慈杏の決意3
忙しかったあの頃。
仕事に夢中になっていたあの頃。日々にやりがいと充実を感じていた、あの頃。
残業の翌日でも、慈杏の朝は早かった。
大手だった頃はクリエイティブの社員は遅くまで作業をした翌日は時間をずらしての出勤を許されていたが、営業も兼ねているこの会社の社員は直行の者以外は始業時には全員揃っている。夜残りにくい分、少し早めに来て作業している者も居るくらいだった。
慈杏は学生時代に実家のパン屋を手伝っていた習慣もあり、早起きには慣れていた。
「はよざーす、じあさん! 眠いっすね!」
既に出勤しメールチェックをしていた慈杏の隣の席に座りながら挨拶をしたのが、慈杏が教育を任された新人の渡会類だった。
平均的な身長の慈杏よりやや小柄な女性で少しあどけなさが残る顔立ちだが、メイクのせいもあるのか勝気な印象を与える。
ライラック色の薄手のニットはパフ袖になっていて華やかだ。ベージュのワイドパンツ、パンプスはアイボリーで明るいトーンでまとめられているが派手さはない。
慈杏は心の中で「おしい!」と思っていた。ニットはオフショルダーになっていて、今日は外回りの予定が無いとはいえ、オフィスカジュアルとしてはラフな服装だった。
「おはよう。今日も元気だね」少し困ったような表情がまざった柔らかい笑顔で慈杏は後輩を迎えた。
素直で可愛く、困らされることも多い後輩。振り回された日々さえ、慈杏にとってはかけがえのない日々だった。
渡会が主導でおこなう初プレゼンの時、取引先の担当者と馴れ馴れしく話し始めて焦ったあの日。
その日の夜、渡会が初めて案件を取れたお祝いを串カツのお店でした。ソーセージ串ばかり八本も平らげるくらい渡会は喜んでいた。
慈杏から見たら良い出来に思えたクリエイティブを、渡会は自ら没にして、何度も何度も納得がいくまでやり直していたあの日。
まだ今ほど残業に厳しくなかったが、それでももう残っているのは渡会と慈杏だけだった。慈杏に、自分のこだわりでやっているだけだから気にしないで帰って欲しいと言う渡会。慈杏はそれに答えず、いったんタルトパーティしようと、近所のコンビニで売っていたタルトを買い占め、ふたりで平らげた。
なぜか妙なテンションで、ふたりとも何がおかしいのか、げらげら笑いながら作業をしていた。
そんななか生みだされた渡会のデザインは、クライアントからは「なんとも言えない迫力があり過ぎて、これにはNG出せませんね......」という評価を得て、社長の新町をして「いつか社史でも出すとしたら、初期『リアライズ』を代表するクリエイティブとして紹介されることになるだろう」と言わしめた傑作を生み出した。
キメっキメのガーリーファッションで出勤してきた渡会。今日は同窓会があるから終業と同時にダッシュで帰りますからねと息巻いていたあの日。
その翌日目に見えて憔悴しきった顔をして、初恋の人が婚約者と同棲してるらしいと嘆き、全く仕事が手についていなかった渡会に、慈杏は教育係として宥めながらも仕事はさせようとしつつ、内心では「やだ、何この子、乙女チックすぎ‼︎」と、幾許も年の差のない後輩によくわからない母性本能をくすぐられていた。
いくらでも。本当に、いくらでも思い出は溢れ出てくる。
それは出会いの日。渡会が入社してきたその日にまで遡っても、色褪せてはいなかった。
教育係を任された当初、当然のごとく慈杏は張り切っていた。肩の力が入りすぎていたと言っても良いくらいに。