第16話 あの頃の私
第16話です。
迷路の奥。
低い振動が、まだ水を震わせている。
グラドも動かない。
私も、動かない。
睨み合いの最中。
なのに、視界が、揺れた。
水の青が、滲む。
違う。
これは、海じゃない。
――薄暗い部屋。
机の端。
押しつぶされる声。
「無理だよ、お前には」
誰かが笑う。
私は、笑えなかった。
喉が詰まって、言葉が出なかった。
やりたいことがあった。
理想があった。
でも、現実は。
力がなかった。
才能も、声の大きさも、押し切るだけの何かも。
「お前は弱い」
その一言が、何度も、何度も胸に刺さる。
視界が戻る。
海だ。
サンゴの白。
岩の影。
グラドの巨体。
胸が、ざわつく。
あの頃の私なら。
今、この状況。
巨大な敵を前に。
逃げていた。
自分より強い存在に、真正面から挑むなんて、考えなかった。
負ける前提で、身を縮めていた。
波に逆らわず、流されるだけ。
小さく、目立たず。
傷つかないように。
それが、生き方だった。
尾ひれが、ゆっくりと揺れる。
今の私は、小さい。
海の中では、まだ取るに足らない存在かもしれない。
だが。
逃げていない。
グラドが、一歩、前へ出る。
水が押し寄せる。
本能が、危険を告げる。
怖い。
正直に言えば、怖い。
圧倒的な質量。
一瞬で噛み砕かれる可能性。
それでも。
あの頃の私と、決定的に違うことがある。
私は、選んできた。
逃げずに。
飲み込まれそうになっても、
潰されそうになっても、
進化を、選んだ。
耐久を、速さを、力を。
誰かに与えられるのを待たなかった。
自分で、掴んだ。
「無理だよ」
あの声が、もう一度、脳裏に響く。
違う。
無理かどうかは、やってから決める。
あの時、何も言えなかった私。
拳を握ることもできなかった私。
今は。
尾ひれを打てる。
水を裂ける。
噛みつける。
グラドが突進する。
今度は、真正面から。
逃げない。
正面衝突。
衝撃。
視界が白く弾ける。
骨が軋む。
だが、折れない。
押される。
それでも、踏みとどまる。
尾ひれを、さらに強く打つ。
水流が巻き上がる。
押し返す。
わずかに。
だが、確実に。
グラドの動きが止まる。
互角。
いや、ほんの少しだけ、私が上回る。
荒い呼吸。
心臓が、激しく打つ。
怖さは消えない。
だが。
逃げたいとは、思わない。
あの頃の私なら、
「やっぱり無理だ」と目を逸らしていた。
今は、違う。
無理かどうかを、確かめる側だ。
グラドの瞳が、揺れる。
私を、認識する目。
ただの餌でも、ただの小魚でもない。
戦う相手。
胸の奥が、静かに熱を帯びる。
弱さは、消えていない。
恐怖も、劣等感も、完全には消えない。
だが、それを抱えたまま、前に出られる。
それが、成長だ。
私は、あの頃の私を、切り捨てない。
弱かったからこそ。
強くなりたいと、願えた。
尾ひれを、ゆっくりと構える。
グラドも、構える。
迷路の中。
二つの影が、再び動き出す。
今度は、証明するために。
私は、もう。
「弱いままの私」ではない。
海は、広い。
強者は、いくらでもいる。
だが。
私は、上へ行く。
弱さを知ったまま。
それすら糧にして。
進み続ける。
お読みいただき、ありがとうございました。




