序章
2317年8月10日午前6時30分 友原華子はいつもと同じ時間に目を覚ました。ごくごく平凡な高校2年生である彼女の特徴は、いかなる分野においても平凡なところである。強いて付け加えるならほとんど狂うことの無い生活リズムも彼女の特徴であると言えるだろうか。
ごく平凡な家庭で育った平凡な彼女は、その時代では平凡では無くなっていた。国の調査によれば、何らかの精神疾患の病名を持っており、向精神薬を服用している国民は7割を超えているということだった。若い人になるほど薬を飲む割合は高く、華子ほどの年の子達の間では、片思いの相手が飲んでいる薬を服用すると恋が実るなんて噂が流行るほどである。華子の世代で薬を服用していない人間は、それだけで健康を自慢できた。
午前7時30分 登校の支度を終わらせて、ニュースを見ながら家族で朝食をとる時間だ。
定位置に座るとテレビに目を向ける父の顔が華子の方に向き直った。
「おはよう、華子」
「おはよう、お父さん」
挨拶を交わすと父の顔はまたテレビに向けられた。父は寡黙であまり感情を表に出すタイプではない。娘である華子ですら、この人は実はアンドロイドなのではないかと時折疑ってしまうほどだ。しかし、眼鏡の奥に覗く細い目は様々な感情を語るということを華子は知っている。父の目を眺めるのは彼の感情を読み取るための日課であり、趣味でもあった。
テレビを見ている父を観察していると、その目はいつもよりも熱心にニュースを見ているようだった。華子も釣られてテレビの方に目をやる。
――アンドロイドが人間の心理ケアを担う可能性――
そんなテロップが目に飛び込んできた。アンドロイド倫理委員会の役員である父がいつもより熱心に見入るのは当然だと感じられた。
「え~ロボットが人間の心のケアなんてできるの?」
「ここ数年のアンドロイドの発展には目を見張るものがある。最新式のアンドロイドARI-10は人間の感情を理解することができると言われているんだ。心理ケアはカウンセラーにとっても大きな精神的負担になる。アンドロイドが少しでもその役割を担うことができたらカウンセラーの負担も減るんだよ」
穏やかながらも流暢に父は話した。普段無口な彼もアンドロイドのこととなると途端に饒舌になる。アンドロイドに向ける熱意をもう少し私やお母さんに向けてくれてもいいのに、と華子は思った。
「でもそれじゃあアンドロイドが疲れて壊れちゃうんじゃないの?」
「アンドロイドにかかる負荷はまだよく分かっていないんだ。その研究はこれから行われる。心理ケアをさせるかどうかもその結果と倫理委員会の判断次第だよ。今日家に届くアンドロイドもその研究の一環さ。」
「え!そんな話聞いてないよ?お母さんの家事手伝いかなのかと思ってた!」
「ああ。言ってなかったな・・・。だから今日来る子には出来るだけ自然に接してあげて欲しい」
父は心なしか寂しそうな顔をしていた。アンドロイドに負担がかかることが嫌なのだろう。
彼は幼い頃からアンドロイドを愛していた。その少年時代のアンドロイドは、命令された指示に従う程度の性能しかなく意思疎通なんてできるはずもなかったのだが、それでも父はそのロボットを家族のように扱っていた。当時はロボットを人間のように扱うことに対して肯定的な人間は少なく、内向的で友人の少ない父を憂いた祖父は父から「家族」を取り上げて捨ててしまった。家族であり親友であったものを失った父のショックは大きかった。彼を倫理委員会の役員にさせ、アンドロイド一家に一台が当然のこの時代にアンドロイドを持たせなかったほどに。
「今日来るアンドロイド君の名前考えてあげなきゃね。新しい家族だもんね」
父の想いを汲むことのできる華子はにこやかに言った。
「ありがとう・・・でも名前はもうあるんだよ」
父の目は優しかった。しかしもう名前を考えているとはやはり父といったところか。
「名前はなんて言うの?」
「シン・・・心と書いてシンだ」
「かっこいい名前だね。私と同じ年くらいだっけ?」
「ああ。モデルは16歳。華子と同じ年だよ」
午前8時 家を出た華子は今日来るアンドロイドのことを考えていた。
(16歳の男子かぁ・・・どんなルックスなんだろう?やっぱりイケメンなのかな?怖くないかな?)
友原家では犬を一匹飼っているが、彼を買いに行った時と似たような高揚感を華子は覚えていた。