旗持つ乙女1
少女は諦念を抱いていた。
静かに失われていくものを、ただ静かに受け入れていた。
両親も、両親が営む店舗も好きだった。
だから、昼も夜もなく連日働く両親と旅行や遊びに出かけられないのは仕方ないと思っていたし、店の手伝いで部活にほとんど出られないことも、好きでやっているのだからと不満は持たなかった。
元来少女は明朗快活な性格で、好き嫌いははっきりとしていた。
好きなものは一点の曇りもなく好きと言えるものばかりだった。そして彼女の世界には比較的好きなものの割合が多く、機嫌の良い日が多い幼少期を送っていた。
だから、好きなものの筆頭である両親とお店に対して、嫌ったり不満に思ったりする要素が現れ出したことが理解できず、受け入れられなかった。
そんなふうに考えてしまう自分に問題があるのだと思っていた。
もちろん両親は店舗の手伝いを強要していたわけではなく、少女もそれはわかっていた。
例えば友達とディズニーに行くって言えば快く許可してくれて、お土産代も持たせてもらえた。
運動会の日はお店を閉めて両親揃って観に来てくれた。
文化祭の準備期間は両親の方から店の手伝いは良いからクラスの出し物の準備に時間を使うように言ってくれた。
それはむしろ当たり前だと考える子どももいるかもしれないが、少女にとっては感謝すべきことだと思えた。
だからこそ、普段はなるべくお店の手伝いをしたいという思いがあった。或いはすべきであるとの思い込みだったかもしれない。
部活や遊びなど、何気ない日常の放課後が同級生との関係をより深くするのだとしたら、日に日に少女とそれ以外の同級生たちの関係性の濃淡に差がついていった。
隣町のデパートに買い物に行く、映画に行く。
最初は誘われていたが、ほとんど参加できずにいた少女には、大きなイベント以外は声がかからなくなっていった。決して孤立していたわけではなく、同級生の方も断らせるのが申し訳ないという思いもあった。
休み時間などは友達とおしゃべりに興じるが、隣町での買い物で見かけた可愛い服の話や、昨日の歌番組に出ていた人気アイドルのトーク内容についてなどの話題には入っていけず、笑顔でその場にはいても心は疎外感に包まれていた。
少しずつ、本当に少しずつではあるが学校内でもひとりでいる時間ができてきて、本などを読んで過ごすことが増えた。
分からない話題でも笑顔で話を合わせるのも疲れるし、察しの良い同級生は気遣って共通の話題を探してくれているのもむしろ辛かった。
こちらも気を使いトイレに立つと、すぐに昨日のドラマの話で盛り上がる声が聞こえた。最終回の拡大版だったらしい。それは話したくてうずうずしていたことだろう。申し訳なさと悔しさと悲しさの混ざった気持ちになった。
本を読んでいる時は、そんな気持ちになりはせず、本ごとに拡がる世界に没頭できた。
学校とお店に身体は囚われていても、心は同級生の誰よりも自由に異なる世界を楽しんだ。
図書室の本はそれなりに豊富だったし、自己所有の本でも小説なら学校に持ってきても良かった。
店では店番をしているとたまに訪れるエアポケットのような時間に漫画を読んで過ごしていた。
格式高い店というわけでもなく、両親はそれを許し、顧客も明らかに手伝いをしているとわかる子どもに高い意識を求める者はいなかった。
内向的な趣味は想像力を育み心の成長にも繋がる。
結果として少女は将来クリエイティビティを求められる仕事に就き、子ども時代の読書経験は何らかの糧として役立てている。
しかし、少女の生来の気質は活発さがよく現れていた。
それが徐々に麻痺していくことに、本当の自分が消えてしまうような漠然とした不安を、潜在意識の中で抱えていた。
両親の店舗は商店街の中にあり、商店街の店舗が中心の商店会に所属していた。
商店会の会合は、多くの店舗の営業時間終了する二十一時頃に、商店会会長の経営する中華料理店で、多少酒を入れながら行うのが常だった。
遅い時間ではあるが、両親共に出席し食事も摂れるので、少女が望んだ場合は連れて行っていた。
多少年齢にばらつきはあるが、同じような立場の子どももいて、少女にとっては楽しみのひとつになっていた。
その日、会場には見慣れない青年がいた。
彫りが深くエキゾチックな顔立ちで、大きな瞳が印象的だった。
青年はガブリエルという名だった。
少女はその名前に、殊更運命めいたものを感じた。
読み耽っていたいくつかの物語のなかで、同名の守護天使、或いはその守護天使の属性やイメージ、キャラクター性を持った登場人物がいたからだ。
彼らは大抵美形に描かれていて、時に主人公を導く役割を与えられていた。
少し眠い時間帯に。
幼少の頃のようにはしゃげる場所で。
その場所特有のテンションでいた時に。
物語から出てきたような人物との出会いは。
少なからず少女を夢心地にさせた。
少女は空想の世界ではどこにでも行けた。
空想と現実の境界がなくなったかのような感覚を覚えたこの日、確かに新たな運命は始まったのかも知れなかった。
ガブリエルは人懐こい笑顔に加え、拙い日本語のイントネーションに愛嬌があり、商店会の集まりの場にいた子どもたちからはすぐ懐かれた。
やや内向的になりつつあった少女も、かつての活発だった頃のように積極的にガブリエルに話しかけた。
ほどほどのタイミングでガブリエルは大人たちに呼ばれ、難しい打ち合わせに加わっていった。
帰り道、眠さのピークにあった少女は父親におぶってもらいながら聞かされた話をほとんど理解できていなかったが、これからはお客さんがもっとたくさん来るかもしれないこと、だけどそうなったらアルバイトを雇えるようになって少女はお店の手伝いをしなくて良くなる、両親も少し暇になると聞かされて、早くそうなれば良いなと思った。
明確に覚えていたこともあった。
ガブリエルが先生になって向こうの商店街の人たちと一緒に楽器やダンスをすることになったと聞かされた。
それもとても楽しみだった。
訊かれる前から、どんな楽器やダンスをするのかなと、当たり前のように思っていた少女は、慈杏もやるか? との父の問いかけに即答で頷いていた。