意外な約束
奥さんから、大体の話は聞けた気がする。手帳の内容も分かったし、もう十分かしら。
「矢野さんは高校生?」
「はい」
「最近の若い子はしっかりしているわね」
「え、そうですか?」
最近の若い子は、と言われると続くのはマイナスの言葉ばかりと思っていたので、褒められたのは初めてかもしれない。
「若い人が政治に興味を持つのは良いことだわ。きっとご両親はしっかりした方なのでしょうね」
いえ、うちは母子家庭ですし、議員さんについて調べているのは議員さんの遺志を引く継ぐためでは無くて、私や涼くんが狙われたかもしれないからです、とはとても言えない。
それに、隣に座っている涼くんは実はアンドロイドで人間ではないです、なんて言ったら奥さんはきっとびっくりしてしまう。
それから奥さんはいろいろ話題を持ち出してくる。
私は普段主婦や世代が上の方と話すことはほとんど無いので、物の感じ方や視点が違って、話していて面白い。
雑談の中で、漆丸夫婦にはお子さんがいなかったと分かる。
家の中が妙に整理されているから、学校期の子供はいなそうとは思っていた。だからこんなに家の中がきれいなのね。家の中がきれいのは良いけれど、やはり子供がいないのは寂しいのでは?
そして今、奥さんは旦那さんを亡くし、完全に一人になってしまった。もちろん学校もないし、仕事もされていない。そうすると何を心の拠り所にして生きているのだろう?きっと寂しいのではないだろうか?
だから誰かと話したくて、私たちを快く受け入れてくれたのかもしれない。
私にはそんな完全な一人の状態は、考えられないし耐えられない。
学校に行った日でも、帰ってきて誰もいない家に入ると、ちょっと胸が締め付けられる気がしていた。もともと孤独耐性が低いのかもしれない。
でも、今は涼くんがいる。だから、どうとか心の平安を保っていられる。
そんな涼くんは今、私の隣に座って、時々頷く程度で会話には積極的には入ってこない。まあ、アンドロイドだし一応設定は男の子だから、そんなものかもしれない。
ふっと壁の時計を見ると、夕方近くなっている。
私は最後に今回の訪問の表向きの理由を思い出して口に出す。
「議員さんのお墓詣りに行こうと思うのですが、お墓はどちらになるのでしょうか?」
すると奥さんは少し残念そうな顔をする。
「それが作っていないのです」
「そうなのですか。これから作る予定ですか?」
「いえ、作れないのです」
と意外なことを言う。
「それは、どういうことでしょうか?」
聞いて良いのか分からなかったけれど、聞いてしまう。
「遺骨が無いのです」
遺骨が無い?
「私は知らなかったのですが、主人はある大学病院と献体の約束をしていたようで。それで遺体は大学病院へ送られたと聞いています。だからお墓を作っても入れるものが無いし。そういう事情もあって、お葬式も身内だけにしたのです」
献体とは、医学部の学生の授業のために、死後に自分の体を実験や解剖実習のために提供すること。机上の座学だけでは医学の腕が上がらないので、実際にメスで切ったり整合したりと手術を体験する授業があるのだけれど、本当の患者さんの手術に素人の学生が参加したら失敗するかもしれない。だから、最初は死体に対して手術の練習をすると聞いたことがある。検体は故人の遺志によるもので、自分から献体すると希望する人はかなり希少で、だからこそ重宝される。
漆丸議員は献体を希望していたと聞いて、私は感心する。そういう公共のためにという意識の高い人。
もし私が死んだとしても、献体はちょっと出来そうもない。見ず知らずの人に裸を見られて、切り刻まれてバラバラにされて。もちろん私は死んじゃっているから何も分からないのだけれど。でも、医学の進歩のためには必要なことで、そのために議員さんは自分の死後も社会のためを考えて行動している。
「どこの病院へ献体したのですか?」
珍しく涼くんが話に入ってくる。
「どこだったかしら?ちょっと待っててね」
奥さんは立ちあがり部屋から出ていき、しばらくすると、数枚の紙を持って戻ってくる。
「武蔵医科大学病院って書いてあるわね」
私と彼はその紙を覗き込む。献体同意書とあって、漆丸議員の署名と宛先の病院名が書いてある。他には死亡診断書もあって、それは私も知っている埼玉北部救急救命センターの名前と、死因が出血性急性ショック死であることと、診断医師名が書いてある。
埼玉北部救急救命センターは、私の高校から一番近い救急病院で、議員さんはそこに運ばれ、亡くなって死亡診断書が出されていた。
奥さんに断わって、写真を撮らせてもらう。
「ありがとうございました。いろいろ参考になりました」
「また、いつでも遊びにいらっしゃい」
感謝の言葉を述べて、家を出る。
本当に良い人。あんな人と知り合いになれて、ちょっと安心を分けてもらえた。
最近、涼くんが家から出ていくと言ったり、ルスナラに銃で脅されたりいろいろあって、自分でも無意識のうちに疲れていた。体が疲れているのではなく、精神的に。なんとなくいつも心が晴れず、何か重いものがずしっとのしかかっている感じ。
嘘でも良いから優しい言葉をかけて欲しくなっていた。
そんな時には、優しい言葉をかけてくれる人が必要で、それが漆丸さんの奥さんだった。
普段会わない人と話して、リフレッシュできた感じがする。
そして、涼くんの価値を再認識する。
彼は私の話し相手になってくれて、学校から帰った後、彼と話すことが私の心のオアシスになっている。そして、私には涼くん以外はそんな言葉をかけてくれる人はいなくて、だからこそ彼が私から離れて欲しくない。そして、彼を守るために狙撃犯を見つけなくてはならない。