楽観1
スタンバイエリアは、程々のざわめきの中にあった。
既に観客は充分に集まっている。カメラを調整している人、買ってきた軽食とドリンクを子どもに渡す母親、エスコーラの紹介が書かれたリーフレットをふたりで見ているカップル。
これから始まる歓喜への期待を思い思いの使い方で時間を消化していた。
この緊張感はサッカーの試合開始直前、ホイッスルが鳴る前に似ている。
いや、始まってしまえば場面ごとに都度判断して対応するサッカーよりも、曲に合わせてやることがある程度決まっていて、トリックひとつひとつをミスなく綺麗に観客に魅せなくてはならないと考えると、これから始まるパレードの方が緊張感は上かもしれない。
サッカーなら個人のミスはチームでカバーもできるが、ペアダンスは個人のミスが相手にも波及するのも恐ろしい点だ。
慈杏が少し笑いながら緊張しているかと尋ねてきた。
良くない、緊張が伝わってしまっているのか。本当は俺が慈杏を安心させたかったのに。
経験値で言えば慈杏に引っ張られる形になるのは仕方ないのかもしれない。今時男だから云々も言うつもりはない。が、メストリ・サラという役割を考えれば、エスコート役を果たしチームのバンデイラを掲げるポルタ・バンデイラを輝かせなくてはならない。
余裕の顔を作って大丈夫だと言ったが伝わったかな。どうも見透かされている気もする。
俺よりも歴短いのににいちゃんたちはハットの被りかたがどうだの、ネクタイの結び方がこうだの、より格好良く見える衣装調整に余念がない。
ハルさんも含めて、あの三人、基本的にナルシストだよな。
しかし、にいちゃんがサンバ、か。
その細かい調整で何が変わったのかわからないけど、なにやら満足そうなにいちゃんを見ていると、いい気なもんだよなと言う気持ちも少しは湧く。
いつも、どんなに追いかけても、気まぐれに待ったりしてくれては、急に振り向きもせずにいなくなったりしてしまう兄だった。
俺がサッカーをはじめたのはにいちゃんがやっていたからだ。
フォワードになったのはにいちゃんと同じになりたかったからだ。
ディフェンダーやキーパーをやれるようになったのはにいちゃんと一緒に練習したかったからだ。
必死についていったのに、勝手に辞めちゃうんだもんな。
それを決めた時、俺のことなんて1ミリも思い出してなどいなかっただろう。
なのに、俺が中学ではサッカーをやらないと知ったにいちゃんは、急に俺を呼び出してきて、散々追求され、詰められた。久しぶりに話しかけてきてくれたと思ったら、それだ。
辞めるなんて小学校卒業前に決めていて、両親もとっくに知っていたことなのに。
俺のことなんて気にもしていなかったのに。
急に出てきて、今更何言ってんだという反発心が余計俺からサッカーを遠ざけたことも、多分気づいていないだろう。
にいちゃんはバイトして受験して進学して更にバイトを増やしてサークルや活動などにも顔を出して、いよいよ話す機会がなくなっていき、いつの間にか何も知らされずに家を出ていった。
男兄弟なんてそんなものだと、兄弟を持つ何人もの友達や知り合いは同じようなことを言っていた。
何組かは大人になってもしょっちゅう飲んだり互いの家を行き来したりしている仲の良い兄弟もあったが。
大人になった俺自身、そこまで兄弟で一緒にいたいと思ったわけではなかった。
それでも正月にすら実家に顔も見せないにいちゃんの家族との距離の取り方はおかしいと思ったし、寂しくも思った。
ふとした時に、置いて行かれた子どもの頃のような気持ちになってしまうのだ。
だから思いがけない再会は嬉しかった。
だのに結局相容れない関係になりかけた時は辛かった。
そんなに振り回しておいて、なぜか結果は同じチームでサンバをやることに。
人の気持ちも知らないで、本当に勝手だよなぁと思う。
これからは俺の方が(ほんの少しだけど)先輩だ。散々振り回してやろうかなどと思う。
何をどうしたら振り回せるのかは思いつかないけど。渡会さんをうまくけしかけたら面白いことになるかなぁ。
人は失った後にはもっと大事にしておけば良かったなどと思うが、手元にある時は気にも留めなかったり雑に扱ったりするものだ。
だから、にいちゃんをそう思えると言うことは、にいちゃんが還ってきたからなのだと思うことにした。
にいちゃんがどこかにやってしまっていた心と一緒に。