慈杏の決意1
閑散としたオフィス内では、キーボードをたたく音だけがリズミカルに続いていた。
午後八時を過ぎ、残っているのは一人だけだった。弧峰慈杏はキーボードを打つ手を止め、冷めたコーヒーを一口含み、また先ほどと同じ動作に戻った。
新卒で大手の広告代理店に入った慈杏は、イメージしていた通りの華やかながらタフでもある業界で充分なやりがいを感じていた。
五年先輩で慈杏の教育係を務めていた新町礼央は営業本部内に四つあるグループのなかでも大規模案件を多く抱える第一グループで、次代のエースとして頭角を現しつつあった。
若手ならではの馬力のある新規開拓に、若手とは思えない巧みなプレゼンは慈杏を魅了するのに充分であった。
「弧峰、わたしは次行くよ」
ある日のプレゼンの帰り道、新町はショートボブの髪を揺らしながらさっそうと歩く。
慈杏はこの歩くのが早い先輩にいつもついていくだけで必死だった。
振り向きもせず独り言のように不意に紡がれた言葉に、慈杏は何と答えたのだったか、思い出せなかった。とにかくがむしゃらについて行こうと思ったのだけは覚えている。
何のことを言っているのかすぐにはわからなかったが、「わたしは」と言った言葉が、単に次の予定について言っていないと察していた。そして「行くよ」のイントネーションに、「あなたは?」の意図を感じ、すぐにこの先輩には独立の噂が流れている点と結び付け「わたしも行きます!」といった感じの言葉を必死に新町に伝えたのだった。
新町は確か「さすが」と褒めてくれて、それでも、「何の保証もない」「良く考えなさい」と言ってくれた。
慈杏は一生懸命歩幅を早めた。前を征く先輩に置いていかれないように。いや、追いつきたい、追い越したいと思っていたのかもしれない。慈杏の歩幅ではなかなか距離は縮まらなかったが、先征くライトグレーのパンツスーツは目印のように輝いて見えた。
その日から一ヶ月も経たないうちに新町に昇進の話が出ていることが社内でも知られるようになった。
その機に合わせたのかたまたま同じタイミングだったのか、新町は社内ベンチャーを経て独立をすることが決まった。
一も二もなく新町についていくメンバーに立候補した慈杏は、入社二年目にして職場を変えることになった。
『リアライズ』
新町が名付けた新会社は、「実現化すること」への強い意志表示と言えた。
業界を絞ってマーケティングに特化し少人数で機動力を重視する戦略を取る新しい職場は、案件の規模は今までよりも小さいが、営業も企画も製作もこなさなくてはならず、忙しさは増し、華やかさはやや減って、泥臭さは倍増していた。
ひとつのプロジェクトに通しで関わる手法は性に合ったのか、どんなに忙しくても大手に居た時以上のやりがいを感じた。先輩についてきて正解だと思った。
大手に残った同期と比べてかなり早くから責任のある仕事を任されざるを得ない環境の中、走り続けてきたことは慈杏にとって自信になったし、経験・能力共に負けてない自負があった。
しかし最近は、ずっと下積みのような仕事をしていたかつての同期が、少しずつリーダーを任されるようになってきていて、大手ならではの大きい案件に関わっていたり、誰もが知っているような広告物の制作裏話なんかをしたりしていて、たまに開催するかつての同期同士の飲み会なんかで誇らしげに話しているのを聴かされる機会が増えた慈杏は、やっぱり少し羨ましく思うこともあった。
それでも、一昨年からは新人の教育係を任され、昨年からはその新人を加えたチームのチームリーダーとして、今までよりも予算も大きくスパンの長い仕事を持つようになり、自らが選んだ道で迷ったりせず先を目指そうと、改めて意を決していた。
チームメンバーとしての立ち位置や、責任者ではあっても実質個人で動いていたこれまでの案件とは違い、チームを動かし、人を育てることの難しさに四苦八苦しながらも、新たなやりがいも見出していた。