ある宵に見た、ただの夢の話
気がつくと、私は古びた駅舎の中にいた。
辺りは早朝や夕刻、あるいは行楽地や祭りの只中のように大勢の人であふれていたが、しかし、とても静かであった。
話し声はもちろん、咳きも靴音もなにの音もたてず、人人は粛粛と進んでいく。
改札の丸い囲いの中に立つ駅員は紺鼠の制服を着、同色の制帽を目深にかぶって俯いている。切符を切ることも確かめることもしない。
人人もするすると改札を抜けると駅舎の外へ流れ出ていってしまう。
私もその流れの一部になり、外に出た。朝なのか暮なのか。薄曇りの空で判然としない。
駅舎の左右に伸びる道はどこまでもまっすぐで、その先は靄でけぶって判然としない。
正面は川だった。ガードレールもなくすとんと切り落としたような土手である。駅舎から流れ出た人人は、誰もが迷うことなくその土手の一辺に作られた小道をくだって河原へと降りていく。
もちろん私もまたその流れの一部となり、河原に降り立った。
ただよう靄は川から生まれているようだった。
浅い川のようで人人はためらうことなく、水の中へと進み、川を渡っていく。
向う岸に目をやれば、靄の中、黒い点点のようになりながら、人人は川からあがると土手をあがり道のさらに先へと進んでいくのが見えた。
私もそれに続こうと川に足をおろした刹那、跳びあがった。
ひどく足が痛んだのである。川底に尖った石でもあるのか。しかし人人は、老人も子供も男も女も、みな静静と川面に足をおろし歩いていく。
独り私は河原にしゃがみこみ、痛む足をさすって気づいた。
靴を履いていない。これでは川を渡れない。
それでは他の人人はどうなのだろうと、目をこらしてみるが、靄が邪魔をしてそれが一切わからない。
横をすり抜けた老爺が履いているのが下駄なのか雪駄なのか、ブレザーの少女はローファーなのかモカシンか、半ズボンの少年はスニーカーなのかズックなのか。
私には見通せないままに、人人はなにに障ることなく川を渡っていってしまう。
私はあせった。このままでは置いていかれてしまう。
私は、どうしてもこの川を渡らねばならないというのに。
「だれか! だれか私に靴を貸してください!」
おもわず叫んでいた。
「足が痛くて川が渡れないのです。だれか私に靴を貸してください。片方だけでもいいんです。お願いします!」
幾度も叫んだが、足を止める人はただの一人もいなかった。しゃがみこむ私の横をすり抜け、人人は粛粛と川を渡って向う岸へと歩き去っていく。
しかたなく私は、元来た道へと引き返した。人人の流れに逆らい、駅舎へと戻る。
駅員はつと顔をあげたが、やはり深くかぶる制帽でその表情はうかがえない。彼はすっと右手を挙げた。白手袋の人差し指で、人人が流れ出こんでくる改札とは別の、自分の後方を示し――。
そこで私は目がさめた。
これは、私が見た夢の話である。
ひどい風邪を引きこみ、寝ついていたある宵に見た、ただの夢の話である。