第1話 紅塵の香り
薬は正直だ。人間の言葉よりも、ずっと。
港町の薬草屋で育った私は、幼い頃から匂いで薬草の成分を見分けることができた。父はよく笑いながら、「葵、お前の鼻は商売道具だ」と言ったものだ。
そんな私が、まさか宮中に呼ばれる日が来るとは思わなかった。理由は――新しい香料“紅塵”の試作だ。噂によれば、この香料は貴族たちの間で人気を博しているらしい。
「葵殿、準備はよろしいか」
宮廷の若官、聿が私を迎えに来た。表情は相変わらず無表情だが、目の奥には知性の光が見える。
宮中に足を踏み入れると、香料の匂いが微かに漂った。決して強くはないが、嗅覚が鋭い私には、いくつもの成分が混ざる様子が分かる。
初仕事は試香の確認だった。香料の調合は成功――と、思われたその瞬間、会場にいた貴族の婦人が急に顔を青ざめ、倒れた。外見上の傷はない。
「……これは?」
私の鼻が、微かだが確かな香りを拾った。紅塵の中に混じった、見慣れない香料。普通の人間には気づけない匂いだ。
聿も私の反応を見て、わずかに眉を動かした。
「葵殿、調べてみてもらえるか」
私は頷き、倒れた婦人の衣服と香料瓶を嗅いだ。成分の組み合わせが不自然だ。これは、単なる香料の失敗ではない――誰かの仕業だ。
こうして私の宮中での初仕事は、思わぬ事件解決から始まった。匂いを頼りに小さな謎を一つずつ解く――それが、宮廷薬師としての私の役目になる。
そして、香料“紅塵”を巡る大きな陰謀は、この事件をきっかけに少しずつ姿を現し始めるのだった。