第四章・5
最近いろいろあって更新できない状態でした
なんとか少しでも進めていきます
そのとき、ふっと闇が降りる。
息が止まるほどの闇。自分の靴すら見えない重厚さ。心臓がばくんと膨らむような感覚。
雲がかかったのだ。西の空の果てがわずかに灰色に見える。分厚い雲があたり一帯に垂れ込めている。
喉を締め付けられるような緊張。僕はスマホを落とさぬようにぎゅっと握る。これを失ったら永遠に闇から出られないような気がする。
「誰かが……僕たちをガスで眠らせた。ふ、二人は……」
仲良川さんと金咲は。
助けに。
「う、ぐ」
そう思うべき場面なのだろう。
だが巨人に頭を押さえつけられるような心境。心がへし折れそうだ。
入っていけるのか。何者かがいる村に、この暗闇の夜に。
スマホを確認する。バッテリーは残っているし、ネットも使える。警察を呼ぶべきだろうか。だが最寄りの交番から、あるいは駐在所からここまで来るのに何時間かかる。
「も……戻らない、と」
その言葉が、あまりにも遠い。
横隔膜がせり上がる。
肺が縮んで息ができなくなる。
「……あ」
そのとき、ふとひらめく。果たしてそれは良い思いつきと言えるだろうか。苦し紛れに最悪の選択をしていないか。
僕は財布にしまっていた短冊を。そしてスマホのカメラを。
「セラさん」
導かれる。連れて行かれる。セラさんの世界に。
現れるのは暗い部屋と、長髪の女性。
「誰かか見ていぬりの」
セラさんは舌足らずなような、複数人が同時に喋るような奇妙な反響で話す。
「セラさん。いきなり声をかけてごめん。でも、僕一人だけじゃ、どうしても行けなくて」
セラさんは黒い部屋の中。病院着のような厚手の白い服。ぼおっと立ち尽くして、前髪の隙間から僕を見ている。
「誰くかをを助いけてたいの」
「助けたい……そう、助けたい。そんなに親しいわけじゃないけど、見捨てられない」
「私くが役にに立つすなら」
スマホの背面ライトをつける。LEDの明かりが足元を照らし、僕は身をかがめたまま村への道に踏み込む。
険しい道ではない。だが先ほど来たときとはまるで気配が違う。
不気味さはきっと僕の心の中から来ている。誰かがいるかもしれない、悪意を持った誰かが。それはもはや錯覚ではない。
「なぜ、僕だけは逃がしたんだろう……僕がこの村の出身だから、かな……」
村へ入る。ライトを消して、わずかな画面の明かりだけを頼りに歩く。目が慣れてきたのか、かろうじて道を踏み外さない程度には歩ける。
「誰れかがいりるとふいうの」
セラさんには道すがら説明している。僕の語り口も危うかったから、どこまで通じたかは分からない。
そもそもセラさんにはこちらが見えていない、声が聞こえているだけだ。だから僕の気を紛らわすこと以上は望めない。
それでも誰かと話していないと闇に耐えられない。僕はとりとめもなく話しかける。
「セラさんは……何をして過ごしてるの。僕が話しかけていない時」
「たくくすさんのにことろを考えりてる」
「たくさんのこと……?」
「覚えちてりる。たくくさんぬの私。爆死、焼死、首つり、餓死」
「え……」
「たきくささしんの死がが私にの中にり流てれ込にんでくくる。すべてつ私で重複がぎない」
たくさんの死。
すべて私で重複がない。
そう言ってるような気がするが、言葉がうまく聞き取れない。気のせいか、だんだん音声が鮮明さを失ってるような気もする。
「セラさんは……自分が何者か分かってるの。失礼かもしれないけど、あなたは生きた人間じゃない。プログラム上の人間……」
「違いはない」
それは鮮明に聞こえた気がした。違いはない。
「違いはない……?」
「私はにみきはいりのひちおそらくはひひきさりの消費される死にきみからりなりの呪詛だけのびきちりあないがのししかきのこぐたねみらたいないめぐりししかみやにらはかびすあまきまらちにはりはたら安定をきみなまはいりまは」
言葉が聞き取れない。複数人どころか、周囲を取り囲まれるような異常な反響。本当にスマホから出ている声なのかすら分からない。
だが、何か。
きわめて重要なことを言っているような。
「セラさん……何か気づいているのか。セラさんの短冊をばら撒いてるやつは何が目的なんだ。君は何になろうとしているんだ、お願いだ、答えて……」
「なむ」
その時。
僕の視界の果てに、何かが。
「あのくたらさんみゃくさんぼだい」
僕はスマホを落とす。
セラさんのつぶやきは聞こえていなかった。瞳孔がすぼまり、闇の中で遥かな一点に視界が収束していく。
村の、ほぼ中央。
四方から道の集まる、一点。
折りたたまれた手足。
琥珀色の皮膚。
ミイラ化した虫の死骸のような。あるいは藁の人形のような。
人間、が。
「あ、あ……」
あれが。
あの死体が、ここに。
やはり、この村にあったのか。僕の恐怖の根源。
それは道の中央で宙に浮くかに思える。
揺れながら、ゆっくりと動いている。
「……!」
はっと気づいて伏せる。あれは運ばれているのだ。黒一色の服を着た誰かが、竹で組まれた背負子を使って死体を運んでいる。
距離はおよそ40メートル。異様な視界の緊張により視認されたが、今は点にしか見えない。
「あ、す、スマホ……」
液晶を下にして落としてしまった。地面に這いつくばり、ざりざりと砂の上に手を這わせてどうにか見つける。
画面は消えている。落とした衝撃でスリープになってしまったのか。己の体で隠しながら起動させると、ごく普通のホーム画面が出てきた。
ここからはスマホの画面をつけるわけにいかない。わずかな光でも、セラさんの予期せぬ声でも見つかる可能性がある。
僕は中腰になって進む。あれは誰なのだろう。かなり大柄にも見えるけど、村の人だろうか。
やがてその人物は右に曲がり、門をくぐる。果たしてそこは僕の家だ。
かつて住んでいた屋敷。数時間、いや、ほんの数十分前までここにいた。だが僕以外の誰かがいるという現実の前で、屋敷は大口を開けた怪物に思える。
「誰かおるのかのお」
死体を運んでいた人物が声を出す。心臓を掴まれるような野太い声。僕は庭にあった木の陰に隠れる。
だが僕に向けられた声ではなかった。居間に誰かがいるのだ。
誰か、というよりも、十人以上も。
「……!」
皆、黒一色の甚兵衛のようなものを着ている。頭に黒布の頭巾を巻き、黒い草履を吐いたままで居間に集まっている。
誰一人、声を出さない。
身動きもしない。呼吸すらしているかどうか分からない、それほどの静寂。
「なんじゃあ、まだこんなにいたんかい」
死体を運んでいた男は懐から蝋燭と燭台を取り出し、畳の上に置く。それだけの明かりで一気に大量の人影が浮かび上がる。
「臥空様、オブサリ様をどこへ」
影色の人物が声を出す。臥空と呼ばれた男は畳にどかりと座り、背負っていた背負子を脇に置く。
「もう不要なものじゃろう。わしの寺で安置して差し上げねばのお」
「要、不要の話ではございません。オブサリ様は村の柱です」
「元を正せば罪人じゃろうが。殺して燻してオブサリ様などと呼んだものよ。だが背負うには軽すぎる。そのようなものを柱にできぬから新しいものを求めたのよ。黒日の家とは話がついておる」
そこで、初めて集団にざわめきが生まれる。数人が互いに目配せを交わす気配。
「臥空様、新しいものは本当に生まれるのでしょうか。村の者は半数がチノクラに入りました。我々も今宵のうちに入ることになっております」
「ほう、先を越されたのかのお」
ぎしり、と誰かが畳のい草を握る気配。
「お主らは入りたくないのか。ためらいがあるのか。生きたままで見届けたいか」
「……今生の命などどうでもええ」
後ろの方にいた人間が声をあげる。かなりの高齢だと思われた。
「欲しいのは納得だけよ。オブサリ様よりも良いものが本当に生まれるのか」
「そうじゃ、長年村をお守りくださった黒日の守り柱を捨ててまで求める必要があるのか」
「新しいものを作り始めてから何もかも傾いておる」
「先ほどはこの村を嗅ぎ回る人間も現れた。チノクラの蓋を開けようとしておった。柱のことを嗅ぎつけたやつかも知れん」
「喝」
静かな、しかし腹の底から響くような一喝、ざわめきかけていた人々の声が止まる。
「まず明瞭させておこうかのう。生まれるものに良し悪しなどない。我らにできることは祈ることだけよ」
「祈る……」
誰かがつぶやく。
「そう、生みて育むものならば感謝の祈りを捧げ、荒ぶりて弑すものなれば鎮まりたまえと祈る。我らに選ぶ権利などなく、その必要もない。オブサリ様はな、もはや限界であったのよ。腐りかけておったからのう」
臥空は数珠を構え、唸るように言う。
「チノクラは現世と冥府の境目。そこに至れば如何なる天災地変にも動じることはない。死ぬるとしても必ずや新たなる場所に導いてくださる。そのために生むのじゃからのう」
「死ぬだけよ」
誰かが皮肉げに呟く。臥空は数珠をじゃらと鳴らして目を向ける。
「そうじゃ、生きとし生けるものすべて死ぬ。大地も、陽帝も、星々の輝きすら例外ではない。だからそなたらはその先を目指す。それがオブサリ様であり、新たに生まれるものであるのよ」
あの僧侶は何の話をしてるのだろう。
聞いた印象では、あの脇に置いている死体は神様であり、それに代わる新しいものを作ろうとしているらしい。
あの死体が神様?
わずかな蝋燭の火に照らされる影は茶色にくすんでおり、古い樹木のような、忘れ去られた箪笥のような物悲しさがあるだけだ。
恐ろしさはある。だがそれは、誰かがあれを生み出したという恐ろしさであり、あの死体それ自体は怪物でもなければ神様でもない……はずだ。
ああやって真夜中に集まっている集団と、意味不明な話をする僧侶のほうがよほど恐ろしい。
チノクラとは先ほど金咲がこじ開けようとしていた穴のことだろうか。
「さあ、チノクラに至れ。そなたたちの望みは今宵、満ちるであろう」
集まっていた人々は、まだ互いに視線を交わしていた。
だが、やがて一人がのっそりと立ち上がり。
二人、三人と立ち、縁側から庭に出ていく。僕は木の陰で目一杯体を折りたたみ、気づかれぬように構える。
「ところで、誰かがチノクラを漁っておったとか言うたな、その者共はどうした」
「二人がまだ動けた。チノクラに逃げ込みおったから追えなんだ。あとの一人は捨ててきた」
「そうか」
そして全員が出ていき、臥空は頬杖をついて口を開く。
「そこの御仁、もう出てきてよいぞ」
う、見つかってた。
一目散に逃げるべきかと思ったが、まだ村人がどこにいるか分からない。大声で人を呼ばれるわけには行かなかった。
僕はおずおずと木の陰から出ると、臥空の顔を見る。やはりお坊さんのようだが、無精髭が生えていて威厳はあまり感じない。だが眼光だけは鋭いと感じる。
「捨ててきた一人というのはお主だな。そのまま逃げればよかろうに」
見覚えは、ある。
この人物、バイトしていた居酒屋で見かけていた。正体不明だったので覚えていたのだ。
「知り合いを助けに……」
「すでに助かっておる。チノクラに落ちたのだ。救いはもたらされる」
「分からない……」
何も分からない。
彼らは本当にマトモなのか。マトモだとすれば、何を目的にして、何をしようとしている。
それが理解できないのが不快だ。自分たちだけで分かる言葉で喋ろうとするな。
「僕はあなたの言葉が何も理解できない。さっきの話もです。あなただって通じてないことを承知で話してる。それは誠実な態度じゃない」
「ふむ」
臥空は頬杖をついたまま、宙を見て言葉を探すような間を取る。
だが何も見つからなかったように見えた。ゆらりと立ち上がって、傍らにあった背負子を背負う。ねじまがった死体は彼の背中に隠れる。
「不明もまた地獄の一面じゃのう。だが理解したところで、さらなる地獄に落ちるだけかも知れんぞ」
「それでも聞きたいです」
「よかろう、では」
臥空は縁側から降りて、家の裏手に向かって歩き出す。
「チノクラに降りようかのお」
 




