慈杏の決意11
新町は目にしていた資料を置き、改めて慈杏に向き直った。慈杏は少し緊張した面持ちで、新町の視線を受け止めた。
「あなたの考えはわかった。資料を見る限り、まだ時間はありそうね」
新町が見出している慈杏の特質のひとつに、果断であることが挙げられる。
慈杏は肌理の細かい計画を立てられる一方、決断は恐ろしく早く、決めた後の行動も早かった。その行動の根底に綿密な計画が敷かれているのだから、隙はないように見える。
しかし、決めた結論に向かって即突き進む推進力は幾分視野を狭める。他の選択肢について検討する素養には欠けるところがあった。
「ふたりにはもう話しているの?」
新町はチームメンバーのことを尋ねた。
その雰囲気は業務時間外で慈杏に接している時のようだった。
「はい、類には泣かれちゃいましたし、明け方まで付き合わされましたよ」
だから慈杏は、いつの間にか後輩を業務外での呼び方で呼んでいた。
「あはは、やめるなんて言うから。自業自得よ? 泣かせるなんて、罪な女気取りできて良かったわね!」
「意地悪言わないでくださいよ、玲央さん」
そして、社長のことも。
新町の場の空気を変える雰囲気変化はヒアリングやプレゼン時で大いに効果を発揮したが、その真骨頂は身内などに対し、自在に距離を縮める時に現れた。
社内では長い付き合いとなる慈杏は新町のそのような特質のをよく理解していたが、わかっていても巻き込まれたくなる心地良さがあった。
慈杏はつくづく、すごい人の下で働けて良かったと思いながら、憧れた先輩を見つめた。
新町は普段は肩まで下ろしている髪をうなじのところで縛り、毛束をヘアカフスでまとめていた。髪を上げているとショートだった頃の面影が現れる。
慈杏は新町の髪の長さを意識するたび、先輩の独立、つまり自身の転職から、随分と時間が経ったと思うこともあれば、まだまだ始まったばかりなのだなとも思う時もあった。
ちなみに新町が髪を伸ばしているのに特に理由はないらしい。いつ突然バッサリ切ってきてもおかしくないそうだ。
「あはは、ごめん。あの子、あなたに懐いているもんね。でも、あの子だけじゃないよ。百合に話した時、彼は淡々としていたかもしれないけど、本音はわかっているよね?」
慈杏は曖昧な笑顔で頷いた。
「百合が前職を離れた理由は言ったっけ?」
「はい、彼が入社する前に伺いました。簡単に言えば、上司に干されたような状態になってしまったのだと」
「そうね。言い方を変えればイジメ。
百合の一方的な言い分を全て鵜呑みにしたわけではなく、これでも業界内にそれなりに人脈はあるからある程度の裏は取ったけど、おおよそその通りのことは起こっていたようね。
ちなみにその問題の上司はまだ在職されていて、同じ部門のまま今は次長になっているそうよ。曲がりなりにも名の通った企業の主要部門で管理職を務め、その後昇進もしているのはひとつの事実として認めなくてはいけないわ」
新町は思案するような顔をしながら、手元のドルチェビータのボールペンをいじっていた。
新町が独立する際に上司が贈ってくれたものだ。
上司という立場について、新町も思うところがあるのだろう。
慈杏から見たかつての職場の上司と新町の関係性は良好に見えた。しかし、単純に良い悪いだけでは語れない何かはあったに違いない。
目的は同じ方向感でも、主義主張は個々にある。新町はきっと年次の浅い頃から主張が強かったと思えたから。
「部下にくだらない仕打ちをするような管理職なんてわたしは到底許容はできないけど、誰に対してもそうしているわけではないようだし、それなりに実績を上げてもいる。
翻って、百合にはその上司をそうさせてしまう理由が、あったということ。たとえその上司の一方的な感情や価値観によるものだとしても。
複数の第三者から仕入れた情報を客観的にまとめると、百合にも尖っていた部分があったようね」
新町は思案顔から笑顔に戻って、
「そんな百合も、慈杏には随分従順だったと思わない? 弧峰チームの仕事、楽しいって言っていたよ」
確かに百合はいつも楽しそうだった。渡会も。
そんな二人との日々は、慈杏にとってもまた、楽しくかけがえのない時間だった。