零話:Ⅰ
「世界は人間や魔物なしに始まったのだし、きっと、人間や魔物なしに終わるのだと思う。それでも、君は抗い続けることを選ぶのか?」
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皇都から馬でおおよそ三日三晩程度の距離にある、こじんまりした田舎街。地図にこそ名は刻まれているけども、よっぽどのもの好きでもない限りは、わざわざここで生計を立てようと思わないような、退屈で面白みのない場所。
朝は街に響き渡る鶏の声と共に目覚め、煉瓦建ての家の床を掃除して、切り分けたライ麦パン一切れと牛乳で朝御飯。手作りの木彫の作業台に野原で摘んできた薬草、皇都に出向いて仕入れてきた聖水や魔法の防具、それと洒落っ気を出すために自作した木彫の置物。これらを並べるまでが早朝の一仕事。でも全然お客さんが来なくて、最近は全然旅人さん来ないなぁ、魔物をどうにかならないものかと呟く頃には大体昼飯時。昼ご飯は同業者兼幼馴染と、炒り卵とトマト煮込を食べながら、魔物を討伐しに旅立った勇者の動向について雑談。食後から夕方にかけては、町の馴染みや店のお得意さんと談笑しながら、在庫がだぶつかないよう、薬草を定価から何割か差し引いて押し付ける。お前さん、何時になったらあの娘さんと籍を入れるんだよ、と冷やかしを受けながらも。暖かな陽光が消える夕暮れ時には、早々と店じまいして、近場のパン屋にギリギリで駆け込む。今週分の朝飯と夕飯を確保して、自室に引き籠り。ライ麦パンを片手に齧りながら、明日はどうすべきか、野原で薬草でも摘みにでも行こうか、久々に行商でもやってみるか、と考えを巡らすのが夜。暗がりの中、灯火器の光を頼りに今日の帳簿をつけて、藁式の寝台に包まるまでが、凡その一日。
そんなありふれた生活が、街のあちこちで行われていて、繰り返されていて。さざ波すら立たないような慎ましやかな日々が、退屈で凡庸で平坦で面白みの無い日常が、延々と続いていて。でも、みんながみんな、日常のつまらなさに少しばかしの不満こそあっても、退屈な日々への愚痴や文句を口々に呟いていても、それなりに幸せに生きていて。このぬるい暮らしがいつまでも続くものだと、信じていて。何だかんだ言っても、自分が死ぬときは、この街に他ならないだろうなぁ、と心のどこかで確信していて。
そんな人たちが、沢山住んでいた暖かな田舎街。その残骸を前に、僕はたった一人で立ち尽くしていた。
「此処も、変わらないな」
独りでに言葉が零れ出た。小声で話している自分に気付いて、苦い笑みが零れる。僕の声を咎める者は、もう此処には誰もいないのに。
ぼんやりと、眼前に広がる光景を眺める。往年は丁寧に整備されていたであろう煉瓦の道路は、あちこちがひび割れて、隙間からぼうぼうと生えた雑草が顔をのぞかせている。通りを挟んで建てられている煉瓦の家々は、あちこちが解れていて、窓硝子が砕けていたり、扉が外れていたり、屋根が吹き飛んでいたりと、それぞれ色とりどりに無惨な姿を晒している。ここからちょっと先に遠目で見える、町の中央にある広場に建てられている少女か少年の石像は、肌が苔に覆われていて、頭がもげていた。そして、何よりも、無音。ここにはもう、朝の訪れをけたましく告げる鶏も、せわしなく動きまわる人々の足音も、広場で追いかけっこをする子供の笑い声も、一日の終わりを告げる教会の鐘の音も、何もない。煉瓦建ての家の玄関の軒下で開かれる母親達の井戸会議も、通りをいそいそと行きかう人々に声をかける行商人の誘い文句も、安息日の酒場で開かれる飲みの席でのどんちゃん騒ぎも、主人の帰還に大はしゃぎで走り回る犬の吠え声も、何も、聞こえない。人が生きる場所なら必ず、紡がれる筈の音の旋律が一切流れてこない。
人が須らく消えてしまった世界が必ず醸し出す、無音の空間。それが、この街にも表出していた。
一歩、二歩と。ひび割れた通りを踏みしめる。砕けた煉瓦を踏みしめる僕の足音が、静謐を切り裂いている。一軒、二軒、三軒と。瓦礫を踏まないよう注意深く足元を見ながら、壊れた数多の家々を通り過ぎて、広場の石像の前に到着。行方不明だった頭は石像の足元に仰向けで転がっていて、茜色に染まった空を虚ろに見つめていた。構造から察するに、どうやら女の子の像だったらしい。周りを見渡す。石像のすぐ後ろには泥と埃と落ち葉に埋もれていた噴水の溜池があった。更にその周囲には木の長椅子が四つ程。少し進んで、噴水の残骸を覗き込んで、顔を顰める。小さな頭蓋骨の眼窩が、こちらを睨んでいた。肉の部分が殆ど残っていないところを顧みるに、亡くなったのは相当前、つまりは大災厄の時だろう。絡みついていた落ち葉を取り払ると、残っているのは頭蓋の上部分だけだった。顎部分は見当たらない。逃げ遅れた子供が魔物に捕まり、生きたまま顎を齧り取られたか、それとも、親に見捨てられて餓死にした子供の死肉が食われたか。どちらも大して変わらないか。再び落ち葉で覆い隠す。せめて遺体だけでも、安らか眠って欲しいと。
荒廃した街並に、無音に、不意打ちのように現出する人間の白骨。長いこと旅をしていても、慣れたことは一度もない。人々が生きていた暖かな世界が、誰からも看取られることなく独りで朽ち果てていく無常も。自分一人しかいない空間の静寂も。埋葬されることなく死んだ人々の遺体が見せる哀惜も。僕は、未だに、一度も。
世界が壊れてしまったあの出来事、大災厄から十五年。突如大量に湧き出た魔物によって、人間が住まう全ての町村、及び皇都が襲撃され、破壊され、簒奪され尽したあの出来事から、十五年。あの日壊されてしまった数ある世界、その一つに僕はいた。およそ十五年振りに訪れる、久しぶりの来訪者として。依頼人である、老齢の僧侶のささやかな願い叶えるために。
そして、その依頼は既に完了している。手のひらに丁度収まるぐらいの大きさのそれは、僕の長衣嚢の表手にしまわれている。今いる広場から更に奥、町で一番見ばらしのいい高台にある、古ぼけた教会。他とは違って、煉瓦ではなく木造建てであるそれは、人の手を借りることなく十五年の年波を耐え、原型を留めた状態で残されていた。割れた丸窓から身を入れて、腐った床版を踏み抜かないよう抜き足差し足で歩いて、一番奥にある講壇までたどり着いて。裏手の小さな取っ手を無理やりこじ開けると、風雨にも晒されていなかっただろうか、目的のそれはまだ使えそうな良好な状態で保たれていた。これを、あの僧侶に送り届ければ、無事目的達成。この街に、無事別れを告げることが出来る。
まあ、もっとも。戻ったところで、彼方の世界にも、僕の居場所はないのだけども。
大きなため息を一つ。頭をぶんぶんと横に振って、感傷に沈む思考を追い払う。近場にまだ魔物がいるかもしれないこの街で、気を抜くことは許されない。一瞬の油断は命取りだ。そして、誠に残念なことではあるけど、僕はまだ眼前の白骨の仲間となるつもりはない。夜まであと少し。早く身を隠せる寝床を探さないと。でないと、凍えがちな夜風や、地を這う毒虫、人に襲いかかる野生動物から身を守れなくなる。まだ使えそうな状態で残っている建物は、ここから東側に何軒かあったっけ。とっととどっかに入って、身体を休めて、明日の朝に早々と旅立とう。なんて考えながら。立ちあがって、少し伸びをして、そして気づいた。
「……人が、座ったあと?」