第一章・3
※
地下には音が止むことがない。
休憩室の電気を落とし、寝袋に足だけを突っ込む。
俺は一人でいる時、なるべくすべての電気を落とす傾向があった。蛍光灯のじりじりと鳴る音が気になるからだ。
暗闇の中でセラに呼びかける。
――セラ、そこにいるか。
【あ】
すぐ反応が返る。
【よかった……もう連絡してくれないかと】
すまない、仕事が。
そう打ちかけて思い直す。セラは生きるか死ぬかの状況にあるのに、俺は仕事にかまけていた。
――いろいろあったんだ。本当はもっと早く連絡したかった。
【ううん、ありがとう、呼びかけてくれただけで嬉しいです】
素直な子だ、と思う。
それが、ゲーム的な、男の理想だけを詰め込んだ二次元キャラクターのようだ、と言えばそうかもしれない。
……。
――体調は大丈夫か。
【はい、なるべく動かずに、体力を温存してます。昨日は少し不安が和らいで、ぐっすり眠れました】
生身の人間を、地下の一室に閉じ込める。
そんな話よりは、これがAIを用いたゲームである、とするほうがずっと蓋然性が高いのかも知れない。
何か、見分ける方法はあるだろうか。
と、そこで俺は気付いた。彼女は都内の大学に通っていたと言っていた。
現実の彼女の存在が確かめられれば、文章の向こうにいるのも現実の人間だと言える。
――セラと言っていたが、それは本名なのか。
沈黙。
液晶が粘性を帯びるような、文字の停滞。
【なぜ、そんなこと聞くんですか】
親指にじわりと汗をかく。彼女は警戒しているのだろうか。なぜ。
――言いたくなかったから言わなくていい。名前はどうでもいいんだ。君の体力なんかを知っておけば、脱出の方針を立てやすい。
【そうですね】
無味乾燥な五文字が浮かぶ、わずかな文字の光が暗闇をさまよう。
――君のことを知っておきたいんだ。都内の大学に通ってると言ってたが、どの大学だ。
【S短大です】
それなりに偏差値の高い大学だ。
【セラは本名です。櫟セラといいます】
付け加えるように言う。やや歩み寄ってくれたのか。
――体力はあるほうか?
【ええ……たぶん。高校ではバスケ部でした。大学ではサイクル同好会です。登山とかもよく行きます】
S短大で、サイクル同好会に所属している櫟セラか。そこまで情報があれば特定は容易だろう。
【あの……それよりも、玄関を】
文字が流れる。そこで俺は彼女の戸惑いの理由を察した。すぐさま脱出についての話になると思っていたものが、プロフィールを聞き始めたから警戒したのか。彼女が生身の人間だったなら失礼なことをしたと思った。
――ああ、すまなかった。脱出についてだが、風呂の窓を破ろう。
セラから聞いていた寸法だと、風呂の窓は女性がくぐれるほどの大きさがある。
方法としては、ベッドの脚を1本外し、ロウソクの火を使って窓を炙り、槍のように何度も突くという手段を試みてもらった。
ある程度破れたら、ソファーの革を剥いで手のひらに巻き、軍手の代わりにしてガラスを丁寧に取り除く。
【なんとか……できました】
かなり時間はかかった、50分というところか。
――外で誰かが見張ってる気配はあるか?
【ないみたいです。でも、何だか、部屋の外にはいろいろな音がします。水が流れるみたいな、ラジオのノイズみたいな】
部屋の外はまだ地下空間なのだろうか。セラは意を決して部屋を出たようだ。
――どんな状況だ。
【なんだか……変な場所です】
【廊下が続いていて、片側はみっしりと土が詰まっています。廊下にはたくさん扉があって、壁はヒビが入って、ドアは錆だらけで】
【汚れがひどくて……これは何の染みでしょうか。赤黒くて、コンクリートににじんでいて】
【音がします……空調の音でしょうか、機械の重低音みたいな。廊下の奥から、ずっと奥から……】
彼女は慎重に廊下を進んでいるようだ。足取りの重さが伝わってくる。
――君を閉じ込めたやつがいるかも知れない、先をよく見ながら進んで。
【はい】
【角を曲がります……広い場所に出ました】
【ここって……】
あ、とか、え、とか、戸惑うような散発的な呟きが流れる。発言のログがどんどん上に流れていく。
【団地の隙間の……公園みたいな場所でしょうか。でも、ずっと上は、暗くてよく見えない……】
何だって?
【棟が二つあって。渡り廊下が……あみだくじみたいに、たくさんあります。いいえ、廊下じゃない……二つの棟の間にロープを渡して、かずらの吊り橋みたいなものが作られてる……】
何だそれは。
二つの棟の間を、無数の吊り橋が渡されている?
――そこは外なのか?
【上は……よく見えない。星も、月も、たくさんの吊り橋が……】
【音が……】
文字が止まる。セラが立ちすくんでいるのが感じられる。
――大丈夫か。
【この音……ロープが風にうなるヒュンヒュンという音。ギシギシときしむ音。それだけじゃなくて、何か、もっとたくさんの音が】
ひゅん。
はっと振り向く。何も無い。闇に閉ざされた居酒屋の店内が見えるだけ。
隙間風の音だろう。吊り橋のロープが風を切る音に聞こえたのは、俺の感情が高ぶってるからか。
【とても怖い】
振り絞るような言葉。セラが膝を抱えてかがみ込んだ姿を幻視する。彼女の容姿など知らないが、か弱い女性が恐怖に震える姿を思い浮かべる。
【音が降ってくる】
【上に、何かが】
――落ち着くんだ。どうなんだ、その団地を伝って上に行けそうか。
【上には】
沈黙。ごくりとつばを飲み込む。
【行けそうです……建物があちこち崩れていて、たぶん、何度も何度も吊り橋を渡らないといけないけれど】
――そうか。今すぐ行けそうか。
【……一度、部屋に戻ってもいいです
か】
弱音を吐く。彼女の見ているものは間接的にしか感じられないが、その威容に圧倒されてるように思えた。
【準備……準備をしないと。ロウソクが1本じゃ足りない。どのぐらい登るかも、分からない】
そこで俺も我に返る。すでに深夜の3時に近いはずだ。
――わかった。十分に準備を整えてくれ。また明日呼びかけるよ。
【はい、また、明日……】
俺はスマホをスリープ状態にし、再度起動させる。奇妙なことだがセラとのやり取りはタブを閉じることができない。そのかわりにスマホをスリープさせると正常な画面に戻るのだ。
「……」
二つの団地の間を渡す、無数の吊り橋。
およそ常軌を逸している。しかも、その全体が地下に埋まっているかもしれない? いったい日本のどこにそんなものが建築できるというのか。
「……いや、彼女が団地と表現しているだけで、実際はまるで違う施設……?」
若い頃に見た、カナダ産のホラー映画を思い出す。
どこかに建造された巨大な立方体の構造物。そこに囚われた人々は凶悪な罠によって次々と命を奪われる。
その建造理由も目的も、誰も正確には把握していない。劇中では一種の公共事業と表現されていた。
では、日本のどこかに埋まっているのだろうか。団地の間に渡された吊り橋という構造物が。
あってもおかしくないのか。俺はパンドラ法のことも知らなかった。俺は世間から隔絶した生き方をしている。
だが、それとは別に。
確かめなければ。
スマホの時計を見ると、すでに深夜の3時半。だが俺は電話をかけた。
7回目のコールで彼女が出る。眠そうな応対の声を聞いたあと、俺は言う。
「仲良川さん、実は調べてほしいことがあるんだ。これはバイトだと思ってくれていいから……」
※
翌日もまた仕事はある。
地下の気温はいつも変わらない。この店には有線の音楽なども流れないから、外の情報は分からない。外はそろそろ夏だろうか。季節感は遠くなっている。
淡々と調理をして、客のクレームに対応し、バイトに教育を行って。
この日はそれで終わりではなかった。本部から幹部社員が来て打ち合わせがあったのだ。
「庭野さん。調子どう」
亀のように鈍重な印象の男は、脂の浮いた目を薄く開いて俺を見る。
「まあ何とか」
「そうですか? 売り上げ落ちちゃってませんか」
たしかに売上は落ちている。地下道が開発されて人の流れに変化があったらしい。デパートに向かう客がここの地下を通らなくなった。
それは幹部社員も承知のことなので、俺の努力不足だとか、そんなことは言い出さない。
「次の企画メニュー上がってますから、バイトさんに教育お願いしますね」
「はい」
「庭野さん、料理うまいからなあ、調理スタッフ減らせるんじゃないですか」
人員削減については毎回言われる。こちらとしてはギリギリの人数で回してるつもりだ。
「今は難しいですよ」
「そうですかあ? なんか最近流行ってるじゃないですかあ、AIとかで、人員削減できないですかねえ」
あのネコ型の配膳ロボットでも入れる気だろうか。うちの店はカウンター席が多いし、個室へは導線が細すぎて通れないだろう。
「AIって具体的に何させるんですか」
「それは庭野さんがアイデア出してくれないとお」
俺はチェーン店の雇われ店長であり、コストを下げたところで給料が上がるわけではない。AIに何ができるのか知らないが、俺の仕事は増える予感しかしない。
「検討します」
そうとだけ答える。
「検討してくださいよお? 庭野さんお店で寝てるでしょう? 冷蔵庫とかも使って。あれ僕の権限で黙認してるんですからねえ」
店舗に寝泊まりすることについてはこの男に許諾を得ている。それがいつの頃からか黙認という認識にすり替わった。
別に会社の内規に寝泊まり禁止とあるわけではない。冷蔵庫の利用だって常識の範囲なら問題とは思えない。
だが、この男はそれを何度か口に上らせる。嫌らしい目つきで俺を見る。自分をもっとずっと寛容な人間なのだと言いたげだ。
打ち合わせは終わり、俺は就寝の準備をする。
スマホを確認するが、仲良川さんからの着信はない。彼女は今日はシフトのない日であり、S短大で櫟セラなる人物を調べてもらっていた。
バイト代は個人的に3万支払うと約束した。どうせ給料の使い道もない。
まだ来ないか。とスマホの画面を見つめる。意識の空白があった。他に何もせず、じっと、十数秒ほども画面を見つめる。
突然、画面が白く染まり、コール音が鳴る。その音が異様にけたたましく響いて、スマホを取り落としそうになる。
「もしもし、仲良川さん?」
『庭野さん。いま大丈夫ですか?』
スマホを一度離して時刻を確認。23時半だ。報告するにしてもなぜこんなに遅いのだろう」
「大丈夫だ。どうだった、櫟セラのことは」
『はい……とても時間かかっちゃって、警察署とか図書館とかにも行って、いま最後の聞き込みが終わったとこなんですけど』
警察署?
「どうだったんだ?」
『死んでますよ……』
死んでいる。
櫟セラが?
『あの事件です』
仲良川は、ごくりと息を飲み込んでから言う。
『N区で起きた、女子大生生き埋め事件の被害者ですよ……』