ヤタガラス
室内に入ってすぐのところに、桐生さんが倒れている。近くにナイフが落ちている。
涼くんがそのすぐ脇にしゃがんで、首筋に横から指を当てている。
「キャーー、どうしたのですか?大丈夫ですか?」
私は後ろ手にドアを閉めながら、桐生さんを指さして、涼くんに尋ねる。桐生さんは完全に意識がない。
「壁に頭をぶつけて、気絶しただけ。それより、電話しろって、言ったのに」
「内線電話が全部埋まっていて」
予想以上の展開になって、私は全身の力が抜け、その場にヘナヘナと座り込む。
「涼くん、携帯なかったから」
あー、どうしよう。怒られるどころじゃ済まない。これ、暴行と、不法侵入と、傷害と、あと他にもいろいろありそう。そして、その共犯が私。
学校に知られたら、停学とか、もっと悪ければ、退学とかになるかも。
「僕が何とかする。比呂美さんはすぐに帰って」
「でも、何とかするって、どうするんですか?桐生さんを引き留めていたのは私ですし、半分共犯みたいものですし。ロビーでも、周りの人は、私が桐生さんと一緒にいるところを見てますし」
「大丈夫。僕を信じて」
過去に涼くんには、ピンチを2回救ってもらったから、そう言われると、今回も大丈夫かも、と思ってしまう。
それに私がここにいても、明らかに何もできることは無い。
「分かりました。これ以上ひどいことを、桐生さんにはしないでね」
「うん」
私は部屋を出て、人目を避けて、そそくさと家に向かう。
家について、ぐったり。
そして、とんでもないことをしてしまったと、不安でたまらなくなる。
1時間ほどして、涼くんが帰る。
「もう大丈夫だよ、何も心配いらない」
「何があったのですか?そして、あれからどうなったのですか?」
彼は、私がロビーにいた間に1207号室で起こった出来事を話し始める。
12階にエレベーターが付くと、桐生さんは1207号室へ向かう。
ドアキーを差し込み、そっと開ける。
洗面所でごそごそと、人の気配がある。
彼は右足のズボンの裾を上げ、すねに着けていたナイフを取り出し、逆手に持つ。
そっと洗面所に近付く。
涼くんは洗面所に広げた小物を調べている。新しい歯ブラシやハンドタオル、整髪料、美容液など、特に変わったものはない。
でも、1個見慣れない小さな物がある。ワイシャツのカフスボタン、または襟章のようなもので、鳥の模様が付いている。そして、その鳥は黒くて、足が3本ある。
ヤタガラス?
その時、目の前の洗面所の大きな鏡の端に、動く気配を感じる。誰かが後ろから音を立てずに近付いてくる。
ということは、当然相手は武器を持っている。
相手の存在に気付いたことを悟られない様に、探し物を続ける振りをし、次の瞬間、洗面所に広がった小物をポーチごと、背後の接近者の顔めがけて投げつける。
そして、相手が怯んだ隙に、相手の懐に体当たりする。
2人は折り重なる様に、背後の壁に激突する。
桐生さんは頭を壁に強打して、動かなくなる。
「そして、僕が大丈夫かなと脈を測っていたら、比呂美さんが入ってきた」
「桐生さんは、どういう人でしたか?本当に大学生?」
「違う。少なくとも北海道から来たというのはウソ。京都のコンビニのレシートがあった」
「なんで、そんなウソつくのでしょうか?」
「分からない。でも、ヤタガラスと関係があるみたい」
「ヤタガラス?」
「3本足のカラス。昔の大和朝廷の守り神と言われてた。それが今は、どうなっているのかは、全く分からない」
「ふうーん、そうなんですね。その他は?」
「その他?比呂美さんが帰った後に、意識が戻った。でも、一言も話さなかった。だから、あきらめて帰った」
「意識は戻ったのですね。良かったです。でも、何で話さなかったのでしょうか?」
「さあー?でも、比呂美さんの前には、もう現れるなと言っておいたから」
「あっ、そうなんですか」
安心するとともに、ちょっと寂しい気もする。
桐生さんは、ウソさえつかなければ、全然いい人だったから。
ウソの理由さえ聞ければ良かったのに。
気絶させてしまって、それに私も加担して、反対に悪いことをした気分になる。