慈杏の決意8
「激アツ! 激アツリーチじゃないっすか! 俄然呼びません? ミカちゃん」
「もう帰ってると思うよ」何がリーチなんだろうか。相変わらず独特だなと慈杏は思いながらグラスに口を付けた。
「やー、ミカちゃんも先輩も激シブ!」まだ何やら感激している渡会を横目に見つつ、激アツじゃなかったっけ? まあ深く考えたら負けかなどと思いながら。
「でも先輩? 先輩も変なあだ名で呼んでるんですね。じゃあわたしも呼びますね。しょうがないですね、じあちー先輩」
なぜかも何を思ってかもわからないが、渡会は妙に自信満々で、更に慈杏を優しい目で見つめながら諭すように言っている。
「なに言ってんの? なにがしょうがないの? 変なあだ名って認めてるじゃん! わたしの場合相手先輩じゃないし! あだ名に考えたのわたしじゃないし! 元々そう呼ばれてたんだから! それに、ミカ自身が認めてるし! っていうか、最初に呼んで良いって聞いて良いって言われてるから!」
これまでの人生では、比較的筋の通った会話しかしてこなかった慈杏にとって、慮外の論理を持っている渡会の会話の展開に驚きを隠し得ず、つい大きな声が出てしまった。
「うわ! 先輩どとー! 怒涛のごとし! 武田信玄かよ! 侵略することシャイマス※のごとく的な⁉︎ うわっ、ノリ良いー! ふぅー! いかちー! ひゃっほー! かんぱーい!」
※ シャインマスカットのこと。渡会は何々の如くといえば武田信玄だと思っており、武田信玄は山梨あたりと思っており、山梨のことはシャインマスカットだと思っている
やっぱり酔っぱらってんなこいつ! いや、飲んでるんだから酔っていて良いのか。というかわたしも少し酔ってるなこれ。
慈杏は自らの混乱を認めながら、手元に残っていたギムレットを飲み干した。ライムの味って少し酸っぱいなと当たり前のことを思いながら。
その日以来、渡会は慈杏をじあさんと呼ぶようになった。
仲は良いとはいえ会社の先輩後輩の関係性だ。教育係と言う立場もあることから、一応節度は保とうと何度かやめてと言ってもやめてくれなかった。
慈杏も本気で嫌がっているわけではなかった。ほぼ本名のままだし、一応さんもついている。じあちーやJなどに比べれば一応先輩後輩の体面は保てている、と言えなくもない。
慈杏はなんとなくだが、少しでも嫌な気持が言葉に乗っていれば、この後輩はすぐやめるような気がしていた。
初日のできごとがそうだったように。そういう察しの良さが根底にあるから、一件ふざけたようなノリでありながら、社内からもクライアントからも協力会社からも、なんだかんだで愛されているのだろうと思っていた。
この子がわたしを愛称で呼ぶようになった日からどれくらい経ったっけな。
あっという間だった気がする。
毎日忙しかったというのはある。
実際、それほど長い期間だったわけでもない。
それでも、今振り返れば一瞬だったように思えるのは、やっぱりその日々が楽しかったからではないだろうか。
社長や先輩に対しての距離感に、本当にクライアントの面談に同席させて良いのかと不安を抑えながらの初同行。
三十分後には先方の応接室は笑いに包まれていた。
この子の誕生日祝いを、協力会社の担当たちが企画してくれたこともある。
そもそもが自ら誕生日アピールをし続けていた結果ではあるのだが。
それでも、協力会社の担当たちの笑顔は、義理や義務によるものではなかったと思う。
あの日、慈杏を愛称で呼びはじめた日と同じように隣に座る渡会を見ながら、慈杏は後輩との日々を思っていた。
人間関係の築き方は円滑な渡会だったが、それでもやはりこの個性である。危うさはいつだってあった。
それが最近は人懐こさはそのままに、安定感は増してきたように思える。センスだけで生きているわけではなく、日々成長もしていたのだなと慈杏は思った。
元々の強みに加え、弱みを解消しつつある後輩。日々成長してる。隣でドリンクをがぶ飲みしている姿はあの日と変わらないのに。
なんだ、わたしなんかよりも早く、独り立ちできそうではないか。
慈杏は少し目を伏せ、少し微笑んだ。
だから、心置きなく伝えられる。