第九話 「天使」、睨合
「ただいまーっと……ん?」
勢いよく部屋のドアを開けた巽は、いつもと違うモノを発見した。
「おかえり、タツミ。悪いけど今取り込み中なんだよね。」
「――へ? ……どういう……っ!?」
巽がゆっくりと、サールエから視線をずらしていく。そこにいたのは……――
「ふふ……。久しぶりね、タツミちゃん。」
金の瞳と漆黒の翼。滲み出るのは悪しき心。
「――あくま……?」
一歩後退りする。迫り来る狂気と邪心。
「あら、私のこと憶えてない? そう。貴女あの時まだ小さかったものねえ。」
悪魔の睥睨に打ち勝つことなど不可能だ。人間ならなおさらのこと……。
サールエが、悪魔の威圧を遮った。
「……憶えてない? お前、昔タツミに逢ったことあるのか?」
サールエは、悪魔から視線を外さない。
バチィ!
目の前のクッションを、黒い稲妻が焦がした。
「『お前』だなんて失礼な言い草ね。今時の学生さんは、言葉遣いも弁えてないのかしら?」
悪魔は微笑で、サールエを威嚇した。彼女の指先には、煙が立ち昇っている。
「……私はサールエ。あなたは?」
「ザンヴィアよ、士官候補のお嬢さん。確か、エリート部隊の“月”への入隊が決まってるのよねえ?」
「何故それを!?」
サールエは焦ったように声を荒げる。初めて「本物の悪魔」と遭遇し、尚且つ全てを見透かされていることに動揺している。見下すような視線は姉の眼差しを思い出させ、見透かすような視線は校長の言葉を思い出させる……。
どんなに優秀でも、彼女はまだ学生だ。
「『消灯』よ。ご存じない? 士官学校の主席さん。」
悪魔は、何でもお見通しと言うふうにサールエを見下ろす格好で浮遊している。悪魔は天使と違い、自らの翼で飛行ができる。
「……ヴァイ……逆探知の紋章!」
サールエは、顔にしまったと書いた。自らの場所を悪魔に知らしめてしまったのだ。
「ふふふ……。まだまだお子様ね。でも安心して、今日は挨拶に来ただけよ……。」
巽はその場にへたり込んでしまっていた。神聖と魔性の睨み合いの場で、ただただ固まることしかできなかった。あの日のように……――
(あの日って、いつだっけ?)
心臓が、鳴り止まない……。
「忠告しておくわ。貴女のような小娘は私に勝てない。巽は諦めて、貴女もここから出て行きなさい。」
先ほどの、愉悦を含んだ物言いとは打って変わり、ザンヴィアは冷たく言い放つ。
「……どうしてタツミを狙う?」
サールエもまた、明らかに敵意の篭った視線を突き刺す。もっとも、ザンヴィアは何も気にしていないが。
「さあね。その小娘にでも訊いてみれば? それじゃあ失礼するわ。」
ザンヴィアは、窓の縁に足を掛ける。
「あっ……待て!」
サールエは悪魔を追う。しかし、すぐに足が出なかった。
(恐れてる? このアタシが……!?)
サールエが窓から身を乗り出す頃には、とうに彼女は窓から飛び立ち、消えていた。羽音がどこかでこだました……。
「……サールエ、今のが悪魔?」
巽の声は震えている。悪魔が去った今、ようやく声を出すことができた。
彼女は非力な「人間の女の子」だ。
「ザンヴィアか……かなりの手練みたい。」
サールエは窓の外を見つめたまま、こちらを向かない。
「……タツミ、今の女に見覚えは?」
「わからない……。憶えてないだけ、かも。」
巽は蹲った。鼓動はまだ大きく早く、胸の苦しみや痛みを閉じ込め続けている。
「――そうか。」
サールエも巽も、それ以上何も言わなかった。