塞翁が馬
ふっと気が付くと、車の助手席。
「あれっ、何でここにいるのだろう?今まで何していたの?ここはどこ?」
隣の運転席で涼くんが車を運転している。見慣れない車だし、それ以前に私の家には車はないし。
何となく、ムカムカと吐き気がする。吐きそう。
足が動かない。力が入らない。でも、怪我をしているようには見えない。しばらくして腰が抜けていることに気付く。
あっ、ビルの火事で、窓から飛び降りたのだった。
段々、思い出してくる。
クリスタルを取りに池袋に来て、コスプレの群れに興味を持ってイベント会場に入り火災に遭い、煙に追われ窓ガラスを割り、涼くんに抱きかかえられて飛び降りたことを。この車も彼のラ・ヴォワチュール・ノワールということを思い出す。
自分の体を見まわしても、どこも怪我していない。
生きてた?信じられない。
「生きてる。生きてる。なぜ?」
うれしさのあまりつい声を出してしまう。
なぜだろう?夢を見ているみたい。もしかして今日の出来事は全部夢だったとか?それにしてはいろんなことがありありとリアルすぎる。
次に彼を見る。全く大丈夫そう。
深呼吸を何回かして、吐き気が少し落ち着いてくる。
左右の足首をグルグル回してみる。腰が抜けたのが少し治ってきた感じがする。
もう大丈夫みたい。
「隣のビルの屋上に飛び移ったんだ」
彼が言う。
「それで助かったの?」
「そう」
でも、思い出してみても、隣のビルまでかなりの距離があった気がするし、高低差もビル何十階分もあった気がする。火事に遭ったビルは有名な高層ビルだから、隣の普通の雑居ビルとは高さが全く違うはず。
でも現にこうして生きている。
「50階から飛び降りて、生きていられるなんて」
涼くんはアンドロイドだから、隣のビルの屋上に着地した時の衝撃に耐えられるのかもしれない。
アンドロイドって単なる機械だと思っていたけど、もしかしたらこのアンドロイド、彼はすごいアンドロイドなのかもしれない。
西の空に今にも地平線の彼方に沈みそうなオレンジ色の夕日が見える。
「ありがとう」
彼はちらっとこちらを見る。
「大丈夫だった?」
「どこも怪我していないみたい。涼くんは?」
「僕はどこも何ともないよ」
「良かった。もっと早く逃げれば良かったのに、私がグズグズして、ごめんなさい」
「別に気にしなくていいよ」
ビルの中での出来事をいろいろ思い出してみる。イベントのことや、火事のこと。その前に小さな女の子をトイレに連れて行ってあげて、迷子になって探しに行っているうちに煙に巻かれてしまったこと。
そういえば、あの時、涼くんが何か言いかけていた気がする。
「あの、ビルの中で、火事になった時のこと覚えている?その時、私に何か言いかけなかった?」
「何か?いつ?」
と少し考えて、
「あー、別に気にしなくていいよ」
でも、何か私に関する大切なことのような気がする。その時、私は聞く前に彼が言いたいことが分かった気がした。私が以前からうすうす感じていたことを彼が言うのではないかと思ったから。
「思い出して。聞きたい」
「あまり大したことじゃないから」
「どんなことでも気にしないから。自分よりも人を優先しすぎで、抜けているとか?」
彼は少し躊躇したけれど、
「いや、最初は自信が無くて人から好かれたいのかな、とか。もしくは宗教的な偽善者とか」
偽善者?
そんなことは今まで意識したことなかった。単に優しいことは良いことだと思っていた。自己犠牲は良いことであって、決して悪いことでは無いと思っていた。ただ、自信が無いというのは当たっているかも。少なくとも自信がある方ではない。
「だから、僕には君の行動原理が分からないな、と」
結局、アンドロイドからも私は理解されなかった。
学校のクラスメイトからも、誤解というか私を理解してくれる人はいない気がする。涼くんならば私を理解してくれるかも、と思ったのに。
やっぱり、私は何か感覚、感性、価値観が人と違うのかしら?
「でも、あの時以来、急に君と一緒にいると暖かく感じるような気がする」
と彼は突然言った。
ん?それは良い意味?
私は返答に困った。
彼が続けて口を開く。
「君の名前、比呂美っていうんだっけ?」
「そうだけど」
「これから比呂美さんって呼んで良い?」
「良いけれど、なぜ?」
「なんか、急に名前で呼びたくなった」
分からない人、いやアンドロイド。でも悪い気はしない。今まで矢野さんと呼ばれたことはあるけれど、下の名前で呼ばれたことはお母さんを除いて無かったから。
もしかして私は彼に好かれた?それは今日一番のうれしいこと。
彼に好かれただけではなくて、もしかしたら、私も人に好かれる要因があるのかもしれないという可能性があることが分かって良かった。
今日は火事に遭って死ぬかと思って、人生で一番の散々な日だったけれど、急に人生で一番のうれしい日になった気がした。