第一章・1
呪われるんだって。
そう聞こえた気がした。
どこかに落ちた陶器の破片のような声。
腰を伸ばして耳を澄ます。22時半の店内はカウンター、個室ともに満席。誰が発言したのかは分からない。
そもそもお客が何を話していようと気にするつもりはない。腰をかがめてテーブルの片付けに戻る。
「すいません、熱いお茶もらえますか」
「はい」
とっくに予約時間を終了し、グループの会計も終わったこの男はなぜ茶を注文したのだろう。疑問には思うが厨房まで戻って茶を淹れる。氷のバケットから細かい氷を2、3粒取り出してスプーンでかき混ぜる。こうしておくと早く飲めるので長尻にならない。本当に熱いお茶など客も望んでないだろう。
「店長、揚げ豆腐、鶏皮揚げ、餃子、全部ひとつです」
「わかった」
店員の置いた注文チップを目視、言われたものと合ってるかを確認してから、どの順番で作るか考える。
「店長」
女子の店員が声をかける。
「どうしたの仲良川さん」
「コースの料理が注文したのと違うって、1番の個室のお客さんが」
「このお茶4番の個室に持っていって」
個室へ行って確認。結論から言えば客の勘違いだったが、おかしいと何度も言ったのに料理がどんどん出てきたとのクレーム。数分のやり取りの上で納得してもらえた。おかしいと言ったのなら料理の提供はそこでストップするマニュアルになっているが、まあ客の言動をいちいち疑っても仕方がない。騒ぐほどのことでもない。
ラストオーダーも終わり、閉店時間を過ぎる。レジの締めをして厨房の片付けをして、日報を書き始めるのは午前零時を回っている。
発注は行わない。提供された品はすべて本社で管理されており、よく売れた品は追加発注がかけられる。
「庭野さんって帰らないですよね」
仲良川が小さめのリュックを背負いつつ言う。この子は俺を店長と呼ぶ時もあるし庭野と呼ぶ時もある。ほとんどランダムで、使い分けてる感じでもない。他のバイトは次々と店を出ている。
「どうせ社宅だしな。ここで寝ても同じことだ」
「洗濯物とかどうしてるんですか」
「ここで洗ってる」
別に店内に洗濯機があるわけじゃない。ここ、とは地下全体のことだ。
この店がある地下2階は食堂フロアになっており、地下通路を通ってターミナル駅の地下街まで行ける。コインランドリーもクリーニング屋もある。
「休日とかどうしてるんですか」
「別に。スマホいじったり、店のことしたり」
「そうかあ、駅ビルに東急ハンズあるし、阪急のビルまで行けば映画館もありますしね。外に出ないまま何でもできますね」
仲良川はどうでもいいような話をしている。何か言い出したいことがあるのだろうか。
この子の希望は大体いつもシフトのことだ。俺は話を引き出すように問いかける。
「仲良川さん、来月のシフト作るけど希望とかある」
「ああ……えっと、黒日さんと分けてもらうってできます?」
黒日もうちのバイトで大学4年だか5年だか。やや陰気な印象のある男だが、パソコンに詳しいので重宝している。
「何か嫌なことあったの」
「えー……何も無いですけど、だってその、目が怖いっていうか、なんかじろじろ見られてる気がして」
「気があるんじゃないの」
「まさかあ」
目を丸くして驚く。
別にまったくあり得ない話でもないだろう。この子にとっては考えるのも無理な相手らしい。
「別に何も無いですけど、ちょっと不安なんですよ。最近怖いニュースとかも多いし」
「分かったよ。でも完全に分けるのは無理だぞ。人手不足なんだから」
「早くバイト入れてくださいよお」
「そうだな」
むしろ本社からは減らせと言われている。仲良川はシフトの希望を伝えられて安心したのか、一礼して帰っていった。
店内に一人残って、俺はごきりと首を鳴らす。
休憩室は厨房の奥。燻煙のようなカビのような匂いの漂う4畳の部屋。
俺は寝袋を持ってきて、ごそごそと下半身だけを入れる。
会社が契約してる社宅は歩いて15分の距離だが、近すぎて逆に帰る気がしない。川沿いの一階なので蚊が多いことにも辟易する。
換気扇の音。どこかから笑い声か、あるいは誰かの愚痴のような言語にならない声。まだ営業してる店は何店かある。
重量を感じる。自分の上に数万トンもの石が乗ってるような感覚。ビルの地下2階だからか。木の根のように配管が張り巡らされ、空調の振動を届ける気がする。
少し喉が渇いていた。厨房へ向かう。個人の品であるビール瓶を1本ひっつかみ、まかないの残りの魚をオーブンで焼く。
振り向く。
店内は誰もいない。低い場所を這うような換気の音だけがある。
ざわざわと大勢の声。その声はいつも響いている。隣の店舗からか、それともコンクリートや通風口から伝わってくるのだろうか。
客などいるわけもないが、魚が焼けるまでにもう一度店内を見て回ってもいいだろう。
カウンター席を見て、出入り口の施錠を確認し、個室を1つずつ見ていく。開店から20数年だという古い居酒屋、いちおうチェーン展開しているらしいが、他の店舗は見たことがない。誰のものか知らないサイン色紙、竹を編んだ置物、防犯ポスター。
俺は順に見て回る。1番の個室、2番の個室、3番の。
壁に。
「……?」
最初はそれが何か分からなかった。飲食店の壁に何気なく貼ってある、どこかの寺社の御札かと思った。
短冊状の紙片。その下半分に四角い模様のようなもの。絵のようにも文字のようにも見える。輪郭が曖昧で、にじんでいる部分もある。
だが四角い範囲の右上、左上、左下に漢字の「回」のような記号がある。
これはQRコードだ。
この「回」が三方にあることで、カメラがコードの正しい向きを読み取るらしい。
いや、そんなことよりこの短冊は何だ。壁に画鋲で貼ってある。客がやったのか? 勝手なことを。
俺はその短冊を剥がし、壁に空いた穴を確認。気になるほどの穴ではなくてほっとする。
俺は休憩室に戻り、魚をつまみに一杯やりながら、その紙をしげしげと眺める。
店内に広告用のステッカーをこっそり貼るやつはたまにいる。金融機関とか水道の修理とか、ひどい例だとパパ活の呼びかけとかだ。
だがこれは何だろう。このQRコードはまさか手書きなのか? これをドットの集合と見れば数は百ほどあり、URLとしては短いが、手書きにしては手間がかかっている。ただの悪ふざけだろうか。
俺はスマホを取り出して撮影してみる。輪郭が曖昧な割にはすぐに読み込んだ。
やはりURLが表示される。これをブラウザで開くか、それともURLをコピーするかの選択肢が出る。
「……」
まさかウイルスでもなかろうとアドレスを開く。するとスマホの画面が暗転した。黒一色の画面。だが電源が落ちたわけではない。ブラウザが動いている気配がある。
地下の休憩室は静寂からは遠い。大勢のざわめきのような背景音。地下を満たしている有象無象の声。
文字が。
【タスケテ】
【助けテ】
【助けて】
【イキウメニサレテイマス】
【生きウメニサレテイマス】
【生き埋めにされテイマス】
【生き埋めにされています】
カナで言葉が表示されたあと、それが漢字仮名交じりに直されていく。黒背景に白い文字、だがどこか赤い色を感じる。背景の黒のどこかに赤が潜ませてあるような気がする。
【お願い誰か】
【お願い……誰か】
文章が微妙に変化しながら定着していく。発言の中のわずかな沈黙が三点リーダーで表現される。
画面下に文字入力が出現した。何かを入力しろと言うのか。
これは動画広告ではないと感じる。誰かが発言しているのか。
俺は親指を動かして入力。
――これは何だ?
【ア】
【あ】
一瞬だけカナが表示され、それが平仮名に変化する。
【お願いします、助けてください】
【暗くて怖いんです】
【どうかお願いします】
新しく文字が表示されると、それまでの文字は上に押し上げられていく。画面をスクロールすると発言のログを追えるようだ。
――あんたは誰だ。
質問してみる。少しの沈黙のあと、答えらしきものが返る。
【私は、何日も前からここに閉じ込められています】
【スマホで誰かに助けを呼べって、でもこちらから呼びかけるのはできなくて、やっと誰かが開いてくれて】
やや混乱しているのか、言葉の主述がはっきりしない。文字の入力速度から見て早口になっているようだ。
いや、これは文字入力ではないと感じる。この人物の発言がマイクで拾われて活字に起こされているのか。
――落ち着いてくれ、閉じ込められてるってどこに。
【たぶん地下です。窓の外は土しかなくて、何の音も聞こえなくて】
地下……。
――窓の外は土なのか?
【はい、変なんですけど、ガラス窓の外に土が詰まっていて、普通のマンションみたいなのに、埋められてるような気がして】
――落ち着いて、ゆっくり説明してくれ。
文字の出現が止まる。画面の向こうで深呼吸してる気配が伝わった。
【ここは地下だと思います】
【マンションの部屋みたいに見えます】
【リビングがあって、寝室があって、子供部屋があって、玄関もあるけど、ドアは開きません、内側のノブが外されてるんです】
【明かりはつかなくて、ロウソクとマッチが入った箱だけがありました。それを使っています】
【すごく静かなんです……昼なのか夜なのかも分からないんです】
【人の声とかもしなくて、窓の外は土だけがあるんです】
部屋が土の中にある、という説明は想像しがたいものがあるが、この人物はまさか本当に生き埋めにされてると言うのだろうか。であれば大変な話だ。
――警察に連絡したほうがいいか。
【ダメ!】
エクスクラメーションが表示される。語気の強さを示すかのようだ。
【ダメなんです。それはダメだって、ルールが書いてあるんです】
――ルール?
【赤い文字で。警察を呼んではいけない。警察が来ると毒ガスが出てくるって】
毒ガス……。
――他のルールは?
【配管を叩いてはいけない。意図的に壁やカーテンに火をつけてはいけない。それと警察のこと……この3つです】
俺は帳簿のノートから1枚を切り離して、そのルールを書き記す。
まさか、これはデスゲームというやつなのか?
どこかの猟奇的犯罪者が、人を監禁してスマホだけを与えている? 俺は親指を動かす。
――どうすればいい? 俺になにかできることは?
【分からないです……ここから出たいけど、私、どうすればいいのか】
と、そういえば俺はこの人物の性別も知らない。言葉の印象から何となく女性のような気はするが、確認しておこうか。
――落ち着いて……まず君のことを教えてくれ、名前とか、プロフィールとか。
【わ、私は】
少し戸惑うような気配があった。異常な状況ではあるが、それでも声だけの相手に自分のことを話すのは抵抗があるのだろうか。
【セラ、です】
地下にはざわめきのような、波濤のような音が流れている。
大勢が話すような、ずっと遠くで電車が走るような。
呪われるんだって。
その言葉が、ふと耳のそばをかすめた気がした。