第十三話 「天使」、夜行
「――ただいま!」
玄関のドアの音にサールエは気付いた。彼女が帰ってきたのだ。サールエは封書を懐に隠して、洋書を読むふりをした。
「どうしたんだタツミ。そんなに慌ててさ。」
サールエは巽が息せき切らしてリビングに飛び込んできたのを横目で見やった。あくまで彼女は冷静だ。
「……ッ、サールエ、訊きたいことがあるんだけど……っ!」
「ティアマーレ、か……。」
巽の言い出したことにサールエは聞き覚えがあった。
「タツミ、それは日本語で言うと、守護紋章って意味だ。」
「……紋章。たしかあの時君が言ってたよね。」
あの日のことを思い出すと、今でも鳥肌が立つ。
「紋章っていうのは、まあ……魔法みたいなものかな。攻撃に使ったり、悪魔捜しに使ったり、防御に使ったりするんだ。」
サールエは続けた。
「守護紋章は主に天使が使う紋章だ。あの悪魔が言っていた“憶えてないか”っていうのは、あながち出任せでもないみたいだね。」
「そっか……。」
巽は内心、過去の影が押し寄せてくるのを感じた。もう少しで思い出せるような、でも思い出したくないような記憶……。
だが彼女はそれを黙っていることにした。余計な心配はかけたくないと。
巽が自室に戻った後、サールエは一人考える。聡明な彼女は推理を組み立てる。
タツミは守護紋章に聞き覚えがあった。ということは、以前も彼女の許に天使が来たということだ。そのときにあの悪魔とも会っている筈だ。執念深そうにタツミを狙っていたことから、一度はその天使に敗れたのだろう。だがあの悪魔は諦めず、執拗にタツミを追う……。このタイミングで私も派遣される。
やはりこの卒業試験、一筋縄ではいかないような難題らしい。
「姉貴に負けたくない……。」
でもこれをクリアしなければ、私は永遠に姉には届かない。負けない、絶対に。悪魔にも、姉貴にも。
巽が自室に戻った後、彼女は一人考える。
悪魔は自分を狙っている。それにあの悪魔は以前にも自分を狙っていたようなことを言っていた。ということは、今回サールエが僕を救いに来たと言ったように、そのときも別の天使が来たのだろう。その時のことは――やはり思い出せない。
でも確かなのは、あの悪魔はきっとまた自分のところへやってくるだろう。そのときサールエは……彼女はあの悪魔と闘うのか。闘う――あの時も……?
「あの時、っていつだっけ。」
そこまで考えて、巽は頭痛を覚えた。まるで脳が、自分が思い出そうとしてることを拒否しているようだった。
「……宿題しよ。」
今宵も天使は夜更けを往く。
サールエは頭のリボンの端をするりと引っ張った。白いリボンが、開け放した窓から吹き抜ける風に揺れた。
波打つ金髪をくくり、右腕の腕輪を外すと、ざあと音を立てて羽根が一枚一枚抜け落ちていく。その羽根は灰のように見えなくなるまで粉々になり、やがて床に落ちる前に消えていった。翼を無くした天使は、夜に紛れるための黒い外套を羽織り、窓から飛び降りた。
その後水を飲むために起きてきた巽が、閉めたはずの窓が開いていることに気付くのを、彼女は知らない。