慈杏の計画1
「また移転の話?」
店の奥から慈杏が顔を出した。
奥は店主家族の居住区域になっている。直接店舗に出られる仕組みになっていた。
慈杏は先日ミカと話した内容を進めるにあたり、とにかく一度父親の若人としっかり話してみようと、代休を取り、若人が店主を務める生家のパン屋に来ていたのだった。
先ほどスーツの男が出て行った扉を見ながら、若人は言った。
「ああ、はっきり断ったつもりだったんだがな」撫然とした言い方だった。
「もう続ける気もないし、って?」
「そうなんだが、それだけじゃない。続けるとしても受けなかっただろうな」
「続けない」と言う部分を口にする慈杏の表情に含みを感じた若人は少し言い訳するように言葉を続けた。
「話の内容は悪くないんだ。裏も取れているし実現性もある」
「一応裏とか取ってるんだ? さすが元銀行員」
「俺は乗るつもりはないが商店街の他の店舗にも話がいくかもしれないからな。万が一詐欺の類だったら注意しなくてはならないだろ」
「なにか気になることが?」
「……何の根拠もない話だ」若人は少し溜めて、言いにくそうだった。
「根拠もなく他人を貶めるようなことは言いたくないから、商店街の人間には言うなよ?」
わかった、と、慈杏は背筋を伸ばし、真摯に受け止めていることを示した。そんな慈杏を見て、若人は話し始めた。
「これは融資課での経験則に基づいた俺の持論だが、隙のある人間と同様、一分の隙もない人間にも気をつけたほうが良い」
慈杏は頷き続く言葉を促した。
「前者は単純な話で、融資を申し込むに当たって、事業計画や返済計画は実現性が高そうに見えても、服装や髪型や、表情、話し方など、バランスを大きく崩している要素がある人への融資は危険だと考えていた。
よくビジネスマンは足元を見ろって言うだろ? 考え方としてはそれと一緒だ」
実際、若人が担当していた顧客に、事業計画は完璧だったが、ジャケットは着用していたもののジーンズとスニーカーで相談に来た三十代の男がいた。
若人は直観で危うさを感じ取ったが、同席した上長はシステム系の会社だしそう言うものだろうと言う評価だった。計画もしっかりしているし、額もさほどではなかったから服装を理由に断るわけにはいかないと、承認が降り、融資が実行された。実際、銀行のルールとしては問題はなく、むしろ若人の勘を根拠に断っていたとしたら、その方が問題になっていただろう。
しかし、その会社は数年ともたず頓挫してしまった。
良いシステムだったのは若人も認めていたが、同時期に似たようなサービスを扱う競合が存在していたこともあり、思うようにクライアントを獲得できなかったのが直接の原因だった。
「彼は営業も兼ねていた。ここからは邪推だが、競合が存在している市場で、彼があのスタンスで営業をしていたのだとしたら、形式や礼節、前例を重んじる業界や企業の決裁権者の信用は得にくかったのではないか」
そして、得てして大きい企業ほど歴史が深い可能性が高く、そのような傾向を持っているケースが見受けられる。
会社の運営、利益追求という点だけで見た場合に於いての必要とは思えない要素で、大きな案件を逃す可能性を高めてしまっているのだとしたら、競合との戦いはハンデを背負っての厳しいものだっただろう。
代理店勤務の慈杏にも思い当たることはあった。
クリエイターだからといってクライアントへのプレゼンに意図もなくラフな格好で行ったりはしない。