プロローグ 「天使」、発進
「試験、頑張るのよ。あなたは私の妹だもの、きっと合格できるわ。」
――姉貴は、いつも私を見下してるみたいだ。
「サールエ君、君はわしが見てきた中でもとりわけ優秀な生徒だ。卒業試験では必ず良い成績を残してくれるだろう。」
――校長は、私が姉貴に勝てないことを見抜いている。
「もちろん、この私が最後までトップをキープしてみせます!」
――いくら成績が良くても、それじゃ意味ないのに。
でも、絶対トップでこの試験、合格してみせる。
ぺたぺたと裸足で石畳の上を歩く音が響いた。洞窟内は灯された幾つもの蝋燭で明るく照らし出されている。
サールエと呼ばれた少女の背には、一対の純白の翼。纏っている薄地の布はまっさらで、一点の穢れもない、純粋無垢を描き出している。
切り揃えられた美しい金の前髪を指で払うと、海のように透き通った深いブルーの瞳が浮かび出た。白い肌はきめ細やかに、すらりと伸びた細い手足は白魚のように。桜の花びらのような唇は引き締められて、真一文字を結んでいる。
――サールエは天使だった。
不意に、彼女は歩みを止める。洞窟の細い通路を進むと、開けた空間に出る。そこには美しい泉が湧いていて、エメラルドに輝く清水はとうとうと白い泡を立てながら、煉瓦で囲まれた小さな丸い池に溜まっていく。その池は洞窟のさらに進んだ先に流れ出しており、蝋燭の淡い温かな炎とは違う、清らかな緑に光り輝く水の路を作っていた。真っ直ぐ伸びた水路の両脇には蝋燭が等間隔で置かれており、なんとも幻想的な空間を創り出している。しかし蝋燭と泉の湧水で照らし出された道の遠く先にも、出口の光は見えなかった。
この世の物とは思えぬ、天界とは何処も美しい場所であった。
さわさわと湧き出ずる美しい泉のほとりにサールエは近づいた。水を確かめるように一掬い。
「視界良好、天気は快晴、風に気流異常なし……っと。」
何かを読み取ったかのように、サールエは呟いた。
「そいじゃま、いきますか。」
彼女はにいっと笑い、指をぱちんと鳴らした。
そこに現れたのは赤い板のようなもの。よく見るとそれは、炎をあしらったデザインのスケートボードだった。サールエは召喚したボードを池に浮かべた。波立っている水面に揺られて、スケートボードは小さく浮き沈みする。
おもむろに、サールエは水に浮かぶスケートボードに片足を乗せた。驚いたことに、軽いボードは沈まない。
「――よっと!」
サールエはもう片足もボードに乗せた。まるで彼女には体重がないように、ボードは浮力だけで池に浮いている。そのまま、サールエは右足で水面を軽く蹴って漕ぎ出した。ボードは小さく飛沫を上げてゆっくりと進みだす。ちゃぷちゃぷと池を滑る姿は、天使が水面に立って水遊びをしているようだった。――炎のようなスケートボードさえなければ。
「さて、そろそろ行こうかな。」
彼女が水路の手前まで来ると、合図のように風が吹いた。小さな蝋燭は炎を揺らし、サールエの長い横髪が頬を撫でた。
水路は穏やかに波打つ池とは違い、激しい流れを作っていた。洞窟の奥からはごうごうと水の流れる恐ろしげな音が響いてくる。
――水路は、天使が飛び立つための「滑走路」だった。
サールエは背中の双翼を、まるで飛行機の主翼のように広げた。その姿は、さながら離陸寸前の白いボーイング。編みこんだ長い髪をまとめるリボンが揺れる。
そして、彼女は再び勢いよく水面を蹴った。ボードもまた、勢いよく飛び出す。ざぶんと音を立てて、天使は流れに乗った。羽を一掻きするとさらにスピードは増して、あっというまに大きく水しぶきを上げて滑走する。両脇の蝋燭の炎は一筋の誘導灯となり、向かい風はきつくなっていく。それでもサールエは一切バランスを崩さず、サーフィンをするようにボードの上で膝を曲げ続けている。
――10秒ほど経っただろうか。泉は遥か後ろに消え去り、今度は出口の光が見えてきた。眩い外の光はどんどん強くなっていく。そして、サールエはさらに身を低く屈めた。
ザアアアア――――
泉の水は、途切れた洞窟の先から勢いそのままに溢れ出す。崖から飛び出したサールエは、スキージャンプのようにタイミングよく膝を伸ばした。青空はどこまでも広がり、溢れ出た泉の水は、巨大な雲に受け止められ消えていく。
サールエを乗せたスケートボードは、人間界目掛けて落下していく。風に乗り、気流を外れ、どんどん高度は低くなる。目指す先は――
「原田巽、日本人の女……か。男みたいな名前に外見だよなあ。」
試験内容が発表された日のことを思い出しつつ、サールエは日本へ向かった。
天使は今日、発進した。残り時間は14日……――