちから食べ物を集めて回る。それ以外の時間は食堂の周りを掃除した。虫は見たくないのだ。
日に何度も食べて、十分な掃除を終えたら菓子でも食べてそのまま寝る。野菜の皮や菓子の包み紙など、どうしてもゴミは出るので、ゴミ袋に入れて外に出しておく。ゴミ置き場はあるのだが、すでにいくつかゴミが置いてあり、回収されてる様子がなかった。
調味料の中でもタバスコやバジルは限られていたので使うのを控える。塩は大量にあったので、ゆでた野菜にふりかけてかじる。だいたいのものはカレー粉を使って炒めれば食べられる。炒めるのも面倒なら煮ればいい。魚はぶつ切りに、根菜は食べられる程度の大きさに。麺類や春巻きの皮もそのまま鍋に入れる。葉物野菜が痛み始めたので一気にすべて消費した。寸胴鍋に大根の葉を山ほど入れて茹でたあと、魚醤につけて食べる。半分ほどは皿に盛って、塩とオリーブオイルをかけて食べる。食べ続けると頭が痛くなってきたので大量に水を飲みながら食べる。舌が口の中で膨れてきた。塩分の取りすぎのようだ。コーヒーを飲むと腎機能が活発になって塩が抜けると聞いたことがあったので、一時間で1リットルほど飲んだ。全身がだるくなって動けなくなった、カフェイン中毒というものらしい。むくみは取れないままな気がするが、元々の自分の体型も覚えてないのであまり気にしない。
大きな拘置所だけあって医務室も立派なものだった。医薬品を段ボールに詰めて食堂まで運び、ビタミンの錠剤をコッペパンに挟んでもくもくと食べる。よく分からない薬もあったのでまんべんなく1錠ずつ食べる。体調を気遣ってのことだが、多少の腹の足しにもなった。
防災倉庫と書かれた部屋もあったが鍵がどこにあるのか分からない。一時間ほど蹴り続けたら足の小指に激痛が走ったので諦めた。
靴下を脱いでみると紫色になって膨れていた。あまり痛みはないが、とりあえず消炎薬と書かれた薬を注射してみる。注射針が深く刺さってしまったのか、じわじわと出血してきたので靴下を二重に履く。
ある日には爆発音が聞こえた。窓から見てみると川の向こう、ショッピングモールのあたりから黒煙が上がっている。煙はそれから4日以上も上がり続けた。
災害時に使用する斧が見つかったので、駐車場に止まっていた車のガラスを割り、中を調べた。私物はあまりない。何台かの車からは非常用の乾パンなどが見つかる。
またある日には月が出ていた。
食堂にて窓の近くに座り、飴玉をざらざらと流し込む。五粒ほど口に含んだところで噛むのが面倒になってきた。自然に溶けるだろうと思い、じっとしている。甘いよだれが垂れてくるのでその場に寝転がる。
甘さが口の中を満たしており、のどをごくりと鳴らすと粘ついた甘い唾液が感じられる。頭がぼんやりとして月の明るさだけを意識する。目の周辺がじわりと熱を持つ感覚がある。糖分の関係だろうか。
ぶかぶかの服を寝間着のようにも感じる。拘置所は基本的には私服だが、傷んできたりすると自費で購入したり、懲役服と同じものを借りることもできる。いま着ているのはパジャマであり、備品倉庫から探してきた一番大きな服だ。グレー地に黒のストライプがある。
食堂の暖房はかなり強めにしている。そのため寝転んでも床を冷たく感じない。水を飲むと全身からじっとりと汗をかいてくる。
何が起きたのだろう。
その時。初めてそんなことを考えた。
人間が一人もいなくなってしまったのか。もう生きてるのは自分だけなのか。
あまり寂しいとは思わない。原因が気になるということもない。ただ疑問に思うだけだ。
あの裏庭にあった土の山、誰かが埋まっているのだろうか。なぜ墓ではなくあんな場所に埋めたのだろう。
奇妙なことはいつから始まったのだろう。
昔のことを考えるのは苦手だ。自分の身に起こったことを順序立てて思い出すのは難しいし、それが私という人間の自己認識とうまく一致しない。
私はなぜ外食チェーンに就職したのだろう。
なぜあの街でヘロインを売りさばいたのだろう。まったくそんな柄ではない気がする。
そしてあの駅ビル。私はアルバイトだった子を襲って生き埋めにしようとした。
そのときの感情はうまく思い出せない。自分の記憶ではないような気もしている。
口の中が甘い。脳の中にふつふつと泡が湧いてきてまぶたが重くなる感覚。多幸感とも酩酊感ともつかない熱っぽさ。眠ってしまいそうな中で思考する。
私が薬の売人。それは何だか滑稽だ。私はそんなものになりたかったわけではないのに。
そうだ、すべては。
あの日、あの奇妙な面接を受けて、から。
りりりーん
眼球を動かす。
今のは何だろう。何かが聞こえた。時刻はおそらく深夜であり、拘置所は静まり返っているはずなのに。
りりりーん
わかった、電話の音だ。
しかも古くさい音。まさか黒電話というやつだろうか。そんなものが拘置所にあるのか。
音は続いている。どこからか分からない。かなり遠いような気もする。
床からだ、と気づく。どこかで鳴っている電話の音が建物に染み込んで、床から響いてくるのだ。
音は鳴り続ける。私はもぞもぞと身を縮めて、近くにあった毛布を何枚も引き寄せる。建物に染み込むような音がずっと聞こえてくる。
私は口腔内の飴玉を噛み砕く。何かに抵抗するような行動だった。
何らかの致死量とすら形容できそうな甘さが脳をしびれさせる。私は酩酊の果てに自らを放り投げようとする。音は続いている。私は暗がりに落ちるように眠る。
何かに追われて逃げ続ける夢を見た。
そして目を覚ます。
周囲はまだ暗く。電話の音は、ずっと。
 




