牧野カナミ
窓に映る顔が自分のものではない。
他人でしかない見慣れない顔から視線をそらす。
カナミは、深呼吸を何度も繰り返して心を落ち着けようとした。
「落ち着け、落ち着け」と自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返す。それでも、恐怖と混乱はなかなか収まらなかった。
だが、ふとカナミは思い出した。
自分は小さいころから緊張しがちな所があって、そういう時はよく今のように自分に対して「落ち着け」と言い聞かせたものだった。
カナミの幼少期は、まさに「愛されて育った」という言葉がぴったりだった。
裕福な家で、おおらかで優しい両親の元に生まれた一人っ子ということもあって、カナミは彼らの溺愛を一身に受けてのびのびと育った。
誕生日には母が腕をふるった特別なメニューがテーブルに並び、最後には必ずケーキが用意されていた。
父もいつも笑顔でカナミに接し、彼女が何を求めても、それが彼女のためになると思えば与えることをためらわなかった。
一歩間違えば甘やかしていると言われるかもしれないほどの深い愛情は、カナミをまっすぐに、どんどんと成長させる後押しになった。
ある日のこと、幼いカナミは玩具店で見つけた小さなピアノを欲しがった。まだ幼稚園に通っていた頃の話だ。
何も知らない幼い彼女にとって、それはただ鍵盤を叩いて音を出すためのおもちゃにすぎなかった。
それでも、父は嬉しそうに「カナミ、これは何に使うんだい?」と尋ねた。カナミはただ音が出るのが嬉しくて、両手で鍵盤をぽんぽんと叩いて無邪気に微笑んだだけだった。
父はそんな彼女の笑顔を見て、迷わずピアノの玩具を買ってくれた。
家で夢中になって鍵盤を叩く。演奏とも言えないでたらめな音を父も母も咎めもせず、「カナミの将来はピアニストかな」と笑った。
小学校に上がる頃には、カナミの成績はクラスでも一際目立つようになった。
あれはまだ小学校の低学年の頃だったろうか。
カナミは、テレビで見た古い海外の映画をきっかけに英語に興味を持った。
字幕には難しい漢字が沢山使われていたし、文字が流れるのが早くて幼い子供には少々難解だった。
どうして、画面の中の人物は自分にわからない言葉を使っているのだろう?
そんな疑問を母にぶつけた記憶がある。そこで『外国語』の存在を知った。
英語が話せるようになれば、あの映画の主人公たちが何を話しているのか、もっと深く理解できるようになると母に言われて、単純な好奇心からカナミは英語に夢中になった。
「There's no place like home!!」
まだその言葉が表す意味もよくわからないまま、聞いた通りの発音を真似て『家に帰る魔法』を映画の登場人物の少女になりきって唱えるカナミを、両親は手を叩いて「上手!」と褒めてくれた。
ピアノの時と同じで、両親が喜んでくれるのが嬉しくてカナミは熱心に英語の勉強を始めた。
最初は単語を覚えるだけだったが、次第に文法や構文に興味が移り、やがて映画のセリフを覚えて自分で口ずさむのが楽しくなってきた。
好きな映画を見ながら、主人公たちのセリフを何度も何度も繰り返し、自分の発音が少しでも似るように努力した。
やがて小学校で英語の授業が始まる頃には、カナミは子供向けの映画なら英語の作品を字幕なしで楽しめるまでに成長していた。
中学、高校でも成績はトップクラスで、カナミは学校内で一目置かれる存在となっていた。
中でも得意な英語は抜群の成績をおさめ、スピーチコンテストなどでも賞を獲るようになった。受賞時に称賛された『優れた言語感覚』は、その後もずっとカナミを支える大きな柱になっている。
やがて大学に進学したカナミは、沢山の講義を受けるほかに国際交流と英会話を中心に据えたサークル活動や、塾講師のアルバイトもして、忙しい日々を送ることになった。
好奇心旺盛なカナミにはいつでもやりたいことが沢山あって、時間はどれほどあっても足りないような気がした。
友人に、「カナミってなんでそんなにバイタリティあるのー?」と呆れたように言われたことがある。
カナミは「楽しいことをしてるからかな」と笑って返事をした。
今自分が取り組んでいることを楽しめる性質であるのは、何事にも幸いした。
学内で出会った初めての恋人は、カナミの心を大きく揺さぶる存在だった。
のんびりした性格の彼はカナミを大切にしてくれた。
カナミと同じように色々なことに対して興味の尽きない彼とのデートは毎回新しい発見があり、人生の新たな楽しみを感じさせてくれるものだった。
しかし、その彼が三年から長期の海外留学することになったことで、二人の関係は終わりを迎えた。
彼は「カナミを一人でずっと待たせられない。でも、いつまでに帰って来ると約束してあげることもできないし、今の僕には一緒に来てくれというだけの資格はない」と言った。だから別れよう、と。
カナミは彼の真剣な思いを受け入れて「いってらっしゃい」と彼の背中を押した。
実際、留学した彼は海の向こうで誘いを受けて、仲間と共に起業してそのまま移住したと聞くのでその時の二人の選択は間違ってはいなかったはずだ。
だが、彼との別れは、カナミにとって大きな傷となった。
留学前の最後の夜、彼と別れの言葉を交わした後、カナミは自分の部屋にこもって泣き続けた。失恋は彼女にとって初めての大きな喪失感だった。離れると決まって、改めて自分がどれほど彼を愛していたのかを痛感した。
その悲しみを乗り越えるため、カナミは英語に加えて中国語や韓国語など、他の言語の勉強に没頭するようになった。
新しい言語を習得するというのは簡単なことではない。そちらに夢中になるうち、失恋の痛みは少しずつ意識の外に押しやられて薄れていく。
そして寂しさも忘れるほどの努力はしっかりと実を結ぶのだった。
大学を卒業した後、カナミは総合商社に就職した。
最初の配属先はアジア圏担当の部門で、大学時代に磨いた語学力を活かして仕事に取り組むことができた。
アジアの市場に関する知識を学び、現地のビジネスパートナーと連携しながらがむしゃらに働いた。
成果が出るたびに少しずつ自信を深め、新入社員の中でもトップの成績を収めることができた。そのときの達成感は大きな自信となり、さらに成長する原動力となった。
そんな中、勤務三年で突然EU部門に異動を命じられたとき、カナミは驚きを隠せなかった。
入社以来従事してきたアジアの仕事が好きだっただけに、新しい文化圏を担当することになって正直なところ不安もあった。
仕事で必要になるからと、新たにスペイン語とイタリア語を学び始めた。語学の才能はすでに持ち合わせていたため、それらも比較的スムーズに身につけることができた。
そして異動先で出会ったのが、ユウジだ。
彼は職場の先輩で、周囲からの信頼も厚い人物だった。カナミは彼の頼りがいのある姿に惹かれ、次第に彼に心を開いていった。
仕事では何度も一緒にプロジェクトに取り組み、プライベートでも距離が縮まっていった。彼の優しさに触れて愛するようになった。
二年の交際を経て、カナミはユウジの熱心な求婚を受け入れた。
そして結婚後は専業主婦となった。
働き続けたい気持ちがあったものの、ユウジの要望に応えて寿退社したのだ。それでも、心の中には働くことへの未練が少しだけ残っていた。
結婚後にはカナミの両親から驚くような贈り物があった。
港区の高級タワーマンションの一室をプレゼントされたのだ。
最初はびっくりして喜びに包まれたし、ユウジもとても嬉しそうにしていた。
でも実際に暮らし始めると、同じ階に住む年上の住人たちから微妙な視線を感じることが多くなった。
「若い二人がこんないい場所に住めるなんて、旦那さんはさぞかし高給取りなんでしょうね」
「あんなにお若いのに、奥さんは優雅なご身分よね」
マンション内のフィットネスジムを利用する時や、あるいはゴミを捨てに共用部に出た時に、そんなひそひそ話が耳に入るたび、カナミは居心地の悪さを感じずにはいられなかった。
このマンションに住めているのは、第一にはここを買ってくれたカナミの両親のお陰だ。
いくらユウジが稼いでいるにしても、二人が自力で購入しようと思ったらカナミが仕事を辞める選択肢はなかっただろう。
明確に嫌がらせをされたり、直接なにか言われたりということがあったわけではないが、そうした隣人たちの視線や居心地の悪さが原因となって次第に自宅から出る機会が減り、カナミの生活は自宅内で完結するものになっていった。
子供がいればまた違っただろうが、夫婦ふたりの生活では家事をするといってもさほど大変なことではない。
家にいる時間が長くなったことでカナミはユウジが嫌がらない形――在宅でできる仕事を探して、語学講師を始めた。
オンラインでビジネス英会話を教える仕事は、最初は持て余した時間を費やすために始めたようなものだったが、次第に自分が英語を勉強し始めた頃の楽しさを思い出し、カナミは再び仕事のやりがいを感じるようになった。
自分の力が他人に役立つこと、自分がまだ何かを成し遂げられることに気づいたとき、彼女の中にはいきいきとした活力が蘇ってきた。
◆
カナミは目を開けた。
「私は私だ」
自分が過去に経験してきたすべてのこと――それは、今の自分を形作っている大切な思い出だ。
幼少期の愛情、失恋、努力、成功、結婚、そして専業主婦としての新たな挑戦。それらがなければ、今の自分は存在しない。
カナミは、自分が『牧野カナミ』であることを疑う必要がないことに気がついた。
「私は不器用だから、壁にぶつかったら必死で頑張るしかない。今だってそう」
カナミは再び立ち上がる決意をした。
この不可解な状況に負けるわけにはいかない。元に戻る方法を見つけ出し、何が何でも元の自分に戻るのだと。
「明日もう一度――」
彼女の決意は揺るがない。
目の前に置かれた、すっかり冷めてしまったブレンドコーヒーを飲み干してカナミは席を立った。