ダイビング
窓ガラスに駆け寄り、下を見ると、眼下の道路の車は米粒みたいな大きさ。ここは50階だから、当たり前だけど。彼もガラスにへばり付いて、下を覗き込む。
この部屋は通路の一番奥だから、煙の流入は遅い。
「もう、大丈夫?ここでだったら、救助隊が来るのを待ってられる?」
私は自分に言い聞かせるように、問いかける。
「さぁー、どうかな」
彼はドアの下の隙間から少しずつ入ってくる煙を指さす。
「会場や通路よりはましだけど、煙の流入速度が予想以上に速い」
「お願いだから、そんなこと言わないで」
「それにこの高さだと、はしご車は届かないし逆に救助ヘリなら屋上へ行かないと」
「じゃ、私たち、どうなるのですか?」
分からないのか、分かっていても悲劇的な結末だから言わないのか、彼は答えない。でも私は何かしゃべり続けないと、居ても立ってもいられない。
煙がドアの下から入り続けこの部屋の天井にも層が出来始め、段々息が苦しくなり咳が出る。それに煙はかなり高温だから、狭い部屋が蒸し暑くなってくる。
私はその場にしゃがみ込む。
もうダメかも。
「ちょっと窓から離れて」
彼はボクシングのパンチの格好をする。
「ガラス割るの?学校のガラスと違ってビルのガラスだから、きっと硬いですよ。手で割れないですよ」
彼はそのまま片手を思いっきり振り出す。
ガシャッーーン
ビルのガラスは、一撃で木っ端みじんに砕け散った。
彼が枠からガラスの破片をきれいに取り除くと、長方形の窓枠に、ぽっかりと穴が開く。
ゴーーというビル風の音がし、室内の煙が大量に吐き出される。同時に外の新鮮な空気が室内に注ぎ込み、室温も下がる。
助かった。
炎さえ来なければ、このままここでじっと救助が来るのか、鎮火を待っていられる。
でもすぐにそれはちょっと楽観的過ぎたと気付く。
窓から煙を外へ吐き出せるということは、この階の溜まった煙が全部この部屋を目指してくるということで、ドアの下の隙間からものすごい勢いで煙が室内に流れ込んでくる。そして、その煙の濃度がだんだん濃くなってくる。
怖い。
私はしゃがんだまま泣きだす。
すると、彼が私を抱きかかえる。まるでお姫様抱っこみたいに。
なんで?床に腹ばいになった方が良いんじゃないの?
そして、ポッカリと長方形に開いた窓枠へ近付いていく。
「窓を壊したのは、換気のためですよね?」
彼は答えない。
窓枠に近づくと、ビル風がきつい。はるか下には小さな赤い消防車が何台も集まっているのが見える。
「もしかして、飛び降りるの?」
彼を見るが無表情で、何を考えているか分からない。
「無理無理無理。絶対無理。死んじゃう。下して。手を放して」
足をバタバタさせて、胴体をよじる。が、ふっと気が付く。体も足も全く動かない。ものすごい力で彼は私の胸と両足を押さえている。
涼しい顔で、大して力を入れていないように見えたけど、アンドロイドだから人間とは力加減が全然違うことに、その時初めて気づく。
「お願いだから、離して。手を緩めて。飛び降りたくない」
でも、手を緩めてはくれなくて、そのまま窓枠に足をかける。私の方を見抜きもしない。その視線はキッと力強く、はるか遠くをしっかり見据えている気がする。一瞬見とれてしまう。
アンドロイドでもこんな表情ができるんだ。
その時、小さな声で彼は言った。
「大丈夫。僕を信じて」
本能的に両手で彼の首にぎゅっと抱きつく。
次の瞬間、体が無重力状態みたいにふわっとして、自分の位置が分からない感覚に襲われる。視野の片隅に足の下に何もないのが一瞬見えた。
全てがスローモーションで、コマ送りみたいにゆっくり周囲の景色が動く。
そして。
意識を失った。