気づいた願い
夜が酒場のこの宿は、それなりに人気があるらしい。
大抵いつも賑わって、エールという名のほぼビールが、飛ぶように売れていく。
「おーい、こっちにも来てくれ」
「はーい。ただいま」
奥から声がかかったため、急いで向かう。
呼んだのは、若い男性と中年の男性の二人組。二人とも私がここで働いて以来、初めて見る顔だった。
「こっちにエールを。それと、俺は葡萄酒をくれ」
「かしこまりました。すぐにお持ちしますね」
「ああ、頼む」
踵を返した私だが、彼らの会話が聞こえた瞬間、立ちどまる。
「まったく。ピピ様とやらも、今の娘くらい可愛げがあればな」
「しっ。めったなことを言うもんじゃない」
「またそれか? 大丈夫。店は当分休業で、会う機会もない。それより、給金の支払いはどうなっているんだ?」
ピピ様?
ヒロインの名を口にするということは、彼らはあのカフェの関係者?
休業とは、どういうことだろう。
「さあな。とりあえず、タピオカだっけ? その粉を手に入れるまでは、保留だと思う」
「げっ。なんてこった、タダ働きか」
タピオカと聞いて、確信する。
彼らはやはり、ヒロインの店の従業員だ。
どうやら、置いてあった粉の在庫が尽きたみたい。
タピオカ用の粉は、魔界にしか存在しない。
だってあれは、あの地に育つ黒芋の粉と米の粉をブレンドしたものだ。ちなみに、店の看板メニューであるもふ丸ドリンクだけでなく、人気のパンケーキやクレープもあの粉を使っていた。
――休業は残念だけど、ヒロインに奪い取られた店だし、同情できないわ。
とはいえ、気の毒なのは従業員。
ちょこっとサービスしようかな?
多めのエールといい葡萄酒をコップに注ぐ。
ついでに余ったおつまみも、差し入れよう。
おつまみや簡単な料理は私が作っているため、ある程度自由がきく。
「お待たせしました」
「……だが、お前が調べて来たんだろう?」
「ああ。あいつらは気を失ったフリをして、話を聞いていたらしい」
お客二人は会話に夢中で、運ばれたことにも気づかない。
仕方なく、テーブルに置いて下がろうとしたその時、馴染みのある単語が聞こえた。
「魔界だっけ。それじゃあ、粉の入手は無理だな」
「俺もそう思う。だから、早めに給金を……」
カラン、カララララ
「す、すみません!」
ショックのあまりお盆を落とした私は、慌てて二人に謝った。
「……あれ? この料理、頼んでないけど?」
「ええっと、サービスです。今後もどうぞ、ごひいきに」
「ありがとう。可愛いだけじゃなく、気も効くなんて最高だな」
若い男は愛想が良く、にこにこ笑っている。
対して中年の男性は、呆れたようにため息をついていた。
私は少し離れたところから、二人の会話に耳を澄ます。
「でもって店長の話では、魔の森に偵察隊を出すらしい。選りすぐりの騎士だってよ」
「騎士? それって王城の?」
「ああ。デザート一つでそこまでするのはバカバカしいが、王子はピピ様の言いなりだとか。ただ、運良く魔界に行けたとしても、八つ裂きにされるのがオチじゃないか?」
「まったくな。あの店はもう終わりだ。俺も次の働き口を探すよ」
驚いたなんてもんじゃない。
ヒロインのピピは、タピオカ粉を手に入れるためだけに、魔界に騎士を送るつもりだ!
「どうしよう? 念のため、魔界に伝えておいた方がいいよね」
明くる日。
私は宿のおかみさんに休みをもらい、吸血鬼の寄越したお金で馬車を雇った。
目的地は、魔の森だ!
ハッピーエンド後のヒロインは、本能のままに生きている。
だったら私も、自由に動いていいはずでしょう?
「ここから先は、一人で行ってくれ。こんなところ、わしゃごめんだ」
「ありがとうございました。では夕方頃、また迎えに来てください」
「ああ。だが、いなかったら帰るからな」
「……わかりました」
馬車と一緒に雇った御者には、森の入り口で別れを告げた。
私はいざ、魔の森へ。
ここは人間界にカフェをオープンする際、何度も通った道。石の扉がある場所なら、ちゃんと覚えている。
「魔界を追い出された身でも、大事な用なら受け入れてくれるわよね?」
扉がなければ騎士は魔界に行けないから、私の役目はそこで終わり。
扉があれば直接行って、警告するつもり。魔王の刻印が残っているので、いきなり襲われることはないだろう。
「問題は狼ね。ま、こんな髪の色じゃあ、気味悪がって近づかないかもしれないわ」
安い染め粉は失敗で、じっくり見ると色が結構落ちている。
黒い中から青い髪がのぞくという、まだら模様だ。
「これで可愛いって言った昨日の男性、視力は大丈夫?」
首をかしげつつも歩みを進める私は、魔界に思いを馳せてみる。
『まだら根』といえば、『甜菜』のこと。
魔界では収穫量が増えたから、てんさい糖が使い放題。
人間界よりあっちの方が、甘味は充実しているかもしれない。
「みんなは元気でいるかしら? もふ魔達はわたくしがいなくなって、寂しいと思ってくれているかな?」
黒い毛玉の可愛い姿が目に浮かぶ。
少し離れただけでこんなに懐かしく感じるのは、私が二匹に癒やされていた証拠だ。
――もう一度、魔界に行けるかもしれない。
期待で足取りは軽く、あっという間に広場に着いた。
「石の扉はもう少し奥、よね」
けれど草地はがらんとして、扉なんて影も形もない。
「なーんだ。心配する必要なかったみたい。……良かった」
良かったと言いつつ、その場にがっくり膝をつく。
焦ってここまで来たけれど、気が抜けたのだ。
「これは……稲? やはり野生の稲は、魔界のものとは違うわね。料理長は、魔界のお米を美味しく炊けるようになったかしら?」
大きな身体で、炊き加減に苦労するサイクロプスの姿が浮かぶ。ドワーフは、焦がして穴の開いた鍋を見て、怒ってないかな?
続いて深夜、調理場の床に寝そべってあくびをするフェンリルを思い浮かべた。魔王に伴う彼の凜々しい姿を、私はまだ一度も見ていない。
魔王は今、何をしているだろう?
いつも忙しそうだけど、休む暇はあるのかな?
甘いものを口にした時の彼の表情が、私は一番好きだった。
「……そうか。わたくしは、こんなにも魔界に帰りたかったのね」
人知れず呟いて、上を向く。
輝く青い空よりも、薄暗い空が見たい。
酒場の喧噪よりも、魔族達の鳴き声が聞きたい。
自分を受け入れてくれたあの場所で、もう一度料理がしてみたい。
抑えきれずに零れた涙が、私の頬を濡らしていく。




