火結びーHimusubi‐
一:プロローグ
―夢火―
そこに山があった。
名前を持たない、記憶を燃やすためだけに存在する山。
幾千年の間、誰もが忘れかけるころに、ふと目を覚まし、世界の底から声を上げる。
それは怒りではない。悲しみでもない。
ただの「残響」――言い残されたもの、見捨てられた感情が地底の石を焼き、火を呼ぶ。
少女はその山を、夢の中で見る。
幼いころから、幾度となく繰り返される夢の風景。
赤く染まった空、うねる火の河。
誰かが山へ歩いてゆく。
ひとり、ふたり――それは人か影か、言葉か記憶か。
夢は決して語らない。ただ、見せるだけ。
“ここに、火がある”と。
ある夜、少女は夢の山のふもとで、声を聞いた。
「わたしを、忘れないで。」
誰の声かは分からない。けれど胸が熱くなる。
まるで心臓が焦げつくような感覚。
目を覚ますと、枕元には小さな黒い石が転がっていた。
火山のものに似ていたが、町の人はそれを見て顔色を変えた。
「それは――眠り火だよ」
この町には古くから伝わる神話がある。
人の心が火を呼び、山を燃やす。
祈りで鎮めることはできても、忘れられた感情はいつか噴き出す。
だから、この町の子どもは夢を語ってはならない。
燃え残りが、町を焼くからだ。
けれど少女は、誰かを忘れることができなかった。
夢の中の声。名を呼ばれるその瞬間。
「この火は、言葉になれなかった想いの墓標なんだよ」と、祖母は言った。
それを聞いた日、少女は小さく頷いた。
そして――その夜から、火山が少しずつ目を覚まし始めた。
ーーー
ニ:転校生、山の町に降り立つ
―寄火―
少年がこの町に来たのは、春の終わりだった。
新しい制服の裾を風が揺らし、足元にはまだ消えぬ雪の粒が残っていた。
汽車を降りたホームから見える山は、どこか脈打つように見えた。
ただの地形ではなく、呼吸している存在のように――
少年はそれを見て、少しだけ胸がざわついた。
祖父「ここの山は、目を覚ますことがあるから」
駅で出迎えた祖父はそう言って笑った。
冗談のような口ぶりだったが、その瞳は山よりも深かった。
少年は頷かなかった。ただ、視線を外さずに山を見つめ続けた。
転校初日、教室には沈黙が流れていた。
誰も言葉を交わさず、ただ窓の外の山の方を見ていた。
「火がね、近いんだ」
そう呟いたのは、前の席に座る少女だった。
声は小さいが、確かに聞こえた。
まるで、町全体が“何か”を待っているような気配に、少年の背筋は静かに冷えていった。
その日、帰り道で山裾に立ち寄った少年は、
落ちていた一枚の紙に目を留めた。
焦げ跡のあるその紙には、こう記されていた。
「夢を語るな。火に覚えられるから」
意味は分からなかった。
でもなぜか、それをポケットにしまった。
その夜――
少年ははじめて「燃える山」の夢を見た。
赤く染まる空。歩く誰か。
そして、燃え残る声。
「きみは、もう、知ってしまった。」
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三:夢の火の記憶
―燃え残り―
あの夜以来、少年は夢の中で“燃える山”を見るようになった。
ただの風景ではなく、感情の残り香に満ちた場所――
誰かが名を呼び、誰かが応えられずに沈んでいく。
夢の温度はいつも、現実よりも鮮やかで、残酷だった。
教室では、あの少女――月森しおりが、ときおり視線を逸らす。
その瞳の奥で、同じ夢を見ているのではと少年は感じた。
ある昼休み、校庭の片隅で、彼は思い切って訊ねた。
少年「……火山の夢って、見たりする?」
彼女はしばらく黙っていたが、小さく頷いた。
しおり「夢の中で、誰かが燃えてるの。名前を呼んでる。でも、言葉が届かないの」
そう言ったしおりの声は、消えかかった火のようだった。
しおり「わたし、昔、忘れちゃいけない人がいたんだと思う。だけど思い出せない。夢でだけ、近くにいるのに…遠いの」
その言葉に、少年の胸の内で何かが擦れ合った。
夢の中で感じたあの焦げつくような痛み。
彼も、誰かを呼んでいたのかもしれない。
でも、誰だったかは分からない。
夢の記憶は、いつも目覚めると霧になる。
その夜、少年の夢は変わった。
火山のふもとに、しおりが立っていた。
彼女は振り向かず、ただ前を見ていた。
そして、炎の中から誰かが現れようとしていた。
その手には――黒い石が握られていた。
翌朝、少年の机の中に、
夢で見たものと同じ形の小石が置かれていた。
何も書かれてはいなかったが、それは確かに“しおりの声”のようだった。
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四:月森しおりの過去
―灰に残るもの―
しおりには、幼い頃に「火の神の子」と呼ばれた少年と出会った記憶があります。
それは村の奥にある古い神社でのこと。
ある祭の日、ひとり火を見つめる少年と、言葉を交わしたのが最初だった。
彼は「火をおさめる役目を持って生まれた」と話し、
しおりに「名をつけてくれ」と頼んだ。
しおりは迷わず「ひかげ(陽影)」と名付けた――
“誰にも気づかれない日なた”の意味を込めて。
彼と過ごした夏の日々は短かった。
祭が終わると、少年は姿を消した。
誰も彼の名前を覚えていなかった。
しおり自身も、いつしかその記憶を夢の奥に沈めてしまった。
ある日、彼女は火山が噴きあがる夢の中で再会する。
しかし夢の中のひかげは、彼女に背を向けていた。
名前を呼ぼうとするたびに、声が灰に吸い込まれていく。
以降、しおりは言葉にならない焦燥を抱えたまま過ごすことになる。
何かを忘れてしまった罪悪感――
でもそれが誰なのか、何なのかはわからない。
彼女は、あの“ひかげ”の名前が燃え尽きてしまったことを、
無意識のうちに悼み続けている。
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五:焔の名代
―神を継ぐもの―
風が変わった。
町の空気に、かすかな硫黄の匂いが混じりはじめた。
誰も気づかないほど微かな――でも、しおりと少年には届く匂いだった。
それは夢の中の、あの“燃える山”の空気に似ていた。
夏祭りが近づくにつれ、町の神社では、奇妙な準備が進んでいた。
封じられていた“火神の社”が、数十年ぶりに開かれるという。
その中心に立つのが、新任の神主、烏丸斎。
彼は、神話の継承者として町に赴任した謎の人物だった。
学校の帰り道、しおりは神社の前を通るたび、胸の奥がざわめいた。
木々の間に見える社の奥――焔に包まれた夢と、あの“ひかげ”の記憶が蘇る。
そしてある日、斎に声をかけられる。
斎「君は、“火を憶えている顔”をしているね」
その言葉に、しおりは立ち止まった。
斎は続ける。
「火はただ燃えるだけじゃない。誰かが見てくれてはじめて、“残る”んだ。夢でも、現でもね」
その晩、少年の夢に変化が訪れる。
火山のふもとに、しおりの姿。
その背後に、白い衣の男――斎が立っていた。
彼は夢の中でも神主の姿だったが、目だけが“人間のものではなかった”。
斎の声が少年の中に響く。
斎「君も、“名代”だ。誰かが忘れてくれなかったから、ここにいる。忘れられなかった者は、火になる。消えていない焔――それがお前だ」
目覚めた少年は、夢の余韻を手のひらに感じた。
手の中には、黒い石とともに、知らぬ名前が浮かんでいた。
「ひかげ」
それは、しおりがかつて名付けた“火の神の子”――つまり、少年自身がかつて火に捧げられ、忘れ去られていた存在だという事実だった。
祭の日。
斎は儀式の場で、しおりに問いかける。
斎「火神を鎮めるには、彼の“名を呼ぶ者”が必要だ。君が彼を名付けたのなら、君にしかできない」
しおりは祭壇に立ち、目を閉じる。
夢の中の少年――火の中に立つ影。
彼の背に向かって、ふたたび名を呼ぶ。
しおり「ひかげ――帰ってきて」
その瞬間、焔の中から少年が現れる。
祭壇にいたはずの少年と、夢の影が重なり、町の空がわずかに揺らいだ。
火は収まった。
風が戻った。
斎は微笑みながら社を閉じた。
その表情は、“役目を終えた者”のそれだった。
祭のあと、少年としおりはふたりで校庭に立つ。
「……夢は、まだ続いてる?」
しおりの問いに、少年は静かに頷いた。
「でも今度は、君がいる」
そして空を見上げる。
その色は、燃え残った焔のような、あたたかな橙だった。
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六:灯を選ぶ手
―忘れる者、憶える者―
火の祭から数日後、町は静けさを取り戻していた。
だがしおりと少年の中では、何かがまだ燃えていた。
夢も、現も、どちらにも属せない“記憶”が、彼らの間に滲んでいた。
学校帰り、ふたりは町外れの古い図書館を訪れる。
そこには「火山神話記録」と書かれた、読まれた形跡のない古文書が眠っていた。
しおりは一冊を開き、震える声で読む。
しおり「火の神は、三度現れる――一度は憶えられ、二度目は忘れられ、三度目には選ばれる」
少年はその言葉に、胸の奥に小さな痛みを感じた。
それは、誰かに“忘れられた痛み”だった。
しおりが語る。
「わたし、小さい頃、母にこう言われたの。“忘れていい記憶と、忘れちゃいけない記憶がある”って。でも……どっちがどっちかなんて、わからないよね」
少年は頷く。
「忘れたい記憶ほど、憶えてる。憶えていたいことほど、夢にしか出てこない」
その夜、少年の夢は異変を見せた。
火山は穏やかで、影の中に誰かが座っていた。
それは――夢にしか出てこないしおりだった。
彼女は何も言わず、両手に二つの灯を持っていた。
ひとつは、赤く燃える“火の灯”。
もうひとつは、白く冷たい“忘却の灯”。
しおり「どちらかを選んで」
そう夢の中で告げるしおり。
しおり「憶えていれば、痛む。でも忘れれば、君じゃなくなる」
少年は赤い灯を選んだ。
すると夢の中で、遠くの火山がまたひとつ爆ぜた。
目覚めると、手のひらに浅く赤い痕が残っていた。
翌日、斎が町を去る前にふたりにこう告げた。
斎「君たちはもう“名を持つ者”だ。忘却に流されず、記憶を選んだ。その灯は、町のどこかに残り続ける。だからいずれ、誰かがまた思い出す」
そして、彼は灰の空の中へと消えていった。
その夕暮れ、ふたりは神社の裏の丘に登る。
空が灰から琥珀色に染まる中、少年は言う。
少年「忘れないってことは、全部背負うことだと思ってた。だけど今は……分け合える気がする」
しおりはそっと頷き、少年の手を握る。
しおり「じゃあ、わたしも、君の灯を少しだけ持つね」
焔のように、静かに灯る記憶。
それは、ふたりの間で共有される“名前のない約束”となっていった。
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七:記憶が風になる日
―言葉なき継承―
夏が終わろうとしていた。
空には、秋の匂いが混じりはじめていたが――
町の片隅では、季節が進む音よりも、微かな“名前の残響”が聴こえていた。
少年はふと気づく。
町の風景が変わっている。
校庭の桜は、季節外れのひとひらを咲かせ、
神社の灯籠には、誰も灯していないはずの赤い火が揺れていた。
忘れようとした記憶が、町の空気に染み出している。
しおりも、夢の中で違和感を覚える。
しおり「わたしの夢なのに、誰かの記憶で埋まっている気がする」
夢には、見知らぬ名前が現れはじめていた。
「鵺」――
「那由他」――
それは斎が語っていた、“消えていった灯火”たちの名だった。
学校では、奇妙な噂が広まっていた。
校舎の壁に、誰も書いていないはずの詩が浮かび上がる。
「名前を呼ばれぬ者は、風になる」
少年は、その文字の端に、自分の幼い筆跡を見つける。
町に伝わる古い風習に「風寄せ(かざよせ)」という儀式があった。
昔、火を鎮めたあとの風を迎えることで、忘却の穏やかさを祈ったという。
斎が去ったあと、その儀式が再び提案される。
誰が言い出したのかは、町の誰も覚えていない――ただ、町が“思い出した”のだった。
儀式の日。
しおりと少年は、灯火を手に、風の社へと向かう。
その道中、町のあちこちで微かな灯が彼らの足元を照らした。
名もなき記憶、誰かがかつて捧げた想い――
町はそれを、風として返そうとしていた。
社で風を迎えるとき、しおりは囁いた。
しおり「この風が、誰かの痛みをやわらげますように」
少年は、その言葉に続ける。
少年「忘れることが許される風でありますように」
風が吹いた。
静かな、名を持たない風。
それは町の灯火を一つひとつ消していった――でも、不思議なことに、
消えたはずの灯は、町の風景にやさしい色を残した。
しおりと少年は丘の上に立ち、名を持たぬ灯を手放した。
しかしその手のひらには、確かに“誰かの記憶の温度”が残っていた。
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八:祓詞
―名のない風が語るとき―
秋の初め、町の境にある“野火ヶ原”に異変が起きた。
誰も火を灯していないのに、枯れ草の中で静かに炎が舞っていた。
それは燃えているようで、燃えていなかった。
しおりはそれを“夢の焔”と呼んだ。
少年としおりは、その現象を記録するために、毎晩その場所へ通った。
ある夜、風が言葉を持つ。
「祓われていない名が、ここに残っている」
それは、誰の声でもない、“風の記憶”だった。
記録を手伝ってくれた古文書の保管者・椎野は語る。
椎野「この町には、祓われなかった感情がある。言葉にならなかった別れや、夢にしか残らなかった後悔。君たちが風を起こしたから、今それらが流れ始めている」
少年は問う。
「祓うって、忘れることなんですか?」
椎野は首を振る。
「いいえ、忘れずに、別の形で語り継ぐこと。それが本当の祓詞です」
しおりは決意する。
この“語り継がれなかった風”に、灯を点けていこうと。
町のあちこちから、消えたはずの名前を拾い集め、
祭の夜に“祓いの声”として捧げようとする。
祭の日、町の風は凪いでいた。
しおりと少年は、風鈴のない“風音祭”の祭壇に立つ。
彼らが語るのは、名前のない人々の記憶。
夢の中で呼ばれた名。
灯火に残された声。
そのひとつひとつが、祭壇を揺らし、風を生んだ。
その風は、誰のものであるとも言えなかったが――
確かに、町の空気を柔らかくした。
灯火を憶えていた風が、名もなきままに“語った”のだ。
祭の終わり、町の人々は口々に言った。
「なぜか懐かしい気持ちがする」
「夢で見た風景に似ていた」
誰もがそれを“知らない記憶”として語ったが、
しおりと少年だけが、それが“自分たちの灯火”だったことを知っていた。
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九:火を抱く風の子
―忘却と憶記の境界にて―
十年後――。
町は変わっていた。
風鈴の音が消えた通り、桜が季節外れに咲く校庭、
そして灯火なき灯籠に、誰も気づかない揺らぎがあること。
青年となった少年は、町を離れ、風の研究者となっていた。
夢の記憶はもう見なくなったが、記憶の“温度”だけは掌に残っていた。
祭の夜に交わした約束。
しおりが灯火を分けてくれたあの瞬間。
彼はある日、町に戻る。
風を採集する調査名目だったが、本当は「風になった記憶」を探す旅だった。
町には風寄せの儀がまだ続いていた。
だが、それを担っていたのは――
小さな少女だった。
しおりに似た瞳。だがもっと透明な風を纏っていた。
名前は「灯」
彼女は町の“名のない記憶”を拾い集める不思議な力を持っていた。
灯は言う。
「ときどきね、知らない夢を見てる。誰かが火を抱いて、誰かが名前を失っていく夢。だけど、わたし、それが誰の夢かわかる気がするの」
青年は静かに頷いた。
「その夢は、きっと君に託されたものなんだ。忘れられなかった風の灯火――しおりから受け継いだ風」
灯は風寄せの儀式を始める。
誰もが忘れた名前を、誰もが呼ばなくなった声を、
風とともに灯す。
儀式の最後、灯は問いかける。
灯「忘れるって、終わりですか?」
青年は答える。
青年「いいや、忘れることで始まる物語もあるよ。
憶えている者がいる限り、灯火はまた揺れる」
祭のあと、灯はひとつの灯籠を青年に手渡す。
その中には、赤い火ではなく、風そのものの音がこもっていた。
「これが、わたしの祓詞です」
青年はそれを受け取り、町を去る。
その後、遠い土地で、風にまつわる民話が生まれた。
“火を抱いた風の子”という物語。
それは、灯という少女が語った名前のない記憶をもとに編まれたものだった。
物語は終わらない。
灯火は、風を通して、語られていく。
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十:エピローグ
―そして誰かが、火を思い出す―
その町の風は、もう誰かの記憶を語らなくなっていた。
灯火は土に溶け、夢は水に流れた。
それでも夕暮れになると、丘の上には微かな焔が浮かぶことがあった。
それはただの幻影かもしれないし、ずっと前に失われた記憶の“音”だったかもしれない。
灯はもう大人になっていた。
だがその瞳の奥には、語られなかった風の名残がまだ残っていた。
彼女は物語を語ることはしなかった。
その代わりに、風を呼ぶ――何も話さずに。
遠く離れた町のとある図書館、ある青年が古い手記に出会う。
そこには作者不詳のまま、こう記されていた。
「風は灯火の言葉を憶えている。名前を失っても、熱は残る。
誰かがふと手をかざしたとき、それがまた、語り直される」
青年は名前を知らない。
語られた記憶も持っていない。
それでも、読み終えたあと、なぜか涙が頬をつたった。
そして思った――
「これは、もしかすると、自分の物語だったのかもしれない」
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