二十年目のさやか
京都駅前のロータリーで、出発時間を待っているバスに駆け寄る。これから一時間あまり、一年生の息子と二人で故郷へのバスの旅だ。
亮介は目をキラキラさせ、弾んだ足取りでステップを上った。すぐに動き出したバスに、ふらつく息子の腕を掴んで後部へとついてゆく。去年よりも大きなリュックを背負い、最後尾の席へ滑り込んだ隣に私が座ると、亮介はニッと歯を出して笑った。そしてバスのエンジン音に負けないように、大きな声で話しかけてくる。
「おばあちゃん、カブトムシを捕まえたんだって。門の蛍光灯にとまってたんだよ! すごいでしょ!」
昨夜の母の電話のあと、何度同じ話を聞かされたことか。
「ほんと。びっくりするわね」
「うん! 虫とり網も買ってくれたんだよ」
乗り心地が良いとは言えないバスに揺られても、息子の興奮は冷めないようだ。東京育ちの亮介には、夏の田舎は遊園地以上の喜びがあるのだろう。成城のマンションを出る時も東京駅で新幹線に乗りこむときも、息子から「早く早く」と急かされどうしだ。
混んだ市内をようやく抜けて、車窓の風景は緑の山へと変わる。もみじで有名な山城高雄を過ぎ、長いトンネルを抜け、バスは峠道を走ってゆく。
亮介はガラスに額をくっつけて、木立の迫ってくるような風景を眺めている。そのまっすぐな瞳は深い山の中に恐竜でも探しているようで、思わず笑みがこぼれた。確かにどこまでも連なる山々を眺めていると、ビルの林立する乾いた都会にはない不思議な命の気配がする。
バスの中は空いていて、立っている客はいない。市内から離れるにつれて乗客は少なくなる。
二つ前の座席に、小学生の女の子と三歳くらいの幼児を抱いた女性が座っている。荷台の大きなボストンバッグを見ると、私達と同じようにお盆の帰省なのだろう。母親一人で大変だなと眺めていると、膝の女の子が小学生の子にふざけてキスをしようとした。姉妹だろうが、思わず微笑んでしまう光景だ。嫌がる姉の首に手を回していた女の子が顔を寄せ、
「おねえちゃん、大好き!」と、叫んだ。
瞬間、時が止まる。ふいに記憶が巻戻り、呆然と女の子を見た。
オネエチャン、ダイスキ――。
「ママ? 電話がブーブー言ってるよ」
亮介に腕を掴まれ、ハッとして膝の上のバッグを見る。中で携帯電話が震えている。慌てて取り出すと、夫からのメールが届いていた。大きく息を吸い込んで、画面を開ける。
――『もうバスに乗ったかな? 明後日、午前中にこっちを出る。京都駅でレンタカーを借りるから、午後二時頃には着くと思う。お義父さんお義母さんによろしく』
今朝仕事に向かう夫の不満そうな顔を思い出し、微笑んでしまった。休みが取れず、一緒に帰れないことが残念でたまらないようだった。
夫はカレンダー通りにしか休みが取れず、土日に掛けてやってくる。一緒に帰省すれば亮介も喜ぶだろうが、私はどうしても十二日に実家に帰りたかった。私の生まれた村ではお盆前に墓に参り、ご先祖の霊を家に連れて帰るという風習がある。そのために毎年十二日に帰省すると決めていた。七歳で死んだ小さな妹の霊を迎えに行くために。
「ママ、橋だよ。赤い橋! もうすぐおばあちゃんちだ」
亮介が私を振り返り、明るい声で言った。赤い塗料が塗られた鋼鉄製の橋が、曲がりくねった道路を繋いでいる。
「よく覚えているね、亮介」顔を近づけて言うと、
「うん!」と、あどけない笑顔が誇らしげに向けられる。
七歳……大きくなった。この春、ランドセルを背負い胸を張った息子の姿を見た時、思わず涙が滲んだ。我子の入学式が親にとって、これほど嬉しくて誇らしいものかと感無量だった。
元気に成長してくれること。息子は今のところ唯一の願いを叶えてくれている。
「おばあちゃん! おじいちゃん!」
バス停に立つ祖父母を見つけた亮介は、ドアが開くやいなや飛び降りた。そして母の広げた手の中へ飛び込む。父は笑いながらバスから降りる私に手を差し伸べ、「お帰り。よう来た、よう来た」と、旅行鞄を受け取ってくれた。
小さな村はいつもと同じ風景で私を迎えてくれる。耕地整理された田は、少し穂を垂れた稲が吹き抜ける風に撫でられ、まるで波立つ湖のようだ。家へ向かう道沿いの木々からは、耳をつんざく蝉の声。数件の家が立ち並んだだけの村を覗き込むように、深い緑の山々が連なっている。昔ながらの茅葺屋根の民家はどっしりと構え、時の流れなどどこ吹く風だ。
ただ、二人きりで暮らしている両親はまた年老いた。小柄な母は背が丸まり、痩せた父の頭部はほとんど白髪になった。
「疲れたやろう、笙子。東京から子連れで、大変やったなあ」
母は並んで歩きながら、背中をポンポンと叩いた。
「ううん、今年はそうでもないわ。亮介がお利口だったから。だっこしてなんて言わなかったしね」
父の手を引いて家へ急ぐ亮介を見ながら、母と笑い合った。
「本当に、毎年毎年、びっくりするくらい大きくなって……。入学式のビデオは何回もみているんやで」
「そう。また送るわね。なかなか帰ってこられないから」
「ああ、そうして。父さんも本当に楽しみにしとるから」
六十歳を過ぎた両親が、この山深い村でさびしく暮らしていると思うと胸が詰まる。
夫とは、大学を出て京都市内で働いている時に出会った。取引先の営業マンだった彼とつき合って一年後に、東京へ転勤が決まったと告げられた。プロポーズの言葉とともに……。故郷から離れることに悩んだが、私は彼を選んだ。両親は結婚に反対したわけではないが、遠くへ嫁ぐ娘に落胆したことだろう。生きているのに両親の元を離れたのだ。結婚式が終わった時、これも運命やなと父が呟いた声が耳に残っている。
そう、すべては運命……その言葉を、私はひたすら自分に言い聞かせてきた。
ちーんと澄んだおりんの音が、静かな座敷の空気を震わせる。
「さやか、お姉ちゃんが帰ってきたよ」
両開きの扉を開いた仏壇の前で、母は語りかける。西瓜や夏の果物とお菓子が供えられ、仏壇はにぎやかにお盆の飾り付けがしてある。縁側には水色の回り灯籠が涼しげに風に揺れている。
仏壇の上のかまちに飾られた祖父母の写真の隣に、妹の遺影が並んでいる。桃色の花が散ったゆかたの襟を見せ、妹は小さな口元から白い歯を覗かせ笑っている。私は遺影を見るたびに、こんなに屈託なく笑った顔をいつ撮ったのだろうと思う。七歳で亡くなるまで家と病院しか知らない子だったのに、写真は笑い声が聞こえてきそうな満面の笑顔だ。
「さあ、亮ちゃんも、さあちゃんにただいまって言ってやって」
母の隣に座った亮介は、神妙な顔で手を合わせている。
「もう二十年になるのね。さやかが亡くなって」私はぽつりと母に言った。
「そうやなあ。生きとったら二十七歳や……」母はそういうと、さやかの写真を見上げる。
二十七歳になった妹を、母がどんなふうに思い描いているのだろう。私には大人になった妹を想像することなど出来ない。でも、笑っていると思うのはこの幸せそうな写真のせいだ。いたたまれない思いがよぎり、遺影から目を逸らせた。
「お母さん、私、お墓へ行ってくるね。さやかを迎えに」
「ああ、そうしてやって。きっと笙子が来るのを待ってると思うよ」
母は丸顔を綻ばせ、明るい声で言った。
村の墓地のある裏山の小道を、花とお供えを抱えひとり上って行った。
妹は祖父母の墓の隣に眠っている。生まれつきの心臓疾患で、手術に耐える体力がついたら人工弁を取り付けて、学校へも行けると喜んでいた矢先の死……。墓に花を飾り、お菓子と果物を供える。線香に火をつけ揺らぐ細い煙を目で追った後、静かに手を合わせた。
夕刻のオレンジ色の陽射しが、ひぐらしの声を誘うように伸びてきた。周りを杉木立が囲む村のもっとも神聖な場所は、静寂の時を迎えようとしている。
私は墓石に向かって「さやか」と名を呼び、くるりと背を向けた。
「さあ、おうちへ帰ろうね。おんぶしてあげるから」
おぶっているように背に手を回し、立ち上がった。さやかが死んでから、お盆に家に連れて帰るのは私の役目になった。
村へ続く細い道を下りながら、私の首筋に冷たいさやかの手が回されている気がした。
「ごめんね……ひどいおねえちゃんで……」振り向いて肩越しに呟く。十二歳の私のしたことを妹が許してくれるはずがないのに。愚かな私の罪は重い。
さやかは五つ違いの妹だ。
父から女の子が生まれたと病院から電話があった時、私はとても嬉しかった。いっぱい可愛がってやろうと、会えるのが楽しみで仕方なかった。
でも、妹は何日経っても病院から帰ってこなかった。それどころか、京都市内の大学病院へ転院して、母はそのまま付き添うことになったのだ。まだ幼稚園児だった私は、何日も母と離れるのは初めての事で、淋しくて堪らなかった。帰らない母を思い、このまま会えないのではと泣いてばかりいた。同居していた祖母が面倒をみてくれたが、どんなに不安で淋しかったか……。小さな頃のことなのに、その悲しさはしっかり記憶に刻まれている。
一ヶ月後に父が病院へ連れて行ってくれたが、やっと会えた母は、暗い顔をして言葉少なに私を抱きしめた。そして、初めて見た妹はガラスの保育器に入れられ、いろいろな機器につながれていた。びっくりするくらい小さくて赤黒い、醜い塊……。ぽっちゃりとした可愛い赤ちゃんのイメージからは程遠かった。さやかは心臓の弁が生まれた時から奇形できれいな血と汚い血が混ってしまうのだと知ったのは、ずいぶん大きくなってからだ。あの時はただ自分の目に映った妹の姿に衝撃を受け、父の後ろで怯えていた。
生後一年近く経って、さやかは手術を受け、ようやく家に帰ってきた。私達一家にやっと穏やかな日々が訪れたのだ。しかし経過観察や検査入院やと、その後も両親は市内の病院へ足繁く通う日々を送った。そのたびに私は留守番をさせられる。
「さやかは病気やから、笙子は我慢できるね。おねえちゃんやもの」
両親にそう言われると、頷くしかなかった。
あの頃の私は泣いたり笑ったりしたのだろうか。妙なことに幼稚園の頃の記憶が抜け落ちたように思い出せないのだ。
さやかはとても可愛い子だった。透き通るほど白い肌。睫毛の長い大きな瞳。茶色のさらさらした髪。だが、妹の心臓は手術でも完全に治すことが出来ず、ほとんどベッドに寝たままだった。成長は遅れ、歩き出したのも三歳を過ぎてからだ。抵抗力もなくたびたび熱を出し発作も起こした。そのたびに入院することになり、私は母と引き離された。
父と母は盲目的にさやかを愛していたのではないだろうか。目を離せない重篤の心臓病の子の世話は大変だったと思うが、いつもさやかに向けられるのは慈しむような笑みだった。健康に生まれなかった子に、親は罪悪感を持つのだろう。子供を愛するが故、自分たちの罪であるかのように感じてしまっても仕方がない。そして健常な子以上に深く愛するのかもしれない。私の両親もさやかの成長に一喜一憂し、全てをささげている……そんな感じだった。
さやかは歩くようになっても、外で遊ぶことが出来なかった。無理な運動が命取りになるからだ。だから、いつも縁側に置いた一人掛けのソファに座って、景色や通る人を眺めて過ごしていた。もちろん幼稚園に通うことなど論外だった。私はそんな幼い妹を見かねて、時々おぶって散歩してやった。小さくて同じ歳の子よりは随分軽かったが、小学生の私には結構大変だ。それでもさやかは父の背中より喜んだのだ。小さな手を差し出されると嫌とは言えず、しっかりおんぶ紐を掛けてもらって散歩に出る。秋にはトンボが乱舞する田んぼへ、春には土手につき出したつくしを見せに。家の周りをひと回りするだけでも、さやかには楽しいことだったのだろう。
「おねえちゃん、あれなあに?」
背中のさやかは小さな指で、花や木やいろんなものをさしては訊く。そして私の答えに「ふうん」と甘えるように返事をする。
私はさやかが可愛かった。両親と同じように大切にしてやりたかった。でも、さやかを中心に回る家族の輪の中で、私は一番外側を回っている気がしていた。父と母はいつもさやかの方を向いていて、私はその背を見つめるだけだと思っていたのだ。
翌日、母と村の中を散歩に行った亮介が帰ってきて、大きな声で私を呼んだ。お昼ご飯の用意を止めて、エプロンで手を拭きながら庭に出てみると、亮介はガラスの飼育箱の前に屈んでいた。タンクトップと半ズボンから小さな背中が覗いている。飼育箱に顔を突っ込みそうにしながら、夢中になっているようだ。
「亮介」と呼びかけて、私はハッとして足を止めた。一瞬、息子の向かい側に、屈んだ子供がいるように見えた。目を細めたが、息子の小さな背しか見えない。どうかしてると、笑いながら近づいた。
「ママ、見て! たっくんがくれたんだ」
亮介は後ろを振り返り、飼育箱から必死に足を動かしているクワガタの背を掴んで取り出すと、私に差し出した。
「わあ、すごいね、亮介」
「うん、裏山の木にとまっているのを捕まえたんだって。暗くなると木の汁を吸いに出てくるんだ」
興奮した声で目を輝かせている。村の子どもともう仲良くなったらしい。
「ぼくも捕りに行きたいなあ」と、小さな手でクワガタをひっくり返して見ながら、ぼそっと呟く。
「駄目! 山へ入って迷子になったら大変よ。それよりおじいちゃんが、川へ泳ぎに行こうって言ってたよ」
「ほんと! やったあ!」
クワガタを飼育箱に戻すと、亮介はゴムまりのように弾みながら駆けて行った。田舎で過ごす一週間は、呼吸数まで上がっているようだ。父に抱きつく息子を見ながら、微笑まずにはいられない。
「亮介は元気がいいねえ」と、母が私の横に立って言った。
「うん、学校ではおとなしい方なんだけど、ここに来ると張り切っちゃうみたい」
「子供やもの。元気なのが一番だよ」母の目は愛おしそうに孫を追っている。
亮介が家の中から自分のリュックを持ち出してきて、父の前で畳んだ浮き輪を広げはじめた。真っ赤な顔になって膨らませているのを見て、母も笑っている。ちょうど妹と同じ歳の孫を見つめる母に、私は胸が締め付けられた。
「お母さん……。病気の子どもを持つのって辛いことでしょうね」
母は一瞬目を細めたが、すぐに穏やかな表情になった。
「あの子のことで辛かったのは、手術を受けている時と、死んでしまった時だよ。生きてさえいてくれたら、私も父さんも辛いことなんか何もなかった」
そう言うと母は、私に詫びるように目を伏せて言った。
「でも、おまえは辛かったと思う。さやかのために随分我慢をさせた。すまなかったと思っているよ」
「辛いなんて、そんなこと……。ただ、私も子供を持って、もし亮介が病弱だったらって、いつも思うのよ」
背に母の暖かい手を感じた。
「元気な亮介を授かって、おまえは幸せだよ。私らはおまえたち一家が幸せならそれでいいのや。ただ、さやかのことを忘れることはできへん。生きていてくれたらと時々思うよ」
母の面差しに、視界が滲む。私は瞬きをして涙を止めた。
「ごめんなさい……」
口からこぼれ出た言葉は、亮介の弾けるような声に消し去られた。
のんびりと過ごす午後。
涼やかな風が開け放った家の中を通り抜ける。セミの鳴き声、木立を揺らす風の音、鳥のさえずり。何一つ変わらぬ家は、三十歳を過ぎた今でも子どものように心を開放できる。故郷というのは不思議なものだ。
ひんやりした畳に寝そべってうつらうつらとしていると、いつの間にか夢に誘われた。
夏のお盆――庭に虫の声が聞こえて、真っ暗な中にぽっと赤い火が灯る。少女の顔がぼうっと浮かんでくる。縁側に座った妹に、花火を見せてやっている。さやかは桃色の花柄のゆかたを着て、私もアジサイのゆかた……ああ、六年生の夏だ。線香花火のわらを摘まんだ手の周りで、パッパッと朱色の火花が弾ける。さやかが歓声を上げる。そして、次第に弱い火花となって、赤い玉がぽつりと落ちた。瞬間、暗闇に閉ざされる。すると、か細い小さな手が私に向かって伸ばされた。
――おねえちゃん……。
さやか!
――おねえちゃん……しんどい。
ハッと目を開ける。ひぐらしの声がもの悲しく、薄暗くなった座敷に忍び込んでくる。じっとり汗をかいた額を手で拭いながらあたりを見回す。
開け放した縁側……いつもさやかが座って外を眺めていた場所。キーンと耳鳴りがする。座敷を満たすオレンジ色の空気が、ひどく息苦しく感じた。慌てて起き上ると、逃げるように座敷を出た。
台所に入ると、母は夕餉の支度をはじめていた。
「母さん、亮介は?」
「ああ、川から帰って来て、たっくんのうちへ遊びに行ったよ。川で一緒に遊んでいたらしいで」
「そうなの。さっそく友達ができたのね」
「たっくんもこの村に同じくらいの小学生がおらへんから、喜んでるやろう」
「よかったわ。遊び相手がいて」
私は乱れた髪を後ろへ撫でつけて、ダイニング椅子に掛けられたエプロンを手に取った。「手伝うね」と明るく言って、母の横に立ち野菜の水洗いを始めた。
夕食のしたくが終わる頃には、外が薄暗くなっていた。山深い里の夕暮れは早い。柱時計を見て、そろそろ亮介を迎えに行かねばと思っていた時だった。
「おばちゃん!」と、玄関の引き戸から、たっくんが顔を覗かせた。
「あら、たっくん。亮ちゃんを送って来てくれたんか?」
「ちがうねん……」
母が口ごもったたっくんに近寄った。たっくんは怯えるように、震える声で話し出した。
「裏山にクワガタを探しに行ったんやけど……りょうちゃんがどこか行ってしもてん」
母が絶句して、たっ君の小さい肩をつかむ。
「まだ山から帰ってへんの?」
「さがしたんやけど、どこにもおらへんねん」というと、たっくんは泣き出した。
私は台所から走り出て、玄関で長靴に足を入れると、
「お母さん! 探してくる。お父さんにも来てもらって!」と、叫んだ。
「わかった! ほら、懐中電灯持って行き。山はすぐ暗くなる」
母に頷きながら、渡された懐中電灯を掴み、外へ飛び出した。
裏山の細い道にはもう闇が忍び寄っている。まだ西に夕刻の明るさが残る空と対照的に、杉木立に囲まれた谷間は心細くなるほど暗い。
クワガタのいる雑木林は墓地を通り過ぎて、山へ分け入らねばならない。もしもっと奥へと入りこんだら、幼い亮介に戻る方向がわかるはずはない。その先は険しい斜面が続いている。私は声を張り上げ、亮介の名を叫んだ。
「亮介! 返事して!」
声に驚いて鳥が飛び立った。嘲るような鴉の鳴き声が、四方から空へ放たれる。辿ってきた細い山道は闇にかき消され、懐中電灯を持つ手に力が入る。
足を滑らせ、谷に落ちているのでは……。息を弾ませ、藪の中へ踏み込んだ。顔をしなる小枝に打たれながら、両手で掻き分け一歩ずつ進む。
「亮介! どこ!」
斜面に根を張っている松の木を抱き、辺りを頼りない電灯の明かりで照らす。もう明かりがないと足元が見えない。これ以上闇に包まれたら、探すどころか歩くのもままならない。
見つけられなかったら……途端に恐怖で足が動かなくなった。膝がぶるぶると震えだす。
「りょうすけえ!」声の限り叫ぶ。喉の奥がひりひりしたが、返事はない。また息を弾ませ、斜面を這うように上って行った。
随分奥まで入ってきた。ここまで子供の足で登れるだろうかと思いながらも、急な斜面に立ち、必死であたりを照らす。
その時懐中電灯の光の中に、ぼやっと影が浮かんだ。目を凝らして、「亮介?」と呼んだ瞬間、ぞうっと冷たいものが背を滑りおりた。
亮介じゃない……。女の子……? こんな山の中に……!
真っ暗な藪の中に、おかっぱ頭の無表情な白い顔が浮かんでいる。ごくりと唾を飲んだ。体中の毛が逆立つようで、体が強張った。動けない。
さやか?――一瞬、頭の中に名前が浮かんだ。途端に、影がすうっと木立の奥へ動いた。行ってしまう!
「ま、まって……」もつれる足を必死に踏み出す。「さやか!」叫んだ瞬間、ふっと影は消え去った。追いかけようとしたが、体から急に力が抜けてしまい、溜まった枯れ葉に足を取られた。あっという間にバランスを崩し、急な斜面を滑り落ちる。何かを掴もうと手を動かしたが、体が回転して止められない。何度か木にぶつかり、足と腰に痛みが走る。
やっと藪の茂った緩やかな場所に投げ出された。体中が殴られでもしたように痛み、うめき声が漏れた。
「笙子!」
後を追ってきた父が、がさがさと藪を掻き分けて近寄ってきた。
「大丈夫か?」と父に抱き起され、幾つもの懐中電灯の明かりに目を細める。何人かの男の人の顔が見えた。
「足が痛い……。大丈夫、起き上れる……」
「おまえはもう家へ帰れ。村の人らが捜しに来てくれた。後は任せなさい」
私は頭を振ったが、父は有無を言わさず藪の中から連れ出した。集まってくれた人達に声を掛けられながら、私は項垂れたまま父に連れられ山を下りた。
体の痛みよりも、目にした幻影のために体の震えが止まらなかった。さやかだ。間違いない……。
妹は息子を守ってくれるのか。それとも……自分と同じ運命に導くのか。
家には村の女の人が数人来てくれていた。
たっくんの母親が蒼白の顔で走り寄ってきて、何度も頭を下げた。私は手を取って首を振り、心配してくれる村の人達に感謝を告げた。たっくんの父親も捜索してくれているのだ。
母は足を引き摺る私に驚いて、慌てて手当をしながら、
「亮ちゃんはきっと見つかるからな。心配いらん」と険しい顔で言った。
「あんな雑木林で見つからないなんて、信じられない」
私が打ちひしがれ震える声を出すと、手当を覗き込んでいた村のおばさんが、「こんな村に近い山で……。まるで神隠しやなあ」と強張った顔をしかめた。隣の家のお婆さんがその言葉を打ち消すように、明るい表情で私の肩に手を置く。
「大丈夫や。冬でもないし、山は冷え込まん。村中が出てくれてるから、すぐに見つかるにきまっとる」
私は泣き出したいのを我慢して、頷くしかなかった。
しかし、亮介は深夜近くなっても見つからなかった。そして仕方なく捜索は一旦打ち切られた。
「とにかく夜が明けたら、山の様子がわかる。やみくもに歩き回っても見つけられん。辛いことやが明るくなるまで待とう」
帰ってきた父はそう言うと、玄関の三和土に肩を落として座り込んだ。
「こんなことになるなんて……」と、母が暗い表情で唇を噛み締める。亮介の無事を信じようとしたが、私の頭の中には不吉な思いが広がっていた。
主人に携帯で連絡すると、明日始発の新幹線で向かうと短い言葉が帰って来た。そして、「大丈夫だから、そんなに自分を責めるな。きっと見つかるから」と、取り乱した私をなだめるように言ってくれた。命より大事な亮介をこんな目に遭わして……。夫の気持ちを思うと申し訳なさに涙が溢れてきた。私の横で、父も母も蒼褪めた顔で項垂れ、夜が明けるのを待っている。
これは私への罰なのだろうか……。
ふと、山で見た女の子の影が頭を過る。でも、さやかだったと断言する気持ちは薄れていた。亮介を見つけたい思いが、何かを子供に見間違えたのだ。さやかに見えたのは私の罪悪感の表れだ。
震える体を二の腕に抱いた。そして、ただ無事を祈った。
明け方近く、母に貰ったアスピリンのためか、私は横になったソファの上で浅い眠りに落ちた。
亮介が楽しそうに笑っている――雑木林のうっそうとした木立の間に笑った顔が覗く。カブトムシやクワガタが、木の幹にたくさんとまっていて、まるで宝物でも見るように目を輝かせている。そして、誰かに向かって叫んだ。
――ねえ、すごいよ! 来て来て!
おかっぱ頭の女の子が、亮介に走り寄ってくる。
――りょうちゃん、あぶないで。手をつないであげる。
女の子は亮介としっかり手を繋いだ。同じくらいの背丈の二人が、並んで背を向ける。
――さあ、りょうちゃん、いこうよ。
亮介が嬉しそうにこくりと頷くと、女の子が笑い返した。そして、ふいにその子が私を振り返る。記憶のままの懐かしい顔。だが、笑みのないその顔は凍りつくほど冷ややかだった。
さやか……! さやか……、やめて! 亮介を連れて行かないで!
「さやか!」
「笙子?」飛び起きた私に、母が驚いて顔を向ける。
「ああ、何でもないの。夢を見ていたみたい。さやかの……」
母は隣に腰かけて、肩を抱き寄せた。
「大丈夫だよ。亮ちゃんはきっとさやかが守ってくれる。大好きなおねえちゃんの子どもなんやから」
守ってくれる? さやかが亮介を守ってくれるなんてことがあるだろうか……。妹は私を恨みながら死んでいったはずだ。
間の柱時計が四時を打ち鳴らした。音のない居間に、不吉な警鐘のように大きく響いた。もうすぐ外は白んでくる。
不吉な思いは際限なく膨らむ。夢で見たように、さやかは亮介を連れ去ってしまうのではないか。私を罰するためなら、亮介の命だって……。汗が滲む手で顔を覆った。神隠しという言葉がふいに浮かんでくる。
「お母さん……。さやかは私を許してくれない」
「笙子?」母の目が訝しげに細められる。私は頭を振って、母に取りすがった。
「私、山で女の子を見たの……。さやかみたいだった。亮介を連れて行くつもりかもしれない」
「まさか! 何を言うてるんや!」母が大きく目を見開いて、項垂れた私の顔を覗きこんだ。
「恨まれているのよ、私……。さやかを死なせたのは私なんだもの」
「なにをバカなことを!」
母の叱責に、両手で頭を抱え込み喉から声をしぼり出した。
「ほんとうなの。あの日……さやかが死んだ日、私……あの子が具合悪いのを知っていたのよ」
「笙子……。どういうこと……?」
母の困惑した顔が、涙で滲んだ。
二十年前――六年生の冬休み前だった。
私が風邪をひき、運悪くさやかにうつしてしまったのだ。体力のないさやかは途端に高熱をだし、起き上れなくなった。
「気をつけてって言うたやないの!」と、母はまだコンコンと咳をしていた私を、厳しい口調で叱った。さやかはすぐに入院することになって、付き添うために母も病院に向かった。
冬休みになり、楽しみだったクリスマスもお正月も、世界中からとり残されたように我が家では忘れられた。父と私で作った質素なお雑煮だけのお正月。寒々とした居間のこたつに入り、ぼんやりとにぎやかなテレビを見ている淋しさ……。
病院に会いに行こうと言った父に、宿題があるからと断ったのはさやかの顔を見たくないと思ったからだ。私から何もかも奪い取る妹を、憎らしいと思う気持ちを止められなかった。
正月から五日過ぎて、やっと母と妹が帰ってきた。またいつも通りの生活が始まるはずだったが、今度は母が風邪をこじらせ寝込んでしまった。気丈な母が寝込むなど初めてで、私は父と家事をこなしながら心配で仕方なかった。
寝室におかゆを持っていくと、母は「ありがとう」といって、青白い顔にうっすら笑みを浮かべた。寝間着から覗く痩せた首筋とほっそりした肩。このまま元気にならないのではないかと思うほどやつれ果てている。なのに母は、「さやかはご飯をちゃんと食べた?」と、妹の心配をする。私が口を尖らせてこくりと頷くと、
「笙子、さやかをお願いね。やっと元気になったんだから。ベルが鳴ったらすぐに行ってやって」と、体調の悪さに顔を歪めながら念を押した。
ベルというのはさやかの部屋と居間をつなぐナースコールのようなものだ。さやかがいつでも家族を呼べるようにと、父が前の年に電気屋に頼んで取り付けさせた。押しボタン式のスイッチは妹のベッドの枕元に置かれ、さやかは体調の良し悪しにかかわらずベルを鳴らした。
母の言葉に従い二階の部屋へ様子を見に行くと、さやかはベッドに座ってじっと窓を見ていた。いつの間にか降り出した雪が、窓の景色を真っ白に塗り変えていた。私がベッドに近づくと、さやかは振り返って、
「さやか、雪だるま作りたい」と、甘えるように言った。退院はしたが、体力の落ちた体はベッドから起き上がれず、見るからに痩せ細り元気がなかった。
「あかんよ! じっと寝とき。また悪くなって、お母さんに心配かけるのいややろ?」
きつい口調でいうと、さやかはしゅんと肩を落とした。さやかも母を心配しているのは分かっていたが、優しい言葉を掛けてやる気がしなかったのだ。
「用があったら、ベル鳴らしな」と冷たく言って、部屋を出た。
そんなところへ電話が掛かってきた。それは友達からで、冬休みがあと二日で終わるからクラスの女子みんなで集まって遊ぼうという誘いだった。でも父は仕事に出かけていたし、母は寝込んでいる。さやかの面倒をみられるのは私だけだ。仕方なく、いけないと断った。
さやかがいることで友達と遊べないことなど今までにもあったが、その日はとても悲しかった。三学期が始まれば、みんな集まったことを楽しそうに話すだろう。でも自分だけその輪からはじき出されるのだ。それはとても辛いことに思えた。
さやかなんか、いなければいい! 私はひとり居間でテレビを見ながら、呟いていた。
それから夕方になり、シチュウの用意をしようとジャガイモを向いていた時だ。さやかのベルが二度なった。私は溜息を吐いて包丁を置くと、さやかの部屋へ向かった。
「さやか、どうしたん? おなかすいたん?」
ドアを開けるなり言うと、妹は布団の中から顔を覗かせ、枕の上で小さく頭を振った。
「のど乾いたん?」と訊くと、また頭を振る。
はっきりしない様子に、私はイライラした。夕飯の仕度も私が一人でしなければならないのにと思うと、ついきつい口調になった。
「ちゃんと言いなさい。しゃべれるんやろ?」
「お母さん、呼んで」すぐに返ってきたさやかのか細い声が、私の神経を逆なでした。母が寝込んでいるのを知っているのに、妹は甘えたいのだ。私は腹立たしさに声を荒げていた。
「お母さんは風邪で寝てるんや。つまらんことで呼んだらあかんてわからへんの? わがままばっかり言うの止めとき!」
「おねえちゃん……、しんどい」
私はベッドに近寄りさやかの顔を見たが、ぜいぜい息をしているわけでもなく、苦しさに汗をかいてもいなかった。それに病院から帰ってきたばかりで、急に悪くなるとは思えなかったのだ。
「さやかよりお母さんの方が具合悪いんや。ちょっとくらい辛抱できへんの! みんなあんたのせいで我慢してるやない。じっと寝とったら治るから、あんたも辛抱し!」
私の言葉におどおどしながら、さやかは不安そうな目を向けた。
「お母さん、病気ひどいの?」
「そうや。だから、心配かけたらあかん! もうつまらんことでベルを鳴らしんときよ。いいね!」
さやかが小さく頷くのを見て、私は部屋のドアを閉めた。
そしてそのまま夕飯の仕度に戻ったが、それからベルは鳴らなかった。
母は起きてきて夕食を少しだけ食べ、さやかの様子を訊ねたが、私は、
「心配ないよ。ベルもならんから寝てるみたい」と答えた。母は心配そうな顔をしたが、またさやかに風邪をうつすことを懸念して部屋へ行かなかった。
父は、その日は急な残業で帰ってきたのは十時を回っていた。父が妹の様子を訊ねた時も、「ベルはならへんから、寝てるんやと思うけど」と、私は変わらぬ調子で言った。
「そうか。目が覚めたらベルを押すやろう。おまえももう寝なさい。お父さんが起きてるから」父は自分の肩を揉みながら、疲れた様子で言った。
外は雪が積もっていた。家の中もとても冷えていて、私は階段を駆け上がった。さやかに言った言葉を思い返し妹の部屋のドアを見たが、そのまま自分のベッドに潜り込んだ。さやかのことだから、家族を呼びたいときは必ずベルを鳴らすはずだ。一日に何度も平気で呼びつけるのだから。きっと、本当に眠っているのだ。そう思い、寝返りを打ちながら私は目を閉じた。
そして深夜、父が妹の部屋へ様子を見に行ったとき、さやかの心臓はすでに鼓動を止めていた。父が叫ぶ声で起こされた私は、妹の部屋へ入れずに寒い廊下で震えていた。父と母が泣き叫ぶ悲痛な声は、ナイフのように私を切り刻んだ。
恐ろしかった……妹を死に追いやったのは、私だ。さやかは一度もベルを鳴らさなかったのだ。小さな手の中に、ベルのスイッチを握りしめていたというのに……。
母はすすり泣く私の肩を抱いたまま、しばらく何も言わなかった。ただ私の言葉を反芻するように、視線は宙を彷徨っている。
「さやかがベルを押さなかったのは、私が辛抱しろといったからよ……。スイッチを握っていたのに……私のせいでさやかは!」
「ああ、笙子……。なんてこと……」
かすれたつぶやきが母の口からこぼれる。肩に置かれた手が食い込むように強くなった。私の醜い姿を知り、母は引き裂いてしまいたいほど憎むだろう。さやかの冷たい亡骸に取りすがり、気も狂わんばかりに泣いていた母。両親はさやかの容体に気付かなかったことで自分を責め、苦しみ悲しんだのだ。私のために!
母は私の肩から手を下ろすと、行き場のない手で乱れた髪を撫でつけた。なぜさやかにそんな仕打ちをしたのか、問い詰めたいのをなだめているように見えた。私は項垂れて、母に向き合った。
「許されない……、本当に。あの時お母さんを呼んでいたら、さやかは死ななかったのに! きっと私を憎みながら死んでいったのよ」
「笙子!」母が突然私の両腕を掴んでゆすぶった。
「あほなこと言うたらあかん。さやかがあんたを憎んでいるわけがない。死んだのはあの子の運命や。病院へ行っていても助かったかどうかわからへん。笙子のせいやなんて、そんなことあらへん」
「でも……」
母は気持ちを沈めるように大きく息を吸った。そして膝で握りしめた私の両手を掴んだ。
「さやかが生まれた時に、長くは生きられないと先生に言われていた。大きくなっても、あの状態では人工弁を取り付けるのも難しいと分かっていたんや。だから、さやかのことを一番に考えようとお父さんと誓い合ったんよ。笙子が淋しい思いをしているのは分かっていたのや。だけど短い命でも、さやかが生まれてきたことを後悔しないようにしてやりたかった」
「お母さん……」母の腕に縋り、私はまるで子供の頃のように素直に声を浴びた。優しくて暖かい、幼い私とさやかが愛してやまなかった母。
「笙子はおねえちゃんとして、本当にさやかを大事にしてくれた。我慢することばっかりで辛かったと思うけど、いつもあの子と一緒にいてくれた。さやかはね、毎日学校からおねえちゃんが帰るのをひたすら待ってたんよ。おまえといるときだけよ。無邪気な笑顔になったのは……。病気と闘った七年間の人生で、おねえちゃんがいたことは、あの子にとって救いやったに違いない」
「でも……」
母はゆっくりと頭を振ると、私の背に手を当てた。
「さやかの死は誰のせいでもない。あの子の運命や。さやかかってわかっていると思う。だから、きっと亮ちゃんを守ってくれる。亮ちゃんはおねえちゃんの命やとわかっているはずやもの」
「さやか……」
込み上がる嗚咽に耐えられず、私は母の胸で二十年前の罪を吐き出すように泣いた。さやかに許しを乞いながら。
白々と夜が明けてきた。
村の人たちに加え、駐在所の巡査さんや町内の消防団の人たちも駆けつけてくれた。顔に緊張の色を浮かべた五十人ほどが、父を筆頭に山へ入ってゆく。見送りながら、ただ無事に見つかることを祈った。
母は家に入ると、仏壇に燈明をともし手を合わせた。
「お祖父ちゃんお祖母ちゃん、さやか……。どうか亮ちゃんを助けてやってください」
私も横に正座して、一心に祈り手を合わせた。そして仏壇の上のさやかの写真を見上げた。明るい笑顔が私を見つめる。
「楽しそうな顔してるやろう」と、母が言った。私が頷くと、
「この写真はおまえが六年生のお盆に撮ったもんよ。覚えてる? 笙子」
と、合わせていた手を膝に置いて、母はしみじみと眺める。
「新調したゆかた……。でも盆踊りには行けなくて、庭で花火をしたんやったね」
「そうや。おまえは行きたかったのに、さやかにつき合ってくれた。この写真、修整して消してもらったけど、笙子の肩が写ってたんやで。さやかはあんたにおぶって貰っているんや」
「え? 私がおぶっているの?」
驚いて、食い入るように写真を見た。額縁にいっぱいのさやかの笑顔は少し顔が傾いている。
「笙子の背中にいる時、さやかはいつもこんな顔をして笑ってたんよ。うれしくって仕方なかったんやね」
写真が霞む。頬に零れた涙を拭うことも出来ず、さやかの遺影を見つめた。
「さやかは人を恨むような子やないよ。そんな感情を育てる間もなく死んでいったんや。笙子は優しいおねえちゃんやと、今でも大好きなはずやで。おまえかって、何があったって、さやかを憎めへんやろ?」
母の言葉に、私は大きく頷いた。
「さやかのことを忘れんと、お盆前に必ず帰って来てくれる。さやかは楽しみにしてるはずや。あの子に詫びるのはそれで十分やと思うよ」
涙が溢れてきた。私は突っ伏し、畳に額をこすりつけて呻いた。
「さやか……本当にごめんなさい……。ずっと謝りたかった。ずっと、ずっと後悔していた!」
母は震える私の背を、ゆっくりと撫でてくれた。
その後も、見つかったという知らせは届かなかった。
裏山に面した窓辺に座り、唇を噛み締めて山々を眺める。夜明けから二時間たって朝靄は消え、澄み切った清々しい空が広がっていた。
山深い里で育った私は、山の怖さを知っている。里の近くであっても、道を外れ、迷い込むと大人でもおいそれとは出られない。八が峰から続く京都北部の山は自然のままに、人を拒むほど険しく深い。迷った亮介を見つけ出すのは困難なことだ。
夫から始発の新幹線に乗ったと携帯が掛かった。まだ見つかっていないと言うと落胆の溜息を吐いたが、元気を出せと励ましてくれた。「早く来て」と心から伝えた。夫の胸で泣き叫びたかった。
もし、亮介がいなくなったら、私はどうして生きていけばいい? ふいに焦燥感に襲われ、母の横顔を見つめる。妹が死んだときの、あの悲しみ。私は母のように耐えられない。爪が食い込むほど手を握りしめ、正座した自分の膝を見つめ続けた。
母の言葉の通り、さやかが許してくれていたら……。閉じた瞼の裏に浮かぶさやかは笑顔だった。
「さやか……亮介を守ってやって」
組んだ手に唇をつけながら、私は祈り続けた。
それから一時間程経った時だった。玄関の引き戸が開く音がして、母と私が同時に腰を浮かすと、大きな声が聞こえた。
「見つかったぞ! 子供は無事や!」
ああ、神様! 母と二人で跳ねるように玄関へ向かうと、消防団の上着を着た青年が息を切らして立っていた。
「ほんまに無事なん? けがは?」母が声を震わせて訊ねると、青年は満面の笑みを浮かべて答えた。
「迷って随分奥へ入っとった。崖から谷へ滑り落ちて、腕を怪我してるけど、元気や!」
体から力が抜けてしまい玄関にへたり込んだ。母は何度も青年に頭を下げて泣きだした。
「もうすぐ山から下りてくる。救急車は呼んだから、心配せんでええで」
青年の弾んだ声に、母と顔を見合わせ抱き合った。
青年に付き添われ、裏山の登り口へ向かった。無事だという喜びに、足の痛みも気にならなかった。細い道を一列に並んで降りてくる人たちに、私は思わず手を振る。
「ママ!」
消防団の男性に背負われた亮介が叫んだ。
「亮介!」震える足を踏みしめ、息子の元へ走った。
「よかった! 本当によかった!」後は言葉にならず、亮介を受け取ると膝をついて抱きしめた。亮介は「いたた」と怪我した腕を守りながら顔をしかめたたが、片手で首に抱きついて来た。至る所に擦り傷を負い、汚れた顔に涙のあとがくっきりとついている。左腕は首から白い三角巾で吊るしてもらい、Tシャツは破れ、頭には枯葉をつけていた。それでもしっかりと自分の足で立っている。安堵した父と、村の人や消防団の笑顔に囲まれて、ぐっと泣きたいのを我慢しているようだ。
傍に立っていた駐在所の巡査が亮介の頭をポンと叩き、
「よう頑張ったなあ、さすが、男の子や」と笑顔を向けると、亮介は私から腕を放し、口元をぐっと引き締めてこくりと頷いた。逞しい巡査の言葉に、精一杯男らしさをアピールしているつもりらしい。その様子に、誰もが笑いを漏らした。父も母も目を潤ませている。
「本当にありがとうございました」両親と並んでお礼を言いながら、亮介を再び強く抱きしめた。
「ママ、ごめんなさい」と、亮介は目をしばたきながら、私の耳に蚊の鳴くような小さな声で謝った。への字になって今にも泣き出しそうな息子の口元を肩に押し付けると、愛おしさがこみ上げてきた。すべての人に、すべてのものに、ただ感謝したかった。
穏やかな山間には不似合いな救急車のサイレンが、遠くに聞こえてきた。
「で、クワガタは見つかったのか?」
亮介は病室のベッドの上で、父親のぎゅっと睨んだ目に肩をすぼめた。
「いたけど、木が高いんだもん」
手柄を立てられなかったことをすねるように、口をとがらせる。
息子の無事な姿を見て、夫は叱りたいのを我慢しながらも安堵した顔を綻ばせている。道中生きた心地がしなかっただろう。疲れて赤い目は痛々しいほどだ。いつもきっちり整っている髪が、搔きあげられて乱れている。
亮介はたっくんがクワガタを見つけるのをみて、自分もと思い山の奥へ入ってしまったのだ。帰り道がわからなくなり彷徨っているうちに足を滑らせ崖から転落した。下が腐葉土だったために、運よく打撲と腕に裂傷を負っただけで済んだが、落ちた時に気を失ったようだ。そのまま深夜まで気がつかず、探しに来た人の声に応えられなかったらしい。朝になって、やっと声が出せて救助の人に気付いて貰えたのだ。一歩間違えれば命を失う状況だったと思うと、背筋が凍る。
「亮介、山での冒険談は、あとでたっぷり聞かせてもらうぞ」
腕組みして言った夫に、亮介は項垂れて小さく「うん」と答えた。でも少しだけ得意な顔になって、上目づかいに夫を見ている。
「さあ、すこし眠りなさい。山は怖くて眠れなかったでしょ?」
シーツを引き上げてやると、こくんと頷いて無事な右手を中へ入れ込んだが、「あ、ママ」と、思い出したように目をまるくして私を見た。
「なあに?」
「ぼく、さあちゃんとあったよ」
「さあちゃん?」
「真っ暗で怖いし、手は痛いしさ。……それで泣いていたら、さあちゃんが来てくれて、ずっと手を握ってくれてたんだ。だから真っ暗でも怖くなかったよ」
私は亮介の言葉の意味が分からず、すぐに返事が出来なかった。
「ほら、さあちゃんだよ! 仏壇の上の写真の女の子。ずっと一緒にいたんだ」
そういうと、亮介はにっこり笑った。夫と顔を見合わせたが、彼はまさかという表情で首を振った。そして亮介の頭を撫でて、笑顔を向けた。
「わかった、わかった。亮介、ほら、もう眠りなさい」
夫の言葉に、亮介はやっと目を閉じた。
私はベッドの脇で言葉を失くして立っていた。夫は私の肩に腕を回すと、寝息を立てはじめた亮介を見つめながら、「守ってくれたんだな」とかすれた声で言った。涙が溢れてきて、息子の顔が霞む。夫の胸に頬をつけると、私は声を殺して泣いた。
亮介を夫に任せ、病院の屋上へ上がった。
夏の終わりを告げる涼しい風が、頬を撫でてゆく。三階建ての屋上からは、田畑に囲まれた家々と緑の山、遠くを流れる川まで見渡せた。
屋上の手すりにアキアカネがとまっている。透明の羽をぴんと張って、トンボの尻尾は絵具で染めたように赤い。黄金色になった田んぼの上を、無数のアキアカネが飛び交う様子が目に浮かぶ。
――あれ、なあに?
ふいに耳元でさやかの声が聞こえた。私は驚いて、自分の肩越しに振り向いた。そして風の香りを嗅ぐように息を吸い込むと、笑顔を向けて答えた。
「アキアカネだよ。もう、夏が終わるね」囁くように言うと、ふうんと甘えた返事が返ってきた。
肩に手を置いた。その手に、小さな指が触れている気がする。
「さやか、ありがとう」と再び振り返り言った。その時、また声が聞こえた。
――おねえちゃん、大好き!
さやかがいつも言ってくれた言葉……。私は二十年目に、またその言葉を聞けたのだ。ゆっくり顔を上げると、涙で空が霞んで見えた。
「綺麗なお空だね、さやか。真っ青だよ……」
私は子供の頃のように、妹に語りかけた。背中に腕を回して。
了
お読みいただき有難うございます。
地方の文学賞で最終に残った作です。
いろいろと問題点を含んでいる落選作ですが、これ以上書き直す気にならず、投稿させて頂きました。
感想やご意見を頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。