第1話 展覧会
私――安曇琴子が初めてヨウセイを見たのは小学校1年生のときだ。といってもそれは生体ではなく剥製だった。
10年ほど前、国立博物館で「大妖精展」という特別展が開かれた。日本国内では初めてのヨウセイに関する本格的な展覧会だ。始まる前から大きな注目を集め、来場者が多すぎて整理しきれないという盛況ぶり。そのため、前売り券のみの販売による完全予約制という異例の事態となった。特別展には国内、海外のヨウセイに関する多くの資料が集められた。特別展の目玉は一般初公開となるヨウセイの剥製だ。
マナツキヨウセイ
哺乳綱
偽獣亜綱
コビト目
ユウヨクコビト亜目
ヨウセイ上科
ハナヨウセイ科
ヒメハナヨウセイ属
マナツキヨウセイ
マナツキヨウセイは日本固有のヨウセイで、水の澄んだ湿潤な地域で目撃される。夜行性で非常に警戒心が強く、生きたまま捕獲された例は少ないという。今回の剥製は研究者が、運よく死後間もない質のよい死骸を見つけ、作成したものだという。
男子にとっての恐竜が、女子にとっての妖精に相当するといえば分かりやすいだろうか。多くの小学生女子の例に漏れず私も特別展に行きたかったが、券は最終日まで完売していた。しかし父のコネもあって、どうにかして二人分の券を手に入れることができた。指定日は八月上旬の平日。父はその日も仕事があったが、無理やり有休をねじ込んで行く意欲を見せた。
セミが鳴く暑い日差しの中、父と博物館へと向かった。
初めに展示されていたのはヨウセイの歴史。ヨウセイがおとぎ話に登場する伝説の存在から、実在する生物として認められていく過程について。コティングリー妖精事件といった、ヨウセイの存在を捏造した事件も扱っていた。そしてヨウセイの写真や動画、模型などが続く。
剥製が展示されていたのは出口近くで、多くの人が集まっていた。正方形の空間の中心に縦長のガラスケースが置かれていた。その中に三体のヨウセイが飾られている。
体長や約十センチ。真っ白な身体に、贅肉のついていない細い手足、薄い胸板。背中からは蝶のような羽が4枚生えそろっている。頭頂部には銀色の毛髪、顎は細く、目は大きくて真っ白に濁っている。身体には体毛が1本も生えていない。生殖器も乳首も確認できず、それが作り物めいた感じを加速させていた。
19世紀後半、まだヨウセイがおとぎ話の存在だったころ。剥製が科学者たちから模造品と思われ一蹴されたのは有名な話だ。なるほど、こんな物を見たら作り物だと疑いたくもなってしまうだろう。
――いや違う、と思い直す。
模造品でなどあるものか。当時の科学者は見る目がなかった。あるいは、よほどずさんな剥製を見せられたのだろう。こんなに美しいものが人工なわけがない。人がこれほど優れた造形を生み出せるはずなどなく、雪の結晶にも似た天然のなせるわざだ。
私はただそこに立ち尽くし、ヨウセイたちをずっと眺めていた。
父に肩を叩かれたのは、閉館十五分前のことだった。私は二時間以上そこに立ち尽くしていたらしい。口元から垂れていたよだれを、父がハンカチで拭ってくれた。
「そろそろ行くか」
「……うん」
父の問いかけに私は頷き、出口へと向かった。
ちらりと、ヨウセイの剥製を振り返る。死骸でさえあれほど美しいのだとしたら、生きている姿はどれほどなのだろうか。ヨウセイは、目撃した人がその場で気絶してしまったという報告が多くあるらしい。あまりの美しさに脳が耐えられないのだろうか……?
帰りの電車で、いつも寡黙な父が珍しく私に問いかけた。
「ヨウセイ、見られてよかったか」
「うん……。すごい綺麗だったよ」
「そうか」
「今度は、お母さんも一緒に来れたらいいね」
「……」
私の言葉に、父は何も答えなかった。
黙って、遠くを見つめていた。
今なら父が大妖精展に連れて行ってくれた理由が分かる。ヨウセイを見た人には幸せが訪れる、という迷信が古くからある。国内海外を問わず、多くの文献や逸話でヨウセイに出会った人は幸福になっている。あのとき父は、その迷信に頼ろうとしたのではないか。
母が癌で亡くなったのはそのすぐ後。
時期的に、あのとき父はそれを知っていたのだろう。
高校生の今日に至るまで、私が生きたヨウセイを見ることはなかった。
でも歯を磨いているときや寝る前だとかに、ふと思い出してしまう。
飾られていたヨウセイたち。
それを眺める私。
あのとき、本当に私はヨウセイの美しさに捕らわれていたのか?
背中にある透明な羽。
白濁した真ん丸の目。
小さな唇から覗く歯。
染み一つない体表面。
あのとき私が捕らえられていたのは美しさではなく、この世のものとは思えない異質な生物に対する恐怖だったのではないか。その恐ろしさから、目を離すことができなかったのではないか。
……いや、思い過ごしかもしれない。ヨウセイを見たことと母の死とが、密接に結び合ついてある種のトラウマになっているだけだ。だから私は心のどこかで、ヨウセイが苦手なのだ。
ただ、一つだけ言えることがある。
ヨウセイは私にとって、幸せではなく不幸の象徴だ。
昔も、そして今も。