本当の目的
「あなたは何も分かっていない」
そして胸ポケットから何かを取り出す。
あっ、あの例の涼くんをフリーズさせるリモコンみたいな端末。
彼女はそれを彼に向け、端末のボタンを押す。次の瞬間、彼の動きが止まる。
彼に近づくと、彼の頬の触り、髪をかき上げ、見納めという感じに横顔をしばらく見つめる。そして耳元でそっとつぶやく。
「私が日本に来た一番の目的は、あなたに復讐すること」
高ぶる感情を抑えるのに精一杯という彼女の感情が読み取れる。
「さようなら」
彼女は悲しそうに言う。
何をするつもり?ここには前みたいに粉砕機はないし、多分彼の体は普通の銃なら大丈夫なはず。
彼女はその端末を彼のズボンのポケットにねじ込む。
「このデバイスは半径5mしか届かないの」
それから部屋の南面の窓ガラスに向かって、何発か銃を発射する。窓ガラスに縦横2m位の大きな穴が開く。
その窓ガラスの先は一面広がる海で、割れた穴から突然ビュービューと海風が入ってくる。つまりこの別荘は海にそそり立つ断崖絶壁の上に建っていた。
「ここから飛び降りて、海の底に沈んで。二度と浮かんでこないで」
彼女がそう言うと、彼は窓ガラスの割れた穴に向かって歩き始める。
「待って」
私はそう言って彼の手を引っ張るけれど、私のか弱い力ではどうすることも出来ず、彼はずんずん窓ガラスの穴に向かって歩いて行く。彼に後ろから抱きついて歩みを止めようとするけれど、全く無駄な抵抗。
あっという間に窓際までたどり着いて、彼はそのまま窓の外へ。私も彼に抱きついたまま、一緒に窓の外へ。
次の瞬間、宙を舞う。
眼下の海面はかなり遠い。全然近づかない。
落ちて行っているはずだけれど、スローモーションのようにゆっくり近づいてくるように見える。
落ちる間に、いろいろなことが頭に浮かぶ。まず、身の安全をどうやって確保しよう?
水深が浅くないかとか、足元に岩が無いかとか。でもここからでは水中まで見えない。
次に危険な生物がいないかとか。もしいても、すぐには近寄ってこないはず。
一瞬のはずなのに、こんなにたくさんのことを考えられるのね。もしかしてこれが走馬灯?
次の瞬間、目の前が真っ白になる。
あっ、海に落ちた。
真っ白なのは細かい泡。その泡もしばらくすれば消え、目の前に沈んでいく彼の体が見える。その背後に海底が広がっている。透明度が高くて、海底まで良く見える。
海底は起伏に富み、丘陵地帯のようにうねうねと丘のような小山のような地形が続き、海中に陽の光が差し込んでいる。海底の浅い部分には砂の上にいくつか岩が転がっていて、所々に魚が無邪気に泳いでいるのが見える。でも、そのすぐ近くに深い谷が見え、底を覗き込むと真っ暗でどこまで続いているのか分からない。暗黒の恐怖に吸い込まれそうな気がする。
彼の体はその深い谷へじわじわと沈んでいく。
”浮いて”
そう思ったけれど、彼は全く動かない。彼の胸を抱きかかえ、足をバタバタと動かすけれど、私も一緒に沈んでいく。
彼の体重はいくらあるのだろう?
聞いたことなかったし、測ったこともなかったけれど、もしこのくらいの身長の男子の平均とすると、70kgくらいかな。そして彼はアンドロイドだから当然肺はないと思うので、浮力はゼロ。つまり70kgの鉄の塊と同じわけで、それを抱えて私はバタ足で浮上しようとしている。そう考えると無理と思うけれど、ここで彼を離してしまったら、永久に彼とは会えなくなってしまう。だから、もうすこし頑張ってみる。
でも、バタ足は効かず、私も一緒に沈んでいく。ツーンと耳が痛くなってくる。上を見上げると海面がかなり上にある。そして、当然のことながら息が苦しくなってくる。
朦朧としてきて、意識が遠くなり始める。足元は真っ暗な底なしの谷底。それだけでも怖いのに、彼を失うという恐怖をより大きく感じる。彼を失うことに比べたら、底無しの真っ暗な谷の恐怖はそれほどではない。
段々、自分が何を考えているのか分からなくなってくる。ただ、漠然と恐怖が存在するのは分かる。
視野が狭くなってきて、何も見えなくなってくる。自分が今置かれている状況も分からなくなる。
あれっ、もしかして死んじゃうのかなあ?死ぬってこういうこと?
そして、私は意識を失った。
別荘のリビングでは、ソフィアが海を覗き込む。
「あっ、一緒に落ちた」
しばらく上から海面を眺めて、いつまでたっても私たちが浮かび上がってこないことを確認する。
「口封じする手間が省けた」
それから同じ部屋にいる二人のいかつい男の方を向くと
「撤退する」
と声をかける。木箱の上の黒革のカバンを手に取ると、男たちを率いて部屋を出ていく。