第十一話 「人間」、料理
巽はなにやらキッチンにある調理器具をがしゃがしゃ取り出した。お玉、泡立て器、しぼり袋と口金、ホットプレートなどなど……。
「ってタツミ。一体何作ってくれんの?」
サールエは彼女の後姿をしげしげと眺めながら、首を傾げた。
「んー……。クレープだよ。」
巽は振り返ってそう言った。その瞬間――
サールエは固まっていた。
「……ちょ、ちょっと? 大丈夫かい?」
巽は慌ててサールエの目の前で手をひらひら振った。5秒間停止していたサールエは、はっとしたように巽を見上げた。
「クレープ……か。よく姉貴に食わされたよ……。」
サールエは唐突に、辛酸を舐め続けた薄幸の美少女よろしく語りだした。
僕、何かまずいこと言ったかな……?
得体の知れぬ何かのスイッチを押してしまったことを巽はかなり後悔した。
「アレは姉貴がまだ士官学校を卒業したばかりの頃だった……。」
サールエは青ざめた顔で言葉をしぼり出す。
「ねえサールエ。“クレープ”って知ってる?」
「クレープ? 何それ。」
楽しそうな顔をした姉のリエルナが、サールエの顔を覗き込んで言った。後ろ手に何かを隠し持っているのは、まだ士官学校に入学していないサールエにすらわかっている。
「じゃっじゃーん! お姉ちゃんサールエに食べて欲しくて、作っちゃった。」
リエルナはよくぞ訊いてくれたといわんばかりに、隠し持っていたクレープをすばやくサールエに差し出した。
そこには――
「クレープの中身、なんだったと思う? ふふ。アタシは今でも忘れない、あの味を――」
サールエの眼差しは、だんだんと虚ろなものになっていった。
「……なに、これ。」
サールエはクレープを見たことも聞いた事もなかったが、それはあまりにも、あんまりだった。
「クレープはね、薄焼きにした生地に好きなものを巻いて食べるのよ!」
リエルナの眼はきらきらと輝いていた。サールエの眼は濁っている。
「……おねーちゃんの好きなものって?」
姉はにこにこ顔で指を折りながらクレープの中身を数えた。
「いちご、マシュマロ、はんぺん、いそべ揚げ……おまけに刺身……。」
サールエの声が垂直落下並みのスピードで低くなっていく。冷や汗が巽の輪郭をなぞるように流れた。
最初の二つはまだいい。だが、なぜそのチョイス?
巽は絶句した。
「ふふふふ……。あの頃のアタシは姉貴を信じてたんだよ、おいしいって、その言葉をね……。」
あまりにもサールエが天使らしからぬ様子でいるので、巽は手に持っていた生地を混ぜ合わせていたボールをうっかり落としそうになってしまった。あぶないあぶない……。
十数分間、沈黙が続いた。この家中で音を発しているものといえば、時計の針とホットプレートでクレープ生地がプツプツいっているくらいだ。
「……まっ、まあさ。騙されたと思って食べてみてよ。」
いたたまれなくなった巽であるが、作ってしまったものは仕方ない。サールエのトラウマをほじくり出そうが、彼女の誤解を解くことから始めようと思ったのだ。
しかしサールエは動かない。
「……えっと……。あ。じゃあ、僕が先に食べるから、君はその後で食べてみてよ。」
自ら作ったものを毒見するほどむなしいこともない。1歳馬に初めて鞍を載せるように、怖くないよアピールをしながら巽はクレープを一口かじった。
我ながら上手くいったと思う。
クレープなんてまず作ることはないが、妙に綺麗にクレープ生地が焼けたり、ほどよくホイップクリームを搾り出せたりと、何かと今日は成功が多い。これは神様の思し召しか何かなのかな、と巽は考えた。
無論、気のせいであるが。
サールエをちらりと見ると、彼女は食い入るように自分の手元を見ている。本当に怖かったんだなあ、と改めて驚いた。天使様に怖いものがあるのかと。
じいっとクレープを見ていたサールエが、おもむろにそれを手に取った。そして無言のまま、豪快にかぶりつく。
「…………んまい。」
口元にクリームを引っ付けて、サールエは微笑んだ。
「成功した。」
巽は小さく、呟いた。
ボール一杯のクレープ生地は、その日のうちに空になった。
「僕、なんか気持ち悪いから、晩御飯はいらないよ……。」
「ええ!? 珍しいわね、ご飯いらないなんて……。お父さん、明日は台風よ!」
食べすぎで寝込む巽を見た母は、腰を抜かしたという。