初めてのグー
次の瞬間、私はその場で床にひっくり返る。じわーっと片頬が痛く、少し熱を持つ。
あっ、殴られた。それもグーで。
人生で初めて顔を殴られた、それもグーで。
痛さを感じるより、初めて殴られたという恥ずかしさを感じる。
「何も知らないくせに、いい加減なことを言うなー」
彼女は我を忘れたように叫ぶ。
どうやら、地雷を踏んでしまったみたい。
今まであんなに無表情で全く動じなかったのに、何が地雷だったの?
彼女はリビングの壁に走ると、クローゼットの扉を開ける。そこは収納棚になっていて、小物がいくつか置いてあり、その奥から彼女は厚紙の箱を乱暴に取り出すと、蓋を開ける。中にはクレヨンくらいの大きさの金属製の筒が詰まっている。
棚に置いた銃を取り、弾倉を引き出すと、クレヨンのような筒を1個ずつ弾倉に入れていく。興奮しているせいか手元が乱れて、時々筒が指の間から床に落ちる。まるで薬の切れたジャンキーみたいに混乱している。
満杯になると、弾倉をガシャッとグリップに押し込む。
何しているの?あのクレヨンみたいな筒は、もしかして実弾?
それから、両手で私に銃を向ける。
今度は実弾が入っている?
「ごめんなさい」
急いで謝る。
「本当に、ごめんなさい」
彼女の荒い息が聞こえる。精一杯自分で自分を抑えている感じ。
私は銃を向けられたまま、しばらく無言の時間が過ぎる。
今後は本当にダメかもしれない。目をつぶって、全身に力が入り、身構える。
「出て行って」
彼女の小さな声が、ぼそっと聞こえる。
おそるおそる目を開けると、彼女はこちらへ銃を向けているけれど、私を見たくないという感じに視線をずらす。
「早く出て行って」
叫ぶので、大急ぎで立ち上がり、フリーズしている涼くんの方へ近付き、腕を引っ張る。もちろん動かない。
それに彼女が気付いて、ポケットに入れていた端末のスイッチを押すと、涼くんのフリーズが解除される。
彼は一瞬何が起こったか分からなそうで、彼女を見て
「あっ」
と言う。
「もう良いですから。今は帰りましょう」
と彼の腕をグイッと掴んでリビングから廊下に出る。
もともと、私たちは彼女の家に勝手に入ってきた訳なので、さっさと出ていかなくては。
大急ぎで玄関から出て、通路を走り、エレベータの下りのボタンを連打する。やってきたエレベータに飛び乗り、マンションの外に出て周りに歩行者がいるのを確認して、やっと安心する。
生きた心地がしなかった。もう余分なところに顔を突っ込むのは止めにしよう。
私はもともとおっちょこちょいの所があって、ちょっと興味を持つといろいろな所に手を出す傾向がある。新しい物好きで、一応何でも試してみる。小さな時はそれでも良かったけれど、段々年が上がってくると、何でもかんでも許されるという訳でもなくなってきて、時々こういう性格を変えなければならないな、と思う時がある。
彼と離れたくなくて、あの外人の女の子の関与を調べなければならなくて、そのために不法侵入までしてしまったけれど、その代償が死の恐怖とは予想もしなかった。
もう、本当にこういうことは止めにしよう。
でも考えてみると、彼女は不法侵入に対して怒っていた訳では無い。何か地雷を踏んだから急にヒステリックになった訳で、その理由が分からない。
今になって、自分の足がガクガクと震えていることに気付く。
「大丈夫?僕が余計なことをして、ごめんね」
「うん、大丈夫。彼女、関係していないと言っていた。それは多分本当だと思う」
とりあえず、今回の訪問の目的は達せられた。
彼女は狙撃には関係していなくて、他のだれかが議員さんを狙撃した。彼女も狙っていたけれど、先を越された。
彼女も狙っていたというのが気になるが、もうそれは追及しないでおこう。私たちには関係ないし、議員さんは亡くなっているから。
他のだれかが涼くんを狙っていたと、彼女は言ったけれど、それはどう受け止めれば良いのだろう?
それは彼に聞いても分からない。でも、もしそうなら、今後、私たちの生活が危うくなるかもしれない。
少し時間が経ち、私の動揺が落ち着いてくると、今度は彼女に対して、何とも嫌な気持ちが湧いてきた。
相当、メンタルを病んでいる。どういう経験をすれば、あんな精神状態になるのかしら。
あーいうタイプは苦手。
もちろん、こちらが勝手に不法侵入したことが悪いのだけれども、最初は口頭で言ってほしかった。もちろんそういう人ばかりではないということは分かるけれど。
銃を持っているという時点で、普通じゃない。
でも、結局、警察にも通報せずに私たちを帰してくれて、実はいい人なのかもしれない。
ただ、良い人だとしても、彼女とは会話が成り立たなそう。
よく言われる例えとして、会話とはキャッチボールと言うけれど、私は彼女と会話できなかった。会話しているようで、彼女が一方的に自分の意見や要求を言っているだけ。キャッチボールで言えば、彼女が一方的に投げているだけ。
彼女の印象は、パラノイアとヒステリーとメンヘラの混合。
外国人だから、考え方や会話の仕方が違うのかしら?
そんなことを考えながら、歩いて自宅まで来る。この頃には足の震えは治っていた。