善戒幼少編
「世界破滅遊戯」
~善戒幼少編~
この世は破滅へ向かっている。
青天が無くなり、空が人間の血肉を連想させられる暗黒の紅色に染められた、世界破滅遊戯を宣言された、あの日から。
そう、あの日から太陽は呆れるかのように姿を消し、紅色一色の大雲がただ空を支配した。
そんな状況に為す術などなく、 人類は、明日の無事を祈り、五年が過ぎた。
「待ってよぉ、痛っ!」
「なっさけないわね。前はちゃんと見て走りなさいよ!」
「だって、亜莉愛が急いで先に行くから、必死で追いかけて」
「木の枝に頭を打つけたと?」
「うん」
「なっさけない!」
亜莉愛と名を持った少女が、木の枝に頭を打つけて、尻餅を付いている少年にデコピンを打った。
「痛いよぉ。うっ、ぐすっ」
「男の癖に泣かないの!」
「だ、だって…」
「言い訳もしない!」
「分かったよぉ」
少年は涙をこらえ、痛みの走る頭をさする。
「全く、善戒は何時になったら男らしくなるのかしらね…。もう少し逞しければ、お嫁さんになってあげても良いけどなぁ…」
「亜莉愛、今なんか言った?」
亜莉愛の頬が急に紅潮した。
「貴方には、一生お嫁さんは来ないって言ったのよ」
「ひどいや!うっ、うわーん!」
「はぁ、また泣く…」
亜莉愛は呆れ果てて、善戒の涙が乾くまで、その場で腰を下ろして待つことにした。
太陽が姿を消してから、この五年間、紅色の空が昼夜の認識を妨げる。夜の暗闇の恐怖も、暑き日差しの痛みも、今では記憶の一欠片になってしまった。
「これも全ては、あの日の世界破滅遊戯の宣言のせいだわ」
気持ちの高ぶりのせいか、亜莉愛は何時の間にか、感情を言葉に変換させていた。
「せかいはめつゆーぎい?なにそれ?」
亜莉愛は衝撃を受けた。この世に存在する人間で、この事実を知らない人がいるとは思えなかった。
「学校で教わってないの?」
「学校行ってないもん」
突如そこには、気まずい空気が流れた。
「何で?」
「呂ノ伊が小便臭い餓鬼と一緒に居て、下らねえ屁糞にもならん知識身に付けたって、なんの意味もないって言ってるから」
「あの、犬っコロそんなこと言ってるんだ。困ったものね…」
「あと、呂ノ伊は亜莉愛にも近づくなって言ってたなぁ」
「なんでよ?」
「直ぐ手を出すから、…って痛っ!」
善戒が言葉を言い終える前に、亜莉愛は再びデコピンをお見舞いした。
「僕が言ったんじゃないよぉ」
「知らない!」
亜莉愛はそっぽを向き、如何にも不機嫌そうに歩き始めた。
善戒も、渋々それに続く。
この二人が出会ってから、毎回目にする光景だ。善戒も、亜莉愛も毎回この光景を繰り出せると信じて疑っていなかった。
しかし、現実は常に、残酷である。
この二人とて、例外には成り得ない。
空が一瞬紅色を捨て、白銀色に輝いた。
そして、善戒の前に、亜莉愛がいなくなった。
「……」
現実に思考が付いて行けず、夢と結論付けるに落ち着いた。
善戒は恐る恐る自分の頬を殴ってみた。
しかし、案の定頬に痛みが走っただけだった。
「おかしいなぁ。痛いや」
もう一度、殴ることにした。
だが、やはり痛む。
「あ、亜莉愛…」
善戒は、現実を認識できた瞬間、気がついたら、地面が目の前にあり、気絶していた。
気絶する間際、善戒は微かに何者かの足音が耳に入るのを感じることに成功していた。
しばらく、時が経ち、善戒は恐怖を感じていたが、何より好奇心で目を開けることにした。しかし、目に映ったのは見慣れた犬の顔と我が家だった。
「おい、善戒大丈夫かぁ?帰ってくるの遅かったもんだからよぉ、匂い頼りでおめーを探したら、森の道端で倒れてるってんだから、ビックリしたぜぇ」
「ろ、呂ノ伊…」
「どーしたぁ?顔色最悪だぜぇ?」
「あ、亜莉愛、亜莉愛…」
「亜莉愛だぁ?そーいえば、嬢ちゃんの匂いも、一緒に有ったけど、おめーが倒れてる所からいなくなってたなぁ。あれもどうしてだぁ?」
「わ、わからないよ…。わからないんだ!うわーん!!!亜莉愛がぁ!亜莉愛!!!」
「おいおい、どーしたってんだ。取り敢えず落ち着け!」
「こうしちゃいられない!亜莉愛をさがさなくっちゃ!」
そう言うと、突然、善戒は横たわっていた、寝床の藁の山から立ち上がった。それと同時に、善戒のズボンのポケットから、ひらりひらりと一枚の手紙が地面に落ちた。
その手紙は、一瞬その場の注目を集めて、静寂にさせた。
その静けさを壊すかのように、呂ノ伊は口を開けた。
「なんだか知らねえが、開いてみたらどうだ?」
「う、うん。わかった…」
善戒は恐怖しながらも、手紙を拾い上げ、封筒を破った。
―――――瞬間、封筒から大量の煙が出てきたかと思えば、気がついたら、目の前に人が存在していた。
「うわっ!」
「なんじゃ、貴様はぁ!!!」
善戒は腰を抜かして、その場に座り込んだが、呂ノ伊はその人一直線目掛けて、飛び込んだ。牙を首元へ持っていき、噛み砕くことを試みたが、むなしく、煙を食っただけだった。
「どうなってやがる!?」
「あはは、まあ、落ち着いて下さいますよう。これは、煙で出来た言わば、分身見たいなものでございます。危害が加えられぬ分、こちらからも危害を加えられません」
煙からでてきた、長身の男性が気品漂う口調で、呂ノ伊をなだめる。
又もや、現実を疑うに相応しい出来事が起きているが、今の善戒はなぜか、それを簡単に受け入れることが出来ていた。
「お、お前は誰だ!」
「鼻垂れ小僧が疑問に思うのも不思議は無いでしょう。宜しい。お答えしましょう。小僧にも分かりやすく、簡潔に言えば、私は亜莉愛を誘拐した人物です」
「な、なんだと…」
善戒は、不謹慎にも亜莉愛が居なくなった理由が知れて、安堵した。
しかし、直ぐに誘拐されたと言う事実を認識して、亜莉愛の安否を心配した。
「亜莉愛をどうする気だ!悪者め!」
「殺しますよ」
「えっ……」
穏やかな雰囲気から一転、殺意に満ちた目が光り、とてつもない恐怖を善戒に覚えさせた。
「善戒!糞ぉ、煙の分際で、ワシの餓鬼を脅かすんじゃねえ!」
そう言うと、呂ノ伊は縦一線、真っ二つに煙を分裂させる前足の降り下ろしを放った。
煙は分裂した部分から徐々に蒸発していき、「我が名は来伝、小娘の命、善戒、お前次第だ。世界破滅遊…参…ろ」と言い残し、消え失せた。
ただ、善戒に恐怖心を残して。
善戒は、腰が抜けたまま、一向に動く事が出来ずにいる。
「あんな奴の事真に受けることねえぞ。一回嬢ちゃんの家に行ってみるぞ。ひょっこり帰ってるかも知れねえ」
そう言うと、呂ノ伊は善戒の首の裏を噛み、持ち上げ、亜莉愛の家へと向かうことにした。呂ノ伊の吐息と、生暖かい唾液が、徐々に善戒の心の平和を保ってくれた。
呂ノ伊達が家を出て、早々、又もや驚く事が起きていた。
「出てきやがったな、化け犬と、その糞餓鬼!亜莉愛をどこへやりやがった!!!」
「前から何かしでかすって思ってたんだよ!遂に化けの皮が剥がれたな!」
「人の言葉を話す犬なんて聞いた事がないもの。きっと、こいつは地獄からの魔物に違いないわ!」
呂ノ伊は回りを見渡した。すると、どの方角に目をやっても、人と目が合った。つまり、呂ノ伊の家は何時の間にか、村人達によって包囲されていたのだ。何時もなら、匂いで気がつくはずだったが、何せ、一頓着有ったから、気づくことが出来なかったようだ。
「なんだぁ、お前ら?何の用だぁ?」
「とぼけるんじゃねえ!亜莉愛ちゃんの姿が見当たらないのは、お前らのせいだろ!?」
「きっとそうだわ、だって、亜莉愛ちゃんが、その薄汚い小僧と遊んでるのを見たもの!」
「そうか!?では、その小僧を捕らえろ!!!」
村人達は次次と罵声を浴びせる。
元々の人間嫌いもあり、呂ノ伊の怒りが頂点に達した。
呂ノ伊は静かに、地面に善戒を置いて、ゆっくりと村人達に近づいた。
「ワシの悪口や、冤罪を擦り付けるのも、我慢できらぁ。でもなぁ、善戒を傷つけようとする奴ぁ、脳みそぶち撒けても許せねぇ」
あまりの迫力に村人達に緊張が走った。
「ひぃ!」
「お、おおお助けえ!」
徐々に迫り来る殺気の塊に、村人達は怯え、腰を抜かすしかない。
「呂ノ伊、そのぐらいにしておけ」
そんな中、突如、村人達の合間をから、一人の女性が姿を露にした。
「寿蛇かぁ、何しに来やがったぁ?」
「言葉を教えたやった先生に、何しに来やがったとは挨拶だな」
「そんなこともあったけなぁ。まあ、いい。ちょっと、そこにいろ。今からこいつらぶっ殺すからよぉ」
そう言うと、寿蛇に向けていた視線を、村人達に戻した。
「ひぃいぃいい!」
「勘弁してけろぉお」
「化け者に命乞いが通じると思うかぁ?潔く殺されやがれ」
「助けてえ、お、お母さん!!」
「だーかーら、止めなさいっての!」
寿蛇は腰の抜けた村人達に近づく呂ノ伊の前に立ちはだかって、声を荒げた。
「ほら、あんた達も早くこっから、出ていきな!」
「えっ…」
「早くしな!」
「はい!おい、ずらかるぞ!」
「おぅ」
「母さん!」
情けない叫びと共に、村人達が一目散に去っていった。
「なんで、邪魔したんだぁ?」
「何でじゃないよ!」
そう言うと、寿蛇は呂ノ伊の頭に目掛けて拳骨を放った。
「痛てえなぁ」
「無闇に人を襲うなと教えたはずだ!」
寿蛇はもう一発拳骨を放った。
「痛ってえよ!もうわかったから、用件言いやがれ」
「全く、本当に分かってるのかねえ…。まあ、良いや。立ち話もなんだ、家に上がるぞ」
「勝手にしやがれ…」
寿蛇は、なんの遠慮もなくズカズカと呂ノ伊達の家へと上がった。
「あの、人誰?」
恐怖が少し和らいだのか、善戒が口を開けた。
「ワシに言葉を教えたくれた人間だ」
「呂ノ伊人嫌いなのに珍しいね」
「嗚呼。おめーを育てんのに流石に話せねえんじゃ苦労するって思ってな。渋々教えてもらったって訳だ」
「そうなんだぁ。ありがとね」
突然呂ノ伊は何を思ったのか、善戒から顔を背けた。
「な、何バカなこと言ってんだぁ。ほら、さっさと家に入るぞ」
「うん」
元気よく返事をすると、善戒は家へと上がって、呂ノ伊もそれと続く。
「そんで、用件ってのはなんだ?」
「単刀直入に言おう」
寿蛇の言葉に、呂ノ伊は冷や汗をかいた。いや、まさかと思って、寿蛇を凝視した。いくらなんでも早すぎるだろうと。しかし、現実は常に残酷だ。
思い通りになんてさせてくれる筈がないのだ。
「善戒を引き取りに来た」
「………」
恐れていた言葉が、胸に突き刺さる。
希望などない、しかし、それでも納得したくはない。
「い、いやまだはえーじゃねえのか?だだってなあ、まだ、善戒はわ、若いしな、まだ…」
「呂ノ伊」
「こ、この前だって、おねしょしたばっかでよぉ」
「約束だろう?分かってくれたまえ」
「そ、そんなぁ。ぜ、善戒はまだぁ」
「呂ノ伊!!!お前だってこのままにしておけば、この世がどうなるか分かってるんじゃないのか!?少し酷かもしれんが、これは善戒の為でもあるんだ!」
「…………」
「亜莉愛ちゃんが連れ去られたのだろう?」
「そうだ…」
「奴等はもう動き始めている。もう時間がないんだ」
その言葉で、呂ノ伊の頭の中に、五年前の出来事が写し出された。突然、空を暗黒の紅色の雲が覆ったのかと思いきや、その雲の中に眩しいくらいの黄色い仮面を被った人が、現れていた。その人物は、紅色の雲を出現させたのは自分だと言い放ち、そしてこう続けた。
『我等は、この世の生物を滅するために生まれた。火災を起こす火之神、水災を起こす水之神、地震を起こす、地之神、竜巻を起こす、風之神、そして、雷を起こす、雷之神。それらによって生み出された、生物滅殺霊なるものだ。お主ら生き物は少しばかり、図に乗りすぎよった。木を倒し、草を食い千切り、糞と変える。自然が何も抵抗出来んと思ってな。しかし、それも今日で仕舞いだ。自然の恐ろしさを特と味わせてこの世を破壊してやろう…………と、言いたいところだが、何、ちょっとした余興だ。貴様らに十と八年をやろう。それまで、我等生物滅殺霊は地上に降り、それぞれの降りた地で過ごすとしよう。十と八年、それまでに、我等全員を倒すことが出来れば、この世の破壊を中止にしてやろう。しかし、時が来て、我等一人でも倒されていなかった場合は
―――死あるのみ。
これより、世界破滅遊戯を宣言する!
生の物どもよ、無駄な足掻きを堪能させてくれ!』
そう言い放ち、その人の形をした何かは姿を消した。
しかし、その後、世界の各地で見知らぬ建物が建っていたり、急な気候の変化が現れてたりしていて、五年たった今でも大混乱に至っている。
そんな中で、とある事情で世界を救える唯一の希望が善戒と言う訳なのだが。
「何でこの女の人怒ってるの…。怖いよぉ。うわーん!!!」
呂ノ伊は心配でしかたがない。しかし、これも世のため…、いや、呂ノ伊にとってこの世は糞同然。何よりも、このバカ餓鬼の将来のためなら…。
「善戒…」
「うっううっ。なに?」
善戒は涙を拭きながら、呂ノ伊の方へ顔を向ける。
「これから、お前はこの女と共に過ごしてもらう」
「えっ、この人ここに住むの?狭いから嫌だなぁ」
「違う」
「えっ、どういう「お前がここから、出ていくんだ」
瞬間、善戒は世界が止まったのかと錯覚した。
「な、なにを言ってるんだよ…。ねえ、呂ノ伊…」
初めて会ってから、今まで、辛い時も、悲しい時、嬉しい、寂しい、どんな時も呂ノ伊は善戒の側に居てくれた。それが当たり前で、それがずっと続くのだと信じて疑っていなかった。今だって疑っている訳じゃない。そんなはずはないと、自分に言い聞かせている。しかし、心の痛みが押し付けがましく現実を知らせてくれる。
「元々ワシは人間が嫌いなんだ。良い機会だし、出ていってくれ」
「うっ、うっううっ、い、いやだよぉ」
「いい加減にしろよ」
「嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だ!嫌だぁ!何で!?嫌だぁ「いい加減にしやがれぇ!!!」
泣きわめいていた善戒が、ビクッと驚き、息を飲んだ。
「何度も言ってんだろお!ワシは人間が大っ嫌いなんだぁ!その中でも、ギャーギャー喚く糞餓鬼が一番虫酸が走んだよ!ワシに腸食い千切りられる前にとっとと消えやがれ!!!ぶっ殺すぞ、この餓鬼がぁ!」
そう言うや否や、呂ノ伊は善戒の首元へ飛び付き、牙を剥き出しにした。
口を開け、首に噛み付く。
そこには、いつものぬくもりや安心感は無く、ただ、恐怖と激痛が走るだけだった。
「何してるんだい!その子を殺す気かい!?」
そう言うと、寿蛇は腕を呂ノ伊の首をに回し、善戒から引き離した。
「離せぇ、殺してやらぁ!」
「君も何してる!早くここから、出て行きなっ!」
「…………」
善戒はもう訳がわからなくなり、一心不乱に家から飛び出した。
善戒は走った。どこへ向かうこともなく、兎に角、一心不乱に走った。兎に角、遠く、遠くへ走った。
善戒が、いなくなり、その場は嘘のように静かになった。
「もう、離してくれ…」
「あ、ああ。わかった」
寿蛇はそっと、呂ノ伊から離れ、言葉を選ぶかのように、口を開けた。
「お前は良くやったよ…。そうしなければ、善戒が、この世が危ないから…」
「最初あいつを拾った時ワシはワンワンとしか言えんかった」
「あ、ああ。もちろん知っている。私が呂ノ伊に言葉を教えたからな…」
「そうだ。あいつはあの通り泣き虫で臆病だからよぉ、ワシが鳴き声を上げるたびに、驚いて泣きやがったんだ」
呂ノ伊の目から大粒の涙が次々とこぼれる。
「ワシはな、善戒を笑顔にするために言葉を覚えたんだ…。あいつを泣かせるためなんかじゃねぇんだ…」
「呂ノ伊……」
「寿蛇、ワシはあいつを傷つける奴を絶対に許さねぇ。己が憎い内に善戒を連れていってくれ」
「わ、わかった」
そう言うと、寿蛇は直ぐに出口へと向かい、呂ノ伊の家から出ようとする。
「寿蛇」
出ようとするが、呼び止められたため、足を止めた。
「善戒は臆病で、泣き虫で、腰抜けだがよぉ」
呂ノ伊の涙はまだ、止まることはない。
「ワシは善戒無しでは生きていけねぇんだ。ワシの唯一の家族で、唯一の生き甲斐なんだぁ。大事にしてやってくれ」
「ああ、任せておけ」
そう言い残し、寿蛇は呂ノ伊一人置いて、家を跡にした。
もうどれ程走ったのだろうか…。
分からない。分からないが、もう足が限界に達している。だから、少し休むことにした。しかし、いざ休んでみると、色んな事が頭をよぎってくる。亜莉愛の突然の消失や、長身の男、村人達の罵声に、その中から現れた一人の女性。名を寿蛇と言うらしい。そして何より、呂ノ伊……。
『殺してやらぁ!』
この言葉が何度も、何度も頭の中に再生される。
善戒は幾度も呂ノ伊に怒られたことがあった。遊びに出て行き帰りが遅くなった時、森の奥深くまで行き、そして迷子になった時、そして、一番呂ノ伊が怒るのは、体に傷を付けて、帰ってきた時だった。傷が、大きければ大きいほど良く怒ってくれた。何時も呂ノ伊は、善戒の事を思って怒っていると思っていた。
「…っ!」
突然、首に鋭い痛みが走った。
しかし、やはり、さっきの怒り方は何時もの呂ノ伊じゃない。自分の知っている呂ノ伊じゃなかった。
「そうか…」
あれは、本当の呂ノ伊じゃないんだ…。そうに違いない。
そうすると、思い当たる節は一つ。
「あの女の人が呂ノ伊を可笑しくしたんだ」
こうなると、もう歯止めは効かない。
「きっとそうだ!そうに違いない…」
自信はなかったが、しかし、現実を受け入れたくない一心で、自分にそう言い聞かせる。今の善戒には、それ以外、心の安定を計る術がないのだ。
「あの女の人を殺せば、呂ノ伊は元に戻るんだ…」
善戒はそう呟くと、さっきまで限界に来ていた足を動かし、立ち上がった。体を反転し、来た道を辿りながらに走り出すことにした。
―――「どこへ行くつもりだ?」
善戒は急な声にビックリし、回りを見渡した。しかし、あるのは話す筈もない、木と草だけだった。
「ここだよ」
そう言うと、一つの影が木の上から姿を見せ、すっと善戒の前に舞い降りた。
「うわっ!」
突然現れた人物に、善戒は腰を抜かし、その場で尻餅をついた。
「で、どこに行くつもりだったんだ?」
「じ、寿蛇ぁ」
善戒は、座ったまま寿蛇を睨み言い放った。
「お、お前を殺せば、呂ノ伊は元に戻るんだ!!!」
何がおかしかったのか、寿蛇は、声を上げて、盛大に笑った。
「腰抜け小僧が、アタシを殺すだとぉ?笑わせるな!」
突然の大声で善戒はビクッと驚いた。そして微かに、目が充血するのを感じた。
「うっ、うるさい!呂ノ伊のためなら、怖くないやい!」
善戒は、プルプル震える足で立ち上がり、寿蛇一直線目掛けて走り出した。
「やろうってのかい。面白い」
「やぁ!」
善戒は、寿蛇と目線が一致する位置まで飛び跳ね、右手を天高く上げ、寿蛇の頭頂部目掛けて、降り下ろす。
「跳躍力は大したもんだ。しかし…」
寿蛇は、その降り下ろされた手を難なく捕まえて、そして、善戒を地面に叩き落とした。
「ぐわっ!」
地面に叩き落とされた、背中が痛む。自然と目に涙が浮かんでくる。
「涙で人は救えないよ!」
「うるさい!」
善戒は、痛む体を無視し、立ち上がる。
「呂ノ伊を返せぇ!!!」
一旦勢いを付けて、そして、今度は寿蛇の首一直線目掛けて跳躍した。猛速度で、寿蛇の首まで辿り着き、口を開けて、噛み付こうとする。
「甘いよ!」
噛み付こうとするが、突然、頭の上に拳が見えたかと思いきや、その拳は、見事に善戒の後頭部に直撃し、善戒をまた地面へと誘った。
「あぁっ!」
善戒は今度は後頭部の痛みと、地面に叩き付けられた顔面の痛みで悶え苦しむ。
「お前みたいな糞餓鬼が、誰かを助けることなんで出来はしないよ」
「うるさい」
善戒は全身の痛みに堪えながら、何とか立ち上がることに成功した。
「ほう、立てるのか」
「出来なくても、助けるんだ…」
「どうやって?」
「呂ノ伊が教えてくれたんだ!」
善戒は途端に全身に力が沸いてくるのを感じた。
「呂ノ伊を傷つける奴はぁ、絶対に許さねぇ!」
善戒は、荒く、しかし、強く走り出し、又もや跳躍して、寿蛇の首元に向かった。
「そんなもん、何回やっても、アタシには通用しないよ!」
寿蛇は、さっきのように、右手の拳を高く上げ、善戒の後頭部目掛けて降り下ろす。
「おらぁ!」
降り下ろし、予想通り、後頭部に直撃した。後は地面に叩き付けるのみ………だが、……
「勢いが、止まらない…!」
なんと、後頭部目掛けて打った拳は、善戒の跳躍の威力に負けて、跳ね返された。
「ヤバい!!!」
跳ね返された反動で寿蛇の体勢が崩れた。目の前には自分の首を食い千切ろうとする善戒が凄まじい速度で迫ってきている。
「なら、こうだ!」
寿蛇は自分に向かってくる善戒を間一髪で、なんとか体勢を後ろへ倒す事で避ける事ができた。
善戒はそのまま、顔面を地面に擦りながら地に付いて、しばらく転がってから静止した。寿蛇はそのまま、背中から地面に倒れた。
「あ、危ねぇ」
寿蛇は冷や汗をかかずには居られなかった。何せ寿蛇が、地面に倒されるのは初めての経験だったからだ。
寿蛇は汗を拭きながら、立ち上がる。
「おい小僧」
善戒はもう体が動かないため、倒れながら、顔だけ寿蛇に向くことにした。
「呂ノ伊を助けたいか?」
善戒は静かに頷いた。
「亜莉愛も助けたいか?」
善戒はまた頷く。
「だったら、アタシがしばらくお前に修行をつけてやる。良いか、涙じゃ人は救えない。誰かを助けたいなら、強くなれ」
寿蛇は善戒の元に行き、そして、善戒を抱き抱えた。
「お前の涙はここに捨ててゆけ」
その言葉を最後に、善戒は限界に達していたのか、気絶をしてしまった。
「って言っても、アタシの修行は楽じゃない。泣く暇なんて与えてやらないよ」
そう言うと、寿蛇は永遠と愉快そうに笑い続けた。
幸か不幸か善戒は、それを聞かずにすんだ。弱々しく寿蛇の腕に抱かれて眠る善戒は、あたかも遊び疲れて母の腕で眠る子供のようだった。しかし、一つ違うのは、眠って尚、閉じた目から伝わる善戒の心の強さ。やはり、この世を救えるのはこの子しかいないと再度確認する、我が子を抱いているような、母親の眼差しを送る寿蛇であった。