突然の電話
それから数週間はいつも通りの生活が続いた。
漆丸議員はもともと表彰式の狙撃で亡くなっていたことになっていたし、軽井沢でのカーチェイスも下田の倉庫の銃撃戦も全くニュースに上っていなかった。唯一、海上自衛隊の護衛艦が伊豆半島の沿岸に向かって一発誤射をしたというニュースがごく小さく載っていたけれど、全く話題にならずに翌日にはその他のニュースに埋もれてしまった。
そんな時だった。
いつも通り家で宿題をしていると、見知らぬ番号から着信があった。
普段なら出ないけれど、この時はちょっと虫の予感というか、出てみようという気になる。
「はい」
手短に返事をする。
「矢野さんの携帯ですか?天上です」
「あっ、天上さんですか?」
ちょっと世間話をして、間が空くと、
「実は矢野さんにお願いしたいことがあって」
と天上さんが切り出してくる。
「ルスナラって覚えてますか?下田で拘束したロシアの工作員の」
ソフィアのことだとすぐに分かる。
「あの後、日本での活動や組織などを尋問しようとしたのだけど、彼女、全く反応が無くてね。意識はあるようなんだけど、何を問いかけても答えないし反応しないんだ。食事も全く取らなくて衰弱する一方だし。桐生に聞いてみたら、下田で拘束した際、最初は暴れていたけれど、君と話したら急におとなしくなったと聞いてね。で、君へのお願いなんだけど、一度こっちへ来て彼女を見てみて欲しいんだ。元に戻るきっかけが何かあるかもしれないから」
「えーと、はい、別にかまいません」
彼女がそんなふうになっているとは思っていなかった。
「場所はどちらですか?」
「長野の白馬」
遠い。電車賃が無い。
「すみません。ちょっと遠いので、今電車賃が用意できそうにないです」
「それは心配しなくて良いよ。こちらで出すから」
それならば行けそう。あるにはあるのだけれど、交通費で使ってしまうと、他に必要な時に足りなくなってしまうから。
遠出の時は涼くんも一緒の方が心強い。確か彼は今週末のシフトは空いていたはず。私も同じ日が空いている。
「では、今週の土曜日で良いですか?」
天上さんは大丈夫と言う。
「涼くんも一緒に行っても良いですか?」
「ああ、彼。全然良いよ」
良かった。
白馬の住所を聞いてメモをして、電話を切って、数週間前を思い出す。
ソフィア。
かわいそうな人だった。涼くんから聞いた話の内容もそうだけれど、下田で彼に迫った彼女の様子も見ていられないほど悲惨だった。だからあの後どうなったかなあと気になっていた。
そっか、生きてはいるんだ。
ちょっと安心する。
下田の波止場で彼女にリモコンを渡したのは、直感的に彼女が正しいと思ったから。
涼くんからソフィアとの間で過去に何があったか聞いた時、彼は自分は全く合法であると言った。その辺りの詳しい判断は私には分からないけれど、でも、もし彼の行いが合法であったとしても、法律より上にある価値観、概念、いわゆる倫理と呼ばれているもの、その視点でどうなのかな?と。
そして、ソフィアが言っているのは多分そっちの話ではないのかと。
彼はその倫理を理解できなかった。それは彼がアンドロイドだからなのか、彼個人の性格なのかは分からないけれど。
もちろん倫理を理解できないのは、違法ではない。日常生活の中でも時々ある。法律さえ守れば良いっていう人。
でも、それで被害にあった方は恨むし、それに仕返しする手段がほとんど無い。なぜなら倫理というのは実態がないから、損害もない。
だから、彼女の視点では彼女は正しくて、私は彼女の味方をして良かったと思っている。
私には彼女の本当の境遇、気持ちは分からない。でも彼女はまだ強い方だと思う。
もし私が彼女と同じ境遇になったら、簡単に壊れてしまうだろう。もしお母さんが病気や事故で突然死んでしまったら、私はどうすれば良いか全く分からない。学校に行けるかどうかも分からない。高校は義務教育じゃないし。
自分の足元がとても脆い、まるで凍った池の氷の上を歩いているような気分になる。いつ氷が割れて底なしの池に落ちてしまうか分からない。
ソフィアの境遇は他人事に思えない。明日の自分を見ているよう。だから治してあげたい。
でも、私だけで彼女を元に戻せるか不安になってくる。
初めて彼女と参道で会った時から、彼女は無表情だった。感情が死んでいるように見えた。その頃から彼女は殆ど壊れかかっていたのかもしれない。すると、私には彼女を治せない。
やっぱり涼くんに治してもらわなければならない。
彼がバイトから帰ってきて、一緒に行ってくれるように頼む。だけど、どこか気乗りしなさそう。
「何で気乗りしないの?」
問い詰めると、しぶしぶといった感じで答える。
「僕が行くと、彼女は思い出したくもない過去を思い出すよ。すると、再び比呂美さんが巻き込まれるかもしれないから」
あっ、そんなこと思いつきもしなかった。
私は彼女に2回殺されかけた。彼女のマンションと七丈小島で銃を向けられた。産業廃棄物場の粉砕機から落ちそうになった時も含めると、3回。次の4回目が無いとは言い切れない。
それに私は彼女に涼くんをフリーズすることができる端末を渡してしまったから、今でも持っているはず。彼女がその気になれば、再び彼を自由に操ることができる。
でも、下田で結局彼女はそれを使わなかった。それは彼女にとってもう必要がないということだと思う。私は彼女を信じてあげたい。
「もう大丈夫だと思う」
彼はなぜ?という目で私を見る。けれど口には出さない。
「まあ、どうしてもと言うのなら」
また、彼に借りができてしまった。