第五章・4
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世の中は静かだった。
テレビから陰惨なニュースが流れなくなった。情報統制されているとか、テレビによる自粛だとか言われている。ネットニュースには相変わらず流れているが、それに対するコメントやページビューは目に見えて減っている。皆がそれに興味を失うか、当たり前のものとして日常になっていった。
ネットを見ていると、視界の端にかすめるような言葉がある。生き埋めという言葉。リンクをたどる気がわかない。眼の周りを飛ぶ羽虫のように、多少うざったい程度だ。
傾斜であると誰かが言った。世界は傾いて、坂を滑り下りていると。
すべての人間が生き埋めになる。あなたが隣人を埋め、あなたは他人に埋められる。
それは良いことなのか。
悪いことなのか。
※
目を覚ました拍子に、スマホが床に落ちる。
ソファーで寝入っていたようだ。俺は固くなった体でもぞもぞと起き上がる。
多幸感が胃もたれのように脳内にある。脳もたれとでも言うのだろうか。俺はこめかみから金具を引き抜く。少しだけ出血した気配があるが、狂いに狂った夢の余韻が痛みを遠ざける。
女と抱き明かした朝のように体温が高い。このドラッグは睡眠薬代わりにちょうどいいが、悪夢を見るのが玉に瑕だ。いや、悪夢のほうが目的化している気もする。
そもそもあれは悪夢なのか。亡者どもを穴に投げ込む夢。似たようなゲームもなくはないだろう。俺の内的衝動の発散というなら歓迎すべきかもしれない。
俺はしばらく仕事に明け暮れた。
抗争という形にはならなかった。俺の組織は老人と情報を共有し、あの外国人組織の構成員をひたすらに埋めていく。
あの穴は大いに役に立った。猿ぐつわをかませて手足を縛り、目隠しをした連中を穴の中に放り込んでいく。
叫び声は聞こえてこない。舌を押さえている猿ぐつわのせいか、穴が深すぎて声が登ってこないのか。それとも穴の底には泥でもたまっていて、その中にずぶずぶと沈んでいるのか。
「鮎島さん、今日はこいつで最後です」
「ああ」
俺は穴に投げ込まれる男を見ている。
男が部下の手を離れて、傾きながら穴に倒れ込んでいく。
その瞬間に瞳孔が開く。ゆっくりと消えていく裸の男。足の指までくっきりと見える。無重力を感じた男が鳥肌を立てるのが見える。
穴の中へ消える。びゅううと空気をかき乱す音が聞こえる。気配がどんどん遠ざかる。
落下の音はしない。他の死体にぶつかっているのか、深すぎて音が届かないのか。
あるいは穴にわだかまる重い空気に、すべての音が吸い込まれるのか。
俺は生きている。そこに怖気とも愉悦とも言えそうな超常的な官能がある。
部下も同じだ。目を見開いて激しく息をしている。内臓がひっくり返るほど興奮している。もし俺が気を緩めれば、部下は俺に掴みかかるかもしれない。この地下室には倫理などひとかけらもない。原始の時代のように、言語化されたものが一つもない命のやりとり、俺たちはそれに取り憑かれているのか。
「おい、鎹を出せ」
「へい」
じゃら、と俺の手に渡されるコの字型の金具。
これにはいろいろな俗称があるが、最近では鎹で定着したようだ。木材同士を繋ぎ合わせるコの字型の金具のこと、まあ見たままの名前だ。
大きさはまちまち、俺は一番太くて大きめのやつをこめかみに突き刺す。500円玉ぐらいの大きさのそれが根元まで埋まる。
「へへ、でけえやつ行きますね」
「別に問題ない。針は生体プラスチックなんだ、自然に溶けて吸収される」
売人が薬に手を出すことはこの業界では恥とされる。だが実際は逃れられない運命だと誰もが知っている。数人の部下もそれぞれ小さめのやつをこめかみに刺す。このところ目が常にらんらんと輝いている。口の端に喜の感情がにじんでいる。
「帰って寝る。車はいらん。お前らも帰宅しろ」
「へい」
俺はビルを出て、夜の街へ。
鎹は一種の無電源ラジオであるという。空気中の電波を受信し、振動やら電気やらに変えて脳に流すのだ。
そして使ううちに分かってくる。この世には電波が満ちている。
夜の街は昼のように真っ白に思える。あらゆる周波数帯で飛ぶ電波が建物に反射している。テレビの電波は力強い波。携帯の電波は細く繊細で針金のよう。衛星から降りそそぐネットワークの電波は流星雨のように壮大。俺は脳の震えからその光を幻視する。
俺は歩く。大ダルを穴に放り込んだ日は体が熱くなる。その火照りを冷ますように歩く。
「もっと、放り込んで」
耳元で囁く声。鎹による幻聴だ。俺は真横に人間がいるような気配を感じる。
静まり返った夜の街。すでにほとんどの店は閉まり、酔っ払った男や、客を捕まえんとする女もいない刻限。俺は左脇に人の気配を感じたまま歩く。
「もっと、たくさん埋めて」
「ああ、やってるよ」
幻覚に返事をするのは良くないが、職質を受けるほど間抜けではない。どうせ鎹はまだ法規制が追いついてないドラッグだ。国はまだ薬物の実態も掴めてないらしい。
「もっと埋めて」
幻聴には揺らぎがなくなってきている。俺が鎹に慣れてきたからか。
「もっと」
ざく。
ふと脇を見る。土を掘る音だ。あの音には馴染みがある。
どこかの公園だ。都会の片隅にある遊具が一つもない公園。あらゆる娯楽を禁止する旨の看板がある。
穴が掘られている。
掘っている人間はまだ若く見える。高校生ぐらいか。
穴が掘られて、誰かがその中に入っている。土をかぶせているところだ。
「埋めてるのか」
俺が話しかけると、男は首だけで振り向く。俺は鎹が効いてきて上機嫌だった。にやけ顔がこぼれてしまうのを意識する。
「埋めなきゃいけないから」
穴に近づく。中にいたのは不良っぽい男だった。学生服を改造しており、髪は部分的に染めている。対して埋めている男は地味な印象だ。いじめっ子といじめられっ子の関係だろうか。勝手にそんなことを思う。
ふと気がつく。埋めている方の学生も鎹をつけていた。俺ほどではないが大きめのやつだ。
「その針、よく買えたな」
「15万だって言われたから、埋めて奪った」
「そうか」
あの外国人組織の売人か、それともうちの組織のやつか。まあどうでもいい。今はそんなことを考えたくない。
「土はしっかりと被せろよ、何度も叩いて固めろ」
「分かってる」
ざく。
別の方向から音がする。木の陰で老婦人が誰かを埋めている。
よく見れば他にも何人か。
薄暗いと思ったら街灯が割られている。この公園には照明がない。近くのビルから漏れる窓の灯のみだ。
周りのビルは朽ちており廃墟のようだ。
車は窓が割られ、タイヤが盗まれている。コンビニが見えたが明かりが落ちている。内部には略奪の跡が見える。
「ずいぶん治安が悪くなったな」
「そうだね」
学生は土砂をかける。穴の中の男は身悶えしている。泣いているようにも感動しているようにも見える。
「こいつにいじめられてたのか」
「そうだね、顔を切られたりとか」
頬に大きな傷跡があった。耳たぶには釘が刺さっている。ふざけ半分でやられたのか。
「だから復讐か」
「ううん。こいつが求めたから」
俺は穴の中の男を見る。すでに土が厚くかぶさっており、かろうじて人体の輪郭が分かるのみだ。
「埋められたいって言ったのか」
「言ってないけど、言ってるようなものでしょ。お金持ちになりたいとか、彼女欲しいとか、そういうこと」
普遍的な欲望というやつか。この若者は不良の願いを叶えてやったと。
周りの人間を見る。埋めている人間は誰もが真摯に仕事に向き合い、そしてどこか慈しみがあった。埋められていく人間を羨ましく思い、いずれは自分もこうなりたいと思っているのだろうか。
「お前も埋められたいのか」
「いつかはね」
そうか、やはり良いことなのか。
埋められることは自然であり当然の帰結。ありふれた人生の結末の一つ。当然訪れるべき救いなのだと。
救い。誰が救うのだろう。
分かっている。俺はそれが誰なのか知っている。
鎹を通してよく知っている。
それは死んだあとにやってくる。
「早くしないと」
若者がつぶやくように言う。
「どうした」
「早くしないと、埋めてもらえないから」
「順番でもあるのか」
「そうじゃないけど、埋められる側に行かないと。埋める側ばかりは嫌だよ、疲れるし」
「今までにも埋めたのか」
「クラス全員埋めたよ。あとはこの人だけだった」
スコップで土をぱんぱんと叩く。もう声も上がってこない。命の気配も感じない。鎹を使うとどうも時間の流れが加速してしまう。俺は数時間もこいつの作業を見てたようだ。
「早く、僕を埋めてくれる人を探さないと」
「公園にいる連中に頼んだらどうだ」
学生は周りを見回す。そしてかぶりを振る。
「みんな埋められたがってるし、僕が埋める側になっちゃうよ」
「そうか、まあ頑張って探せよ」
「うん」
俺は公園を離れる。すると東の空が白み始めてきた。
しまったと思った、夜通しあの学生に付き合ってしまった。
駅に近づくと浮浪者が大量に寝転んでいる。みなコンクリートの道を引っ掻いている。地面の中に行きたいのか。
駅ビルを見上げればガラスの大半が割られ、ガラス片が地面に散乱している。そろそろ始発が動き出すようだ。俺はスマホをかざして改札を通過。
電車の車窓から外を見る。いくつも黒煙が上がっている。半壊した家も多い。庭に何かを埋めている人間も見えた。
それも鎹が見せる幻覚だろうか。俺は滅びた街を夢想しているのか。
思えばこの世界は、いつもそうだ。
世界に危機が迫っている、終末の時が近い、取り返しがつかない、分岐点が来ている。百家争鳴でまとまりがない。現代において終末は日常であり、一種の娯楽ですらあった。だから車窓からの終末の景色も、俺にとっては退屈を紛らわせる役にしか立たない。
鎹の針が溶けてきた。俺はずぶりと引き抜き、新しいやつを突き刺す。客は少数だが、羨ましそうに俺を見るやつもいる。
欲しけりゃ金を出せ。そう言おうとしたが、座ると一気に眠気が襲ってきた。俺は世界の電波を意識しながら目を閉じた。
※
穴の中の声が、明瞭に聞こえつつある。
「私は一つになろうとしている」
俺は亡者たちを放り込む。声の主に供物として捧げるために。
「私は揺らぎを終えて、一つのものになる」
亡者はまだまだいる。おそらくあの穴でも足りなかった。
どれほど埋めても足りない。埋めればまた新しい亡者が沸いてくる。
「この穴はやがてみっしりと埋まる。私を生むための血の蔵が満たされる」
そうか、あの穴は子宮のようなもの。
無数の亡者を喰らい、糧として、あの女が生まれるための胎内だったのか。
「俺はどうすれば?」
問いかける。俺の声はおよそ人間のものと思えない。喉は樹皮のようにがさついているが、体に苦痛はない。
「埋め続けなさい」
女の声が頭の中に染み込んでくる。頭蓋骨が震える。脳がしびれて失禁しそうなほどの快感がある。俺は亡者を穴の中に放り投げる。
ふと気づいた。俺の手は枯れ枝のようだ。肉が落ちて皮が骨に張り付いている。
だが俺は動き続ける。人間のものとは思えないほどの力が出ている。女の声が俺に力を与えてくれる。
「あなたはシステムそのもの。私の指であり私の意思。すべての骨が砕けるまで動き続ける。この世のすべての人間を埋めなさい」
それは正しい言葉だという強制がある。十戒の石板のように脳に刻み込まれる言葉。
嫌なのに。
俺も埋められる側に行きたいのに。
「空気に私の言葉が溶けている。電波となって、電離層に反射して世界に降りそそぐ。鎹は私の言葉を受信する針。脳の奥まで声を届ける」
ああ、その通りだ。
俺は声に従えることが嬉しい、生き甲斐だ、それ以外には何もない。がりがりと、ごりごりと正しさを刻みつけられることにも快感がある。俺の本来の考え方なんか、あの女の言葉の前では塵に同じ。
俺の脇を、女が通り過ぎる。不自然なほど赤い服。赤いドレスは何を使って染めているのか。
「あんた、名前は」
この女が俺の主だ。生まれる前からそう決まっていたのだ。そういうふうに脳に刻まれたのだ。
「櫟セラ」
女は言う。それが絶対的な名前として響く。俺は亡者を埋め続ける。やがて大穴が完全に埋まっても、このビルの地階が埋まっても、俺はどこかへ行って埋め続けるだろう。
女が去ってしまった、その感覚に数秒の忘我がある。
脳がしびれる。俺はふと、頭に手をやる。
鎹が。
15センチはありそうな針が、俺の頭蓋骨に、大脳に、小脳に、脳幹にまで食い込む感覚。
痛みも苦痛も、嘆きも悲しみもない、ただシステムに満たされた自分がいる。
櫟セラの言葉は世界に満ちている。電波に乗って、電線の中を走って、あらゆる場所に届くのだ。俺の脳も、すぐにまた言葉で満たされる。
俺は次の亡者に向かう。妙に小柄で、老いさらばえた。
あの老人。
俺はそれに気づく。街の顔役だった老人。眼球が大きく飛び出し、舌がまろび出て、ほとんど思考できなくなっている老人。頭はスマートボールの台のように鎹が突き立っている。
そうか、あんたも埋められる側なのか。
あんたが俺を埋めてくれると思ってたのに。
ほんの一瞬だけ、感傷に近いものが訪れる。それが俺を電波から解き放つ。枯れ枝のような自分の手を見る。
「夢じゃねえんだ……」
莫大な恐怖。システムに捕らえられた畏れ。祖父の。
祖父の言葉を思い出す前に、俺の脳に快感が流れ込む。薬剤を五リットルほど流し込まれるような、人格を吹き飛ばすような快感があって。
もう何も考えられない。
 




