あなたがいなくても
「ギネラ、おい、ギー」
「……はい!」
そうか。今の私は、ギネラと名乗っているんだった。
一階の食堂兼酒場を手伝う私――ヴィオネッタは、慌ててお客の元に行く。普段は厨房にいるけれど、人手が足りない時にはこうして注文を取っているのだ。
「エールを追加してくれ」
「喜んで!」
「その言葉、不思議だよな〜。ところでギーは、誰かに似ているよな。この辺に姉妹はいないか?」
「いいえ、姉妹はおりません。それとも私、口説かれている?」
とっさに冗談でごまかした。
でもこのお客は以前、カフェで見かけたことがある。
今の私は地味な茶色いスカートに、白いエプロンを付けていた。黒く染めた髪は束ねて、後ろで一つに結んでいる。緑の瞳は変わらないけど、人違いだと言い張れるはずだ。
「確かにどっかで見たんだがな。……ああ、わかったぞ!」
ポンと手を打つ男性に、お盆を抱えたままぎくりとしてしまう。
「なんと言ったかな。以前は評判だったけど、今はガラガラの甘いものを出す店だ」
ガラガラと聞くと、胸が痛い。
あのお客でいっぱいだった店内は、通りがかった時にはお客がいなかった。
私は慌てて話を変える。
「そう。それより、うちの食事はどう? ちゃんと味わってね」
「ああ。もちろん美味しいよ」
「ありがと」
けれど、話を聞きつけた別のお客が乗ってきた。
「その店には、僕も行ったことがある。元は人気の店だが、人手に渡って変わったらしい。妻が、以前よりかなりマズくなったとぼやいていた」
「だろう? うちの女房も、おんなじことを言っていた。そんでもって『あんたは酒場で楽しめるからいいわよね』と、きたもんだ。あの店の味が落ちたのは、俺のせいじゃないっての」
「わかる。うちも一緒だよ」
談笑し、意気投合する男達。
反対に、私はどんどん沈んでいく。
笑顔の絶えないあの店は、今はもうお酒のネタにしかならない。
このままどんどん忘れられ、消えていくのか?
「浸っている場合じゃなかったわ。早いとこエールを運ばなくちゃ」
吸血鬼からもらったお金は、宿代と辻馬車代を払っただけで、残りは全て取っている。
王都で泊まったこの宿は、運良く料理ができる人を募集していた。そこで私はここに留まり、老いた料理人の補助として働いているのだ。
「お待たせしました。当店自慢のエールです」
「ありがとう。なあ、ギネラは甘いものは作らないのかい?」
問われた途端、なぜか魔王が頭を過ぎる。
初めてタピオカを口にした時、彼は黒い塊を喉に詰まらせ、咳き込んでいたっけ。それがちょっぴり可愛くて、思わず笑った覚えがある。
「ギネラ、おい、ギーってば!」
「はい? ……あ。ええっと、甘いものは苦手です。酒場には、おつまみくらいがちょうどいいかと」
「さっきからボーッとしてどうした? ま、いいや。作れないなら仕方がない。……やっぱり別人みたいだな」
ボソッと呟く男性は、それ以上追求してこなかった。
私は作り笑いを浮かべると、別の注文を取りに行く。
真夜中。
シンとした厨房にいる私は、一人ため息をつく。
自分で名前を変えたのに、人から「ギー」と呼ばれるのには、まだ慣れない。
これがもふ魔達なら……。
『ぎぃー』
『ぎー、きゅいきゅーきゅ?』
そんなふうに可愛く鳴いて、私を心配してくれた。
心優しい仲間に囲まれて、楽しく過ごした日々。苦労もたくさんあったけど、あの時間が懐かしく、戻れないと知った今、余計に愛しい。
「そうだ。看板もしまっておかなくちゃ」
片付けを終えても、フェンリルは床に寝そべらない。
「今日はお肉がたくさん余ったの。これだけあれば、喜ぶ顔が見られたのにね」
自分の部屋に帰っても、もふ魔達は現れない。
「一生懸命手伝ってくれて、助かったわ。ヴィーという自分の名前に誇りが持てたのは、あの子達のおかげよ」
鍋の持ち手が壊れても頭をかくサイクロプスはおらず、修理してくれるドワーフもいない。
「ドワーフは怒りながらも、新品同様に直してくれたわ。お礼にいろんなキッシュを差し入れたけど、シンプルなのが好きだったわね」
そして魔王。
魔界中の敬意を集める彼の、圧倒的な美貌も微笑も、もう見られない。
「刻印を消さずに追放したのは、私のことなんてどうでもいいからよね? それなのに、こんな繋がりでも喜ぶなんて、自分でもどうかと思う」
胸に手を当て、考える。
魔界からは、なんの音沙汰もない。それはきっと、魔王が私を追放しろと命じたせいだ。彼は私を、役立たずだと判断したみたい。
でも感謝こそすれ、魔王を責める気持ちはない。
だって彼は私の料理の腕を認め、刻印の力で守ってくれた。光の球を浮かべてくれて、魔界の種族や食材と拘わるきっかけも作ってくれて。
死亡フラグだらけのつらい日々。
そこから救い出してくれたのは、彼だ。
「処刑する」と言いつつ本気でないのは、早くに見て取れた。
『残虐非道』と言われる魔王は、実は優しい。だからこそ、魔族も彼を慕うのだろう。
「大丈夫。あなたがいなくても、私は元気よ」
ひとりぼっちの厨房で、そっと呟く。
宿のおかみさんは親切で、忙しいけど平和に過ごしている。二度と魔界に戻れなくても、私はここで生きていく。
気づけばこうして、魔法陣の刻まれた胸に手を当てるのがくせになっていた。
人間界に戻れて喜ぶべきなのに、時々寂しく感じてしまう。
「こんな日が来るってわかっていたら、甘いものをもっとたくさん作ってあげるんだったな」
今さらどうにもできないけれど、それだけが心残りだ。




