老人ホーム
テストはその週の後半2日間で終わり、週末は晴れて気分的にフリーになる。涼くんに再び声をかけて、一緒に浦和の老人ホームへ行くことにする。
浦和駅からちょっと離れるとすぐに住宅地になり、その住宅地の裏路地を少し進むと目的の老人ホームがあった。
裏路地に面した入り口から入り、
「こんにちは」
と受付に声をかける。
入り口から施設の中の様子が一目で見渡せる。構造的に壁をできるだけ減らすようにしていて、廊下がひろく、共同の居間のような部屋は廊下側の仕切りが無い。床はバリアフリーで玄関からずっと平面。所々で車いすを押したり介助したりしている介護士の人がいるけれど、見える範囲内では全員女性。照明が明るめに点いていて、壁には妙に明るく大きな字の全てひらがなのお知らせが貼ってある。雰囲気的に幼稚園みたい。
「はーい」
廊下の方から元気のよい声の中年の女性がエプロン姿で早歩きでこちらで来る。
「面会ですか?」
明るく、人懐っこそうな印象。
「えー、そうです。漆丸さんという方が以前こちらに来られたと思うのですが」
どう切り出そうか、少し迷う。
「漆丸さんのお知り合いの方ですか?では、山田のおじいちゃんかな?」
そう言うと、私たちを中に入れてくれる。
名前や住所など記入を求められると思ったけれど、全く求められずいたってオープン。玄関のドアも開けっ放しだったし。
そこに逆に一抹の寂しさを感じる。
元々老人ホームに来る人はほとんどいないのかもしれない。家族は家族で忙しいだろうし、赤の他人は老人ホームには興味を持たない。
学校ならば運動会や文化祭で地域との交流も出来るけれど、老人ホームの高齢者には運動や創作も無理だろうし。
完全に閉じられた世界。いや、忘れられた世界の方が正確かもしれない。だから、訪問客はとにかく大歓迎なのかしら。
「山田さーん、お客さんですよー」
廊下の少し奥に面した開きっ放しのスライド式のドアの居室に向かって声をかける。その個室は窓に面してベッドがある。そのベッドに90歳以上と思われる一人の老人が横になって、ベッドの床に沿って上半身だけ斜めに起き上がっていた。
老人は反応しない。
先ほどの介護士の女性が大きな声でもう一度呼びかける。
「山田さーん、お客さんですよー」
山田さんと呼ばれた老人がやっとこちらを見る。特に反応なし。
「漆丸議員をご存知ですか?」
私が聞いても反応が無いので、耳元でもう一度大声で同じことを繰り返す。すると、
「あーー、漆丸さんのお知り合いか?」
老人はやっと答える。
「はい」
と大きな声で返事して、分かるように大きく頷く。
「あー、そうかそうか。良かった良かった」
話し相手になるには、気長さが必要みたい。急ぐことはないから、たまにはゆっくり高齢者の相手をするのも良いかもしれない。
「漆丸さんとは、どんなことをお話しされたのですか?」
何回か聞き直すので、根気よく繰り返して、やっと意味が伝わる。
「あー、わしの昔話を聞きに来おったなー」
「ぜひ、私たちにも聞かせてください」
老人は遠くを見るような眼差しで自分の昔の経験を話し始める。
彼は若い頃、日本各地を転々として、いろんな仕事に就いていたという。魚の行商や、ボクシングの興行師、土方などありとあらゆる職業を経験していた。今とは時代が違うけれど、これだけいろいろな仕事を経験していると、話を聞いていて面白い。
こういういい加減な生き方でも、本人が気にしなければそれなりに生きて行けるんだ、という気がする。
でも、少したって気が付く。どの職業もなんか中途半端。だから別の職業へ変えざるを得なかったということなのかも。それに一番気になることは、なぜ漆丸議員がこの老人の話に興味を持ったのか?そして、どの部分に?
「あのー、漆丸議員は、おじいさんのどの話に興味を持たれたのですか?」
「いろいろよ、いろいろ」
うーん、何に興味を持ったのか分からない。
「でもなー、わしの一番の自慢は、堤さんの運転手やってたことかな~」
「堤さん?どちらの?」
「最近のもんは、堤さんちゅうても知らんかいな。西武の堤さんよ」
私には分からない。
「バブルの頃によ、世界一の億万長者だった堤さんよ」
本題かもしれないと、私は身を乗り出す。
「ほんでも、彼も気の毒な人やったなあ~。兄弟でデパートと鉄道を分担してはったけど、あまり仲は良くなかったな~。あの二人、お母さんが別やったからな、腹違いの兄弟というやつやね」
それから運転手に採用された経緯とか、堤さんの交友関係とか、いろいろ話してくれたけれど、どれも漆丸議員と関係なさそう。
「もう少し古い話は無いですか?」
「古い話か?そーやなー、まだわしが10代の頃の話なんやけど、わしの最初の仕事やなー」
「はぁー、それをお願いします」
10代の頃の話では小さすぎて参考にならないと思うけれど、遮るのも悪いから一応聞くことにする。