感果2
地域に密着し、細かいお金を積み重ねて利益を得る。そういう業の尊さを娘は生活の中で身につけていったと思っていたから、進路志望が広告代理店だと聞かされた時は少しだけ複雑だった。
自分と同じ時代を、狂騒とともに駆け抜けていたように見えたその業界には、少なからず虚飾の色を感じていた。
職業に貴賎はないが、地に足のついた仕事を選んでくれると思っていたのは、偏狭な親のエゴだったと思い込むようにしていた。銀行員を辞め、小売で身を立てることにした自分の価値観に捉われて思考にバイアスがかかっている自覚はあった。
そしてそれは、実際にその通りなのだと、今回の祭りで思い知らされた。
広告は、決して虚業ではない。
必要なものを必要な人に届ける。それがモノなのか情報なのかの違いであって、扱っているものが形のない情報だからといって、地に足がついていないと断じるのは乱暴な論理だった。
広告によって祭りの存在を知り、観に行きたいと思わせられたひとたちが、祭りとパフォーマンスを楽しみ、満足して帰ったとしたら、思い出を作ってくれたとしたら、それはそのひとにとって、価値のある体験が、広告のおかげでもたらされたとも言える。
人によってはその体験で人生が変わることだってある。広告には、そういう力があるのだと、今年の祭りで思い知らされた。
本当に、今年の『サンスターまつり』にはたくさんの観客が来てくれた。
これはリアル・ネットそれぞれの媒体による広報効果もあったはずだ。
慈杏が仕事仲間とつくっていたクリエイティブの成果だ。
慈杏の職場の社長が市内に根差している地域鉄道の媒体を直接押さえてくれたのも大きかった。
地域活性を旨としたアライアンスの形を組んでくれたため、費用もほとんどかからなかった。鉄道の運営会社にとってもかなり旨味のあるプランとしてのプレゼンがなされたのだろう。
そうして祭りを知らされ、集められた観客が、喜んでくれていたことには確信が持てている。
何度もイベントでのパフォーマンス経験はあるが、今回の観客の熱量は盛り上がりを肌で感じられるものであった。
観客をそうさせた我々のパフォーマンスは、告知時、もっと言えばクリエイティブ製作時に保証できるものではない。
もちろん、嘘大袈裟紛らわしいには配慮をしているだろうが、クリエイティブがそれを見た者を期待させたベネフィットを確実にもたらすことができるかなんて当日までわからない。
だからこそ演者はぎりぎりまで練習し、内容を詰め、当日は全力を尽くすのだ。
そう思うと、この街の取り組みや広報の在り方も異なって見える。
実態を伴わない、イメージ先行の住民獲得戦略と、それに沿った場当たり的な開発は、あくまでも現時点で「俺から見ると」「そう見える」だけなのだ。
住んでいる我々が、新しく来る住民に、広報の通りの街だったと思わせられれば良いではないか。
そう、広告は呼ぶためのもの。呼ばれてきたひとに対し、実態を提供するのは、演者の役割だろう。