第二章・6
「え……」
櫟セラ、この人が?
カエルのような男は腰のポケットからナイフを抜く。二つ折りになって携帯できる折りたたみナイフだ。
「げ、ぐ」
好ましい人物とは思っていなかったが、今の店長は人間ではないモノに見える。眼球をめちゃくちゃに動かし、泡を吹きながらずかずかと接近する。腕を大きく振って、一切の迷いなく斬りつける。
「ちっ」
櫟セラ。いや、金咲と呼ぶべきなのか、彼女はステップを踏んで後退。
大きく下がるごとに相手も踏み込んでくる。だが地下搬入口の近くにはものが多く、大きく動けない。やがて金咲の腰が何かにぶつかる。
自転車だ。国際的なロードレースの宣伝として展示する予定のスポーツタイプ。だがまさかそれに乗って逃げることなどできない。
金咲が何かを持っている。それは筒の先に2枚の金属板が突き出ている道具。金属板の大きさは名刺ほど、用途が分からない。
そしてやはりコードが、金咲の持つバッグへ伸びている。ジッパーの一部がほどけてバッグの中身が見えている。コンセントを備えた箱形の機械。
「電源装置……?」
二枚の金属板が、ロードレーサーのフレーム部分に押し当てられる。
モーター音。2枚の金属板が接近し、フレームを掴んだ。
そして金咲はロードレーサーを持ち上げる。カーボンシャフトで軽いとはいえ、片手で。
フレームが回転する。
どんな機構をしているのか、金属板に挟まれた部分を支点にロードレーサーが回転を始める。すさまじいモーター音と手元からの白煙。モーターを焼き付かせながら瞬間的な力を出しているのか。
「ぎ……」
カエルのような店長が、初めて怯えを見せた。
だが金咲との間に駆け引きは無かった。回転するロードレーサーで、そのまま顔面を殴り飛ばしたのだ。
「ぎっ!」
カエルが潰れるような音を出し、地面に飛ばされて悶絶する。さすがに今度はすぐに起き上がってこれない。
その時、ばんと非常口が開いて、複数のマグライトの光がほこりっぽい店内を照らした。
警察官だ、複数人いる。
「おい、逃げるぞ」
「えっ」
金咲は私の手を引く。線が細いのにすごい力だ。腕がもげそうになるのを耐えて、どうにかついていく。
非常階段のある階段室へ駆け込む瞬間、私のいた空間をマグライトの光が薙ぎ払った。
バックヤードを2階まで駆け上がり、破壊されていた社員用通用口の扉から通路へ。
「あ、あなた何者なの」
「今はただの記者だよ。おい、それとお前のスマホ貸せ、セラさんと繋がってたやつがあるだろ」
「? う、うん」
手渡す。画面はまだ暗かった。そういえばセラさんはどうなっただろうか。
きゅいい、と音がして、金咲の手にはあの小型のチェーンソーが。
「あ、待っ」
ずすっ。
そんな音を出して、段ボールのように刃が貫通する。
「ひどい!」
「言っただろ、お前はセラさんに呪われてる。だから壊した」
「……スマホを壊せば逃げられるの?」
「さあ知らね。やらないよりマシだろ」
「……」
金咲星、かつての名前は櫟セラ。
何というか、生き埋め事件の被害者というイメージとぜんぜん違う。それはまあ、スポーツもやってて活動的な人物というのは聞いていたが。
私達は通用口からそっと駅ビルへ。飲食店街に出たが人はまばらで、パトカーのサイレンの音も聞こえる。
私達は人ごみにまぎれて駅ビルを出る。
「なんで警察が来てるの?」
「通報しといた。凶器を持ったやべー男が駅ビルに侵入したってな」
「……わからない。あれは前のバイト先の店長よ。なんで私を……」
「クスリの取引だよ」
クスリ? 医薬品?
いや違う。非合法なものの方か。
「あの店長、ヤバい薬を仕入れて、店で売りさばいてたんだよ」
店長が?
あの人は本社所属の派遣店長で、おっとりしててあまり仕事に本腰を入れない人物で、私の胸を見てた印象しかない。そこまで悪人には見えなかったけど。
「ち、充電が切れた」
金咲は腰の機械をぶんぶんと振っている。それって電源装置だったのか。かなり大型で重そうだ。チェーンソーだとか回転する金属板だとか、彼女の武器を扱うのに必要なのか。
「おい、あんたの家が近いだろ。説明してやるから今日は泊めろ」
「う、うん、いいけど……あれ、なんで家が近いこと」
「おら急ぐぞ、職質受けたらやべえんだよ」
駅前は騒然としている。まだどこからともなく非常ベルが鳴っているのだ。消防も来ている。私は何かの映画を観るような心境でそれを眺める。
私の身に起こったこと、私の周囲で起きていたこと。
これほどの目にあっても、それはどこか遠く感じていた。現実感がなかった。
私にとって、世界は常にどこか遠くて……。
※
「あたしは助けられて入院してた時に、自分を死んだことにしようと思った」
翌朝。金咲はお茶漬けをかき込みながら言う。
「警察の事情聴取は受けたけどね、マスコミには私が死んだと伝えてくれと頼んだ」
「そんなこと可能なの?」
女子大生生き埋め事件はかなりセンセーショナルなニュースだったはずだ。その犠牲者がまったく報道の光を向けられない、というのも非現実的に思える。
「できたんだからしゃあねえだろ。警察にあたしに同情的なやつがいたんだよ。ともかくあたしは名前を変えて別人になって、週刊誌の編集部でバイトして、何年か後に社員になった」
「……週刊新柳」
「昔はお固い雑誌だったらしいけど、今はゴシップとオカルトの雑誌だよ。そこが都合が良かった。いろいろ情報が入ってくるから」
「……あなた、もしかして自分の事件のこと」
「突き止めたいんだよ」
床の上であぐらをかきつつ私を見る。金咲はスーツとワイシャツを脱ぎ捨ててインナーだけという姿だが、その眼光は野犬のように鋭い。サイドを刈り上げた髪は剣山のように尖って見える。
「あたしが一年間、生き埋めにされたことはそこまで恨んじゃいない。だけど、あれだけのことをやるには意味があったはずだ。それが知りたい」
「それで……セラさんを追ってるの?」
「当たりだと思った。あのチャットソフト。あれを作ったやつはあたしの事件のことを知ってる」
「どうして?」
「あたしは実物を見てないから噂を聞くだけだが、セラさんは何を食べてるのか話してくれないらしい、それがビンゴだ」
何を、食べているか……。
確かにセラさんは話してくれなかった。セラさんのミステリアスな部分を演出する仕様だと思っていたが。
「確か……女子大生生き埋め事件のときは、大量の缶詰が用意されてたとか」
「それはフェイク。あたしが何を食べていたのか警察は明かさないことにした。真犯人しか知らない情報が逮捕の役に立つから」
「え、じゃあ何を」
「話したくねえ」
ぶつん、と縄を断ち切るように言う。
「その情報は明かしたくねえ。どこから漏れるか分からない。それを知ってるのは警察の一部と、あたしと犯人だけ。その情報は犯人に繋がってるから」
何を、食べていたか。
金咲は剣呑な気配を出しているけど、その様子にはどこか畏れが見える。言葉にするのも恐ろしい。言及するだけで危うい、とでも言うような。
食べていたことが禁忌になるほどのもの……? それは、たとえば。
「言っとくが人肉じゃねえぞ」
「……別に、そんなこと思ってない」
想像してしまった。地下室には他に何人もの人間がいて、互いに殺し合ってその肉を……。
「人肉なんかで一年も暮らせるわけねえだろうが。栄養も偏るし料理も大変だし、冷蔵庫なんか置いてなかったんだよ」
「分かってるよ、何も言ってないでしょ」
「で、セラさんだ」
金咲は話をそこに引き戻す。
「あれに関わると呪われる。そして生き埋めにされる。週刊新柳に集まってる情報だけでも何人も死んでる」
「呪いなんて……」
「あるだろうが。あんたがやってることだ」
「え?」
金咲は机の上を指差す。そこには私のスマホがあった。1台は金咲に壊されたから、これはサブのほうだ。
「生き埋めにされる、という言葉がネットの上を走り回ってる。どんどん数を増してる。そういうのが人の心に影響する」
「影響って……」
「人を殺すのに別に生き埋めにする必要はない。だけど生き埋めという言葉を何度も見ていると、それが当たり前のことに思えてくる。そうすべきだと思えてくる。だから実際にそうする。そんな理屈だろ」
……理屈は分からなくもない。実際に私は、あのカエルのような男に生き埋めにされそうになった。
ある偉人は、思考がやがて言葉になり、言葉がやがて行動になると説いた。
では、己から生まれたものではない言葉でもそうなのだろうか。生き埋めという言葉が、やがて見ている人間の思考となり、行動となる……。
「あ、そうだ、なんで私は襲われたの?」
「だから言っただろ。あの店長がクスリを売りさばいてたからだよ」
金咲は、その説明はもう済んだだろう、というニュアンスをにじませて言う。
「クスリがどう関係するの?」
「あの店長、自分の机の中にクスリと顧客リストを持ってた。それが無くなったんで焦ったんだろ。バイトの誰かが持ち出したに違いない、殺してやる、となった」
……ん? 無くなった?
それに、金咲はなぜクスリの所在を。
あ。
「……あ、あなた、居酒屋に忍び込んだでしょ!?」
「あの店にセラさんの短冊があったって情報が入ったんだよ。あんたのバイト先だったんだな。すげえ偶然だが……まあ無くもねえのかな。呪いは伝染するわけだし」
金咲は一人でぶつぶつ言っている。
つまり、金咲がセラさんの短冊を探して居酒屋に忍び込み、履歴書をごっそりと盗み、ついでに店長の持ってたクスリも盗んだ。履歴書は、バイトの中にセラさんの被害者がいないか探すためだろう。
店長から見ると、その直後に私から電話があったことになる。
店長はどう考えただろうか。盗んだのは私だと考えた?
そうか、私は机を調べてみろと示唆するような電話をかけた。つまりクスリのことは知っているぞと、自分を脅していると考えた……。
「もしかして……あなたのやったことのとばっちりを受けてない……?」
「だから助けたろうが。クスリのこともあったし、あたしはあの店長の方に張り付いてたんだよ。そしたらこのマンションの5階の部屋を荒らすわ、夜中に駅ビルに忍び込むわでよお」
助けてくれたと言っても、成り行きの上でのことらしい。
「結果としては無駄骨だ。クスリを扱うようなでけえ組織なら、あたしの事件に関係してるかと思ったけどよお。セラさんの影も形も出てこねえ」
金咲が追ってるのはあくまでセラさんのこと。ひいては自分の事件のことだけらしい。
あの居酒屋にセラさんの短冊があったなら、店長がそれに関わってると読んだわけか。
「あの短冊は燃やせよ」
凄むように言う。
「似たようなものを見つけても二度とアクセスするなよ。あと、まとめブログは消せ」
「……短冊は燃やす。でもブログは」
「分かってんのか。あれのせいで噂の広まり方が異様に早い」
金咲が目を平たくして、噛んで含めるように言う。
「大昔の口裂け女だとか人面犬だとか、全国に広まるまでに数年かかってる。それが今じゃ数日だ。ネットで一度バズっちまえば、次の日にはみんな知ってる」
「……」
「噂が記事になって、その記事が即座に転載されて、さらに別のとこがまとめる。噂ってのは広まりやすさが力になる。今はまるで風呂場のカビだ。早すぎて手に負えねえ」
噂に力があるのなら。
今は確かに、異様な時代だ。
その広め手はもはや人間ではない。BOTが情報を集め、加工して編集して再生産する。半分以上は自動的に行われている。百の目と千の耳。そして万の口を持つ怪物のよう。それが際限なく噂を広めて、言葉をばらまいて、人を操っている……。
「ブログについては……考えとく」
「ちっ、まあいい、一つ二つ消したぐらいでどうにもならねえからな」
金咲は立ち上がって、床に投げ出されていたスーツに袖を通す。
「帰る。二度とセラさんに手を出すなよ」
「分かったよ……下まで送るから。ついでにゴミも捨てたいし……」
見送りたかったわけではない。何となく、この女が自動ドアの向こうに行くのを見届けたかったのだ。私はゴミ袋をベランダから出し、サンダルを履いて廊下に出る。
外は朝の気配が漂っている。少し涼しい風と、中高生の乗る自転車の気配。そんな日常が奇妙なものに思える。
駅ビルであれだけの騒ぎが起きたのに、私や金咲に警察の手は伸びてこない気がする。どこかで人の社会が麻痺していて、鍋の灰汁のように沸き立つトラブルが、無感情のまま放置されているような。
「……クスリだなんて、全然知らなかった。そんなこと噂もなかったし」
愚痴のようにそう言う。
「そりゃ知らねえだろ普通、そいうのはこっそり売るもんだろ」
「前のバイト先の店長なんて……ぜんぜん考えもしなかった。そんな情報は一つも無かった」
「ああ?」
外へ出る。金咲は太陽を手で防いで眩しそうにしつつ、唇を尖らせる。
「情報が無かったやつが真犯人。ヒントが一つもない事が真相。それがどうしたよ。普通のことだろ」
「……」
それは、そうだ。
現代は、なまじ大量の情報が手に入るから、その中に「真相」があると考えてしまう。ヒントの無い「真相」はありえないと感じてしまう。
おかしなことだ。現実はミステリー小説ではないのに。
「バス停どっちだよ」
「ちょっと待って、いまゴミを、捨て」
生き埋め
「……?」
目が。
何かを捉えている。
マンションの入口脇にあるゴミ捨て場。その扉の前に、貼り紙が。
管理組合より
イト月ケナ日
仲良川深佳 ハ
イキ雨メ にサレます
住にん の方は梅ル場所
荷 お気を付け くダさい
けして 這い上がらヌ 用に 深く
埋め手
クダサイ
震えている。
私の意思と関係なく、目から言葉が入り込む。
錯覚だ。
私を生き埋めにするような貼り紙が、あるわけがない。
目に力を込める。視界が揺れている。文章の全体像が見えない。ただ生き埋めという言葉だけが。
顔がかあっと熱くなる。眼球が震えて焦点がぶれる。生き埋めという言葉が脳に食い込む。
錯覚だ。
見間違いだ。
目を強く閉じて、唇を噛んでから開いても、まだそこにある。
貼り紙、が。
道路が、マンションの壁が、家々の窓が、貼り紙で埋まっている。
生き埋め。
イキウメ。
赤い文字が、言葉が、風景のすべてを埋め尽くしている。私に向かって千の絶叫が降り注ぐような感覚。
そんなはずはない。
錯覚に決まっている。
消えて。
消えて。
こんなことが、現実のわけが。
「おい、どうした」
「わ、私……」
消えない。
何度見ても。文章が変化しない。
現実が歪んでしまったのか。それとも私が狂気に落ちたのか。
あるいは、絡め取られたのか。
「呪いが、解けてない、みたい……」
私は貼り紙に爪をかけると。一気にばりばりと剥がす。
爪がはがれて、鉄の扉に血の跡が残った。




