第四章・1
両親を形容する言葉を知らない。
おとなしい人、感情が乏しい人、物事に動じない人。
どれとも違う。
あえて言うなら、人間のお面を被っているような人たちだった。笑うことも怒ることもない、目はどこも見ておらず、余計な言葉を発することもない。
子供の頃の僕がいたずらをしたり、わがままを言っても、叱りもしなければ罪を赦すこともない。
「お前がそうすることも、そうしないことも同じなんだよ」
そう言って、かがみ込んで僕の目をじっと見るだけだ。
そうされるうちにいたたまれない気持ちになり、僕は泣き出してしまう。そんなことを覚えている。
家は地方の名家だったらしい。多くの土地を所有していた豪農。戦後の農地解放で土地のほとんどを失ったが、ずっと変わらず村の顔役であり、地代としてたくさんの作物が届いていた。
そんな家は6歳の時に出ることになる。都会から来た遠い親戚という人たちが、両親と話し合って僕を連れ出したのだ。
両親は拒むことはなかった。ただ一言「お前はどうしたい」と聞いただけだ。
僕は目を伏せて、消え入りそうな声で、ここを出たいと言った。
まだ6歳で、なぜそこまでの決断ができたのか。
何を恐ろしいと思っていたのか。
その頃には言語化できなかったものが、今なら分かる。
江戸時代から続くという屋敷。
その奥座敷の囲炉裏に。
人間。
が。
吊るされていたから……。
※
バイト先が潰れた。
モグラのように地下に引きこもっていた店長が失踪し、カエルのようだった次の店長は逮捕された。複数の凶器を持って駅ビルのデパートに不法侵入したらしい。詳細はよく分からない。
街には噂が流れている。人が次々と埋められているという噂。
サバイブ、対話型AI上の存在。
セラさんの呪い。
殺人事件のニュースは絶えることがない。団地の片隅に埋められていた主婦。バラバラにされて河川敷に埋められた消防士。一軒家の床下に埋められていた老人。生きたままで、とはっきり報道されるようになった。
日本での年間の殺人事件発生数は1000件前後で減少傾向にあったはず。だが、明らかに例年をはるかに超えるペースで増加している。
ニュースはその理由を様々に報道する。世代による倫理観の変化。政治への不満の表れ。経済格差など世代の抱えるストレス。ネット上に流れる偽情報を真に受けたことによるもの。
そのネット上ではもっと多様な理由も語られる。櫟セラの呪いという説もその一つだ。
櫟セラは関わった人間の運命を操作し、生き埋めという結末へと導くという。
あのモグラのような店長は、おそらく櫟セラの呪いを受けた。
サバイブのことなど教えなければよかった。途中で関わるのをやめれば助かったかも知れないのに。
僕はもう無理だった。地下道のトイレに貼られていた短冊、あれを通じて櫟セラに触れてしまった。
携帯は壊して川に捨てた、部屋にはカギとチェーンをかけた。
だがそんなことでは逃げられない。僕はずっと震えている。
櫟セラは、いずれあの世界で死ぬだろうか。そうなれば僕に呪いが降りかかる。
恐ろしい。
死ぬのは怖い。
だが、櫟セラはそれだけでは終わらない。
生き埋めにされた人間を掘り起こし、どこか遠くへ連れて行くと聞いた。
腐った肉体を、朽ちかけた骨を、名前も知らない世界へ連れて行くのだ。
がん。
「!!」
びくり、と全身が剛直する。僕は全身に毛布をかぶってミノムシのようになっていた。その中でさらに身を縮める。
インターホンが狂気のように連打される。がんがんとドアの下の方を蹴っている。僕は布団の中で身動きが取れない。汗だくになっているのに全身に寒気が走る。歯をガチガチと鳴らして手足をぎゅっと折り畳む。
許してくれ。
見捨てたわけじゃないんだ。恐ろしすぎて登れなかったんだ。
あの階段を登るのは無理なんだ。
どうか許して――。
耳の中が空気で一杯になるような感覚。呼吸が早くなって心臓が早鐘を打つ。
いつしか音は止んでいた。僕は嵐が過ぎ去ったのを感じて。布団をそっと降ろしてドアの方を。
背後でガラスが割られる。
「!!」
叫ぼうとした瞬間。口を押さえられる。
「なんだ生きてんじゃねえか」
細い腕なのにすごい力、布団に押さえつけられて枕で顔を覆われる。
「騒ぐんじゃねえ。騒ぐとスタンガン食らわすぞ」
窒息させようとはしていない。だが馬乗りになられて身動きが取れない。足をばたつかせても何も変わらない。
「黒日くん、落ち着いて」
その人とは違う方向から声がした。どこかで聞き覚えのある声、女性の声。
「金咲さん、乱暴はやめて」
「OLの馬乗りだぞ、ご褒美みてえなもんだろ。おい暴れんな、いい加減にしねえと関節技かけんぞ」
ひどくサディスティックなテンション。僕は全力で暴れたせいか一気に疲労が来て、ようやく少し冷静になれた。喉で息をしながら目を動かす。
「な……仲良川さん?」
少し前にバイトで一緒だった人だ。その後に書店のバイトに変わったはずだが、どうしてこんな所に。
「ちょっと話を聞きたくて……ひどい部屋。ずっと閉じこもってたの?」
「お前、呪われてるか?」
金咲と呼ばれていた人が言う。全体的に肉が少なくて手足も細いのに、目だけがぎらぎらと光っている。犬歯を見せた獰猛な表情をしている。
「の、呪い……」
「櫟セラの呪いだ。この部屋の様子だとお前も手を出したな?」
呪い。
櫟セラ。
あの階段。
「あ、やべ」
金咲は僕の体をくるりと反転させて、そのあたりに落ちてたタオルケットを顔の下に入れる。
それは迅速で正しい行動だった。床を汚すよりは、タオルケットを吐瀉物まみれにしたほうがマシだから。
※
「落ち着いたか?」
「はあ、まあ……」
「そうか、まあ食え食え」
場所を移動して、近所の焼肉屋へ。
こういうのって普通は喫茶店とかじゃないんだろうか。なぜ焼肉屋なんだろう……。
まだ午前10時であり客はほとんどいない。僕たちは奧のボックス席につき、僕の向かいには仲良川さんと金咲が並ぶ。金咲は紙ナプキンを襟に刺して肉を焼いている。
「黒日くん、何日ぐらい引きこもってたの」
「たぶん、七日ぐらいかな……」
仲良川さんは、サラダと玉子スープを注文すると、それを僕の方に差し出す。
「少しでも食べたほうがいいよ、ひどい顔してるよ」
「そう、かな」
引きこもるとは言っても食料を確保してたわけじゃない。セラさんの呪いが恐ろしくなって、ある一瞬を境に全く身動きが取れなくなった感じだった。
「髪がうぜえ、このあと床屋行ってこい、駅前の1000円のとこでいいから」
金咲は肉をトングで押さえつけながら言う。確かに髪はひどい状態だ。脂で固まってるし、前髪は目を完全に隠す長さになっている。
「あの、仲良川さん、こちらの方は」
「金咲星さん。週刊新柳の記者さんだよ。ちょっとした切っ掛けで知り合って、今はその……」
「こいつと同棲してる」
え、と目を見開く。
「同棲……?」
「ええ、まあ、その、なりゆきと言うか……」
「怖くて一人じゃ寝れねえんだと。寝てるとしがみついてきてマジうざい」
「しないから! というかベッドは別でしょ!」
何が何だか分からない。
「ごめん、話が……」
「ああ、ええと、ちゃんと説明するには……」
仲良川さんは話す順番を考えているのか、視線を一度上に放り投げてから言う。
「私も……櫟セラの呪いを受けた」
「……!」
「櫟セラを助けられなかった。というよりスマホを壊したから最後まで見届けてない。一人でいると、あらゆる場所に生き埋めって言葉がちらつくの」
「生き埋め……」
「あの呪いは特殊。受けた人間は生き埋めが近くなる。何がきっかけて生き埋めになるか分からない。あるいは自分自身で穴の中に入っていくかもしれない」
ぐっと胸の前で拳を握る。気丈さと聡明さを併せ持つような人だったけど、今はどこか疲弊しているように見えた。何日も徹夜を続けてる人のようにも。
「1日に何度か、強烈な恐怖に襲われる。だから一人では生活できないの」
「……そうなんだ」
噂は僕も聞いていた。セラさんの呪いを受けると生き埋めにされるが、セラさんがやってきて埋められるわけではない。何らかの理由で埋まるという。
それは運命を操るという意味なのか、それとも人の心に根を張り、生き埋めへと近づけようとするのか。
ある種の寄生虫の話を思い出す。その寄生虫は中間宿主であるカタツムリに寄生し、脳を乗っ取り、鳥に食べさせるために高いところへ移動させるのだとか……。
「金咲さんは……個人的な理由でセラさんの呪いを食い止めようとしてる。だから私も協力してる」
「ちょっと違う。あたしは自分の目的のためだけに行動してる。人助けなんかしてる暇ねえ」
がしがしと、いつのまに注文したのかステーキ肉を噛みしだいている。
「あたしは櫟セラだ」
唐突にそう言う。僕は何のことか分からない。
「はい……?」
「あのサバイブが女子大生生き埋め事件をモチーフにしてるのは知ってんだろ。あたしがその被害者の櫟セラだよ。金咲は偽名だ」
その言葉が、僕に浸透するまでたっぷり8秒。
「は……!? だって、死んだって」
「ああめんどくせ。生きてんだからそれでいいだろ。理由もだいたい分かるだろ。女子大生生き埋め事件の犯人はまだ捕まってねえんだからよ」
そうか……犯人がまた襲ってくるかも知れない。だから名前を変えた……ってことなのかな。
「お前を助けたのも別に意味なんかねえ。仲良川がお前のことを覚えてて、様子を見に行くって言うからついてきたんだよ」
と、肉汁のしたたるフォークで僕を指す。
「様子を……あのでも、住所とか」
「履歴書……いや、んなもん適当にググれば出てくるだろ」
そう……なのかな? 最近はほんとに個人情報もあったもんじゃないな……。
「……まあそれはいいとして、黒日くん、セラさんのサバイブをプレイしたのよね」
「ああ……」
「呪いは受けてる? ふとした時に生き埋めって言葉で頭が一杯になることは?」
「それは……ない、かな」
ん、と金咲がこちらを見る。
「おい、櫟セラは助けられなかっただろ。それか、ゲームの途中で長時間放置しただろ」
「うん……10日ぐらい毎日話をしてたけど、それ以降は、怖くなって、もうずっとプレイしてない」
女性陣二人が顔を見合わせる。
「ほんの一瞬ログインしただけなら、呪いを受けないらしいけど……」
「おい、通算で何時間ぐらい会話した」
「20時間ぐらい……雑談とか、僕の身の上話とか、同じような話を何度もしたけど」
二人の頭に疑問符が飛んだが、仲良川さんが納得したように手を叩く。
「あ、じゃあ偽物だったんだ。よかった。噂が広まってから、それっぽいサバイブを自作する人も増えてるからね」
「ち、人騒がせな。なんで引きこもってたんだよ」
「いや……世間で生き埋めのニュースが増えてきて、怖くなって」
そうか、偽物だったのか。
じゃあ呪われる心配もなかったのか。
あのリアルさで偽物というのは妙な話だけど、今どきサバイブなんてツールがあれば1日で作れるしな……。
「じゃあ……これも処分したほうがいいかな」
僕は財布の札入れに入れていたものを出す。
手のひらに収まるほどの、QRコードの書かれた短冊。
その時、近くを歩いていたウェイトレスさんがびくりと振り向く。
悲鳴が上がったためだ。獣が絞め殺される瞬間のような、仲良川さんの悲鳴。
「ど、どうし……」
「仲良川、目を閉じてろ、いま調べる」
金咲はポケットからカメラのレンズのようなものを取り出す。それはコードが接続されて金咲の大きめのバッグへ繋がっている。
「そ、それ何ですか」
「高倍率のレンズをつけたデジカメだよ。QRコードを調べるのは危険だから、紙の繊維のパターンを照合する」
やがて結論が出たようだ。ピッという音が鳴る。
「同じ紙だ。本物だな」
「ど、どうして……じゃあ黒日くん、呪いを受けてるんじゃ……」
「どういうわけか分からねえ。だがこいつは死んでない。生き埋めという言葉にも侵食されてない」
金咲は僕をじろりと見る。穴が空くほど。ある種の殺気に近いほどの強さで睨んでくる。
「黒日くんだったか、悪いが帰すわけに行かなくなった」
「えっ……」
「まあ安心しな」
金咲は机越しに伸び上がってきて、おそらくは笑顔と思われるものを顔に貼り付けて言う。
「しばらく観察して、ほんとに呪いを受けてないか調べるだけだ。美女二人と楽しい同棲生活できるぞ、よかったなあおい」
「美女……二人……?」
拳が飛んできた。




