零話:Ⅱ
石像を挟んだ、僕の向かい側にある木椅子を見て気づいた。均等に降り積もる筈の落ち葉と泥、埃が、右側にしか積もっていない。近づいて、更によく見てみて、息を呑む。土埃に塗れた木椅子の手すりに、小さな手形がうっすらと見えた。つまり、どういうことかというと、……何者かが素手で埃を払い、そのあとに座った、ということだろうか。しかも、つい最近に。
「……これは、一体。どう、いうこと」
独りでに言葉が零れ出る。間違いなく、人間が座った跡だ。この地域に住む野生動物で、椅子に座るなんて繊細な動作をするものはない。魔物に至っては、そもそも椅子に座るなんて思考すら思い浮かべないだろう。此処に誰も来ていない、誰も住んでいないことは、出発前そ下調べで確認している。にも拘わらず、人がいた痕跡があるということは、此処には未記録のクロウジアが存在するということだ。念のため、音を立てないように進んで、木椅子の裏側に周る。しゃがみ込んで、目を凝らしてみると、予想通り、うっすらと小さな足跡が刻印されていた。
……つまり、だ。この場所には、人間がいた。いや、いたというのは間違いだ。まだ、そう遠くない時点にいるかもしれない、というのが正しい。ひんやりと手に汗が浮かび、身体が震え始める。
まさか、この死の街で僕以外の人間がいるなんて。追うべきか、それとも去るべきか。理性で判断するならば、後者が正しいだろう。此処にいる者が何者かは分からないけど、邪悪な存在である可能性もある。下手な賭けは打ちたくない。幸い相手はこちらに気付いていないだろうし、立ち去るのが優れた選択だ。そうすべきだ。
けど、それでも。立ち上がって、その場を立ち去ろうとする僕の足が止まる。この謎の人物に対して、興味がない訳ではない。男性なのか、それとも女性なのか。年齢はいくつか、どんな性格をしているのか。そして、どうやって生き延びたのか。食も水も住まいも殆ど無く、魔物が我が物顔であちこちを闊歩する、この死の大地で。問いは尽きない。
「にゃーお」
そんな僕の、気の迷いに呼応するかのように。気の抜ける鳴き声が、誰もいない公園で響く。羽織っている外套の裏手から、黒の塊が飛び出した。思いっきり体を伸ばして、大きく欠伸をしてから、僕を見上げるのは。真っ黒の体躯に、逆三角形の紋章が刻まれた新緑の瞳。相棒の愛猫、カグラが、起きてきた。
「おはよう、カグラ」
「にゃい」
いつもの如く、とってもかわいい。場所が場所でなければ、撫でくり回したい。
「何か感じた?」
寝起きの雰囲気的には大丈夫だと思うけど、一応聞いてみる。万が一、こちらに向かっている魔物がいるならば、直ちに出発しないといけない。
「みゃん」
うん、この感じだと大丈夫そうだ。ほんとかわいいなあ。
なんて、思っていると。カグラが足跡に気付いた。くんくんと匂いを嗅いでから、思いっきし伸びをして、足跡の方向へと走っていった。
「あっ、こら」
勿論、カグラが僕のいうことを聞くこともなく。
……カグラが向かうということは、恐らくこの人間がまだ近くにいるということだろう。ただまあ、危機に恐ろしい程鋭敏な相棒が、駆け足で向かっているということは、多分邪悪な人間では無いだろう、と、思いたい。恐らく、多分だけど。
仕方がないか。ため息をついて、僕も足跡を追っていく。