火災発生
トークショーが終わり、私は会場から少し離れた通路に面したトイレに行く。
トイレ前で、ちょっと年上の女性が幼稚園児くらいの小さな女の子に向かって、
「先に、さっきのお店に行ってるから、終わったら来てね」
と声をかけて会場に戻り、その子は一人でトイレに入っていった。
母親と、その子供だろう。
親子で一緒にイベントに来れるって、うらやましいな、と思う。
トイレに入ると、どの個室も使用中で、数人が並んでいる。こういうイベントではよくある。私は列に並び、一緒に入った小さな女の子が後ろに並ぶ。
「我慢できないい」
後ろから声が聞こえて、女の子が床にしゃがんでいる。
「大丈夫?」
彼女は首を横に振る。
「じゃ、エレベータホールの向こうのトイレに行こうか?そこだと空いていると思うから」
私は彼女とエレベータホールを横切り、離れたトイレに入る。個室は1つだけ閉まっているが、後は空いていた。
私と彼女は別々に隣の個室に入る。
個室から出ると、閉まっている個室は1つだけで、あの小さな女の子はいない。
もう先に帰ったのかな?
名前が分からないから、呼びかけることも出来ない。
あのくらいの年だったら、多分迷子にはならないだろう。
そう思い、会場に戻る。
涼くんと合流して、それから、またグッズ売り場へ行く。
さっき見て回った時、特に気に入ったのはなかったけれど、強いて言えば、Tシャツ。ちょっと高いし、外に来て出られる柄ではないけれど、デザインが気に入ったから。
他では手に入らない数少ないTシャツが、店内の金網にぶら下げて展示してあり、私はその中を進んでいた。その時
リーーーーン。
ビルの警報が鳴り響く。
周囲の人もみな、ちょっと警戒して立ち止まって周囲をグルグル見回す。
「誤報?」
警報以外は、特に何の状況も変わらないまま、警報だけがしばらく鳴り響く。
皆が”多分、誤報だろうな”と、普段通りに動き出した時、急に部屋の照明が落ち、一気に暗くなる。
「キャーー」「おい、どうなってる?」
とあちこちから悲鳴が上がる。
「えっー、どうしよう」
周囲の人が口々に
「火事みたい」「火事だ」
と叫ぶ。
ここは高層ビルだから、窓がない。そのため停電になると部屋は完全に真っ暗で、遠くの方に”非常口”と書かれた緑と白の明かりがぼんやり見えるだけ。
何となく焦げくさいにおいがし始めた。
周りの人がスマホを懐中電灯代わりにしているが、見える範囲はせいぜい半径1mくらい。
私は心細くなり、思わず涼くんの手を握る。
知ってる人、いや知ってるアンドロイドは、涼くんしかいないし。
スマホのライトで足元を照らしながら、涼くんと非常口に向かう。
「めぐみちゃーーん、めぐみちゃーーん、どこー」
女性の声が甲高く聞こえる。
声の方を見ると、さっきトイレ前で見かけた母親だった。でも傍にあの女の子の姿が見えない。彼女は必死にあちらこちらを探していた。
あの子はまだトイレから戻っていないんだ。
「私、心当たりあります」
そう母親に言うと、非常口とは反対のエレベータホールの方へ走り出す。
「そっちから煙が来てるから、危ないよ」
涼くんが私を止めるけれど、私は彼には答えずに、暗闇の中を非常灯とスマホのわずかな明かりを頼りに、エレベータホールへ向かう。
ちょうどエレベーターホールへ出た時、ガチンッと音がして、私の後ろで、会場入り口の防火扉が自動的に閉まり始めた。
会場の外は、焦げたような煙のにおいがかなりきつい。天井付近に、うっすらと煙が靄のように溜まっている。確かに火事だった。
扉が閉まりきる直前に、涼くんも会場から出てくる。
「向こうで待ってくれて良かったのに」
「君に何かあると、僕の居場所がなくなるから」
トイレに入ると、真っ暗闇の中で泣き声がする。さっきの子だ。近づくと、暗闇の中で彼女は一人で泣いていた。
「もう大丈夫だよ。さぁ、お母さんの所へ行こうね」
彼女の手を取り、トイレを出て、エレベータホールを横切り、会場に向かう。煙がさっきより低い位置まで充満してきている。
会場前に着くと、入り口の防火扉は完全に閉まっていた。
でも人が一人通れるくらいの小さな通用口みたいのが付いていて、そこは開きそう。
押してみると動く。でも何かが向こうから押しつけているようで、ごくわずかしか開かない。きっとイベントに出店しているお店の荷物が倒れたのだろう。
通用口の隙間の向こうから、さっきの母親の声が聞こえる。
「めぐみちゃん、こっち」
通用口の隙間は、ギリギリこの子なら通れる大きさ。
「さぁ、お母さんの所へ行って」
私は女の子を通用口をくぐらせて、母親の方へ行かせる。
「バイバイー」
彼女の後姿に手を振る。