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指輪のない手

 閃光に包まれる一時間ほど前。


『牧野先生、今日もありがとうございました』

「はい、また来週よろしくお願いします」

『よろしくお願いします!』


 カナミは今日の受講生に対して、にこやかに挨拶をして講座を終える。録画がサーバーに保存されたという表示が出てから、カナミは改めて録画ファイルを開いて内容を見返し始めた。

 各受講者とのやりとりを振り返り、次回に向けた指導プランを練るのも彼女の日課だ。今日もノートを開き、進捗を丁寧に記録していく。


「話し方がどうしても固くなるみたいだから、次回は少しフランクに…」


 カナミは軽くペンを回しながら考え込む。

 受講者のニーズに合わせたレッスン計画を練るのが彼女の仕事であり、また楽しみでもある。

 熱心にノートを書き進めているうちに、手元が暗くなってきたことに気づいてふと外を見ると、朝の予報とは違って急に空が陰ってきていた。

 まだ昼間だというのに、高層階で大きな窓付きの部屋にもかかわらず、全く太陽の光が入ってこない。


「予報では晴れるって言ってたのに…」


 天気予報は大きく外れたらしく、重苦しいほどの黒雲が空を覆い始めている。まるで何かが起こる前触れのような、不穏な気配が漂っていた。

 カナミは窓の外の暗雲を見つめて深く溜息をつく。その時だった――。

 突然、雷に打たれたかのような強烈な衝撃が彼女を襲った。

 悲鳴をあげる暇もなく、全身が痺れるような感覚に包まれる。彼女はただ驚きの中で、真っ白な閃光に包まれてそのまま意識を失ったのだった。


    ◆


 次にカナミが目を覚ますと、目の前には全く見覚えのない風景が広がっていた。


「ここは…どこ?」


 頭がずきずきと痛み、体が鉛のように重たくて思うように動かない。

 見たことのない真っ白な天井に、見慣れない芸術的なデザインの壁紙、そして鮮やかな色の家具も自分の家のものとは全く違う。

 真っ先に感じたのは困惑だったが、さらに痛む頭をおさえようと手を伸ばした瞬間、いつもと様子が違うことに気づいてぞわりと総毛立った。


「えっ…何これ?」


 爪先に色が乗っている。

 淡いピンクゴールドで彩られた指先。

 綺麗に整えられた施術したてのネイルは、カナミの手には無かったはずのものだ。

 カナミは普段、家事をすることもあって特別な時を除いてネイルはしない。

 それに左手の薬指にはいつも必ず存在するはずの結婚指輪がなかった。

 驚いて跳ね起き、かたわらにある姿見を見つめる。

 ――そこに映っているのは、自分ではない誰かだった。


「誰……っ!?」


 カナミは鏡に映る女性を見て、ビクッと身を震わせた。

 サラサラとした明るい金髪、勝ち気そうなシャープな目元には印象的なほくろが一つ。しっとりとした滑らかな肌。細く長い均整の取れた肢体。

 驚きに目を瞠っていながらも人目を惹くほど美しい容姿だが、まったく見覚えのない顔だった。

 いや、正確に言えばどこかで見たことがあるような気もする。顔にはぼんやり見覚えがあるような気がするのだが、少なくとも親しく付き合ったことがある相手ではない。

 思わず両手で顔に触れると、鏡の中でも見知らぬ女性が同じように両頬に手を添える。

 柔らかい皮膚に爪を立てると、丸みのあるネイルの先端が食い込んで痛い。

 夢や幻といった感じはしなかった。

 体を見下ろせば、スレンダーな抜群のスタイルを見せつけるように、ボディラインがくっきりと出る薄手の白いニットを着ていた。これもカナミの趣味とは違っている。

 指輪がないかわりに華奢な首元にはきらりと光るダイヤのペンダント。こうしたものもカナミは身につけることはない。

 さらに混乱が深まる中、カナミは目の前のテーブルの上に何通か郵便物があるのに気づく。


「鈴原ナナエ…様?」


 どの封筒の宛名にもそう書かれている。しかし、その名前には聞き覚えがない。

 どうしてこんなことが起こっているのか全く理解できないまま、カナミはよろよろと立ち上がった。

 恐る恐る室内を歩き回ってみる。

 どうやらこの家には、少なくとも現時点ではカナミ一人しかいないらしい。ざっと様子を見る限りでは女性の一人暮らしと考えて良さそうだった。

 まるでインテリアのショールームのような華やかさをもった部屋だ。

 リビングの家具にはところどころに鮮やかな色が用いられ、差し色として機能している。

 カナミは無意識のうちに窓へ近づいて外を見た。

 昼間だというのにぴっちりと引かれたカーテンをよけてガラス越しに見えた景色は、自分が暮らしているタワーマンション高層階からの眺めとは全く違って、視界が随分と低かった。

 見慣れた景色が35階からのものだとしたら、今のそれは高くとも10階くらいだろうか。

 都心であるということはわかるが、カナミが知っているようなランドマークは見当たらず、場所までは見当がつかない。

 すぐ下を見下ろすと賑やかな通りが広がっている。見慣れぬ高さに建物が並んでいる景色にクラクラする。


「ここ、どこなの…」


 震える声でつぶやきながら、カナミは元いたソファによろめくように座り込んだ。

 室内を見回したことで、ますます自分が置かれた状況に戸惑いを感じていた。

 まるで別世界に迷い込んでしまったような感覚――それでも何か手がかりを見つけなければならない。

 ソファの上についた手に硬いものが触れる。見ると、クッションの下に携帯が転がっていた。混乱しつつも拾い上げ、ためらいながら触れてみると指紋認証が瞬時に通ってしまった。

 予想外の展開に驚きつつ、ふと指先が触れたことで写真アプリが開く。ぱぱぱっと画面に表示されたサムネイルを見てカナミの心臓は凍りついた。


「え、ユウジ…?」


 画面に映るサムネイルのいくつかに、夫のユウジの姿があった。

 小刻みな震えが止まらない指でタップして写真を表示してみれば、彼が親しげに寄り添っているのは――今、鏡に映っていた「鈴原ナナエ」だ。

 どこかの店の前だろうか、二人はまるで恋人同士のように身を寄せて笑い合って自撮りをしていた。


「え……?」


 咄嗟に見る日付欄には、二週間ほど前の日付が表示されている。

 カナミの頭は真っ白になった。

 ユウジが浮気をしていた――うっすらと疑ってはいても確信がなかった疑惑の真実が、目の前の写真によって明らかになってしまったのだ。

 怒りや悲しみよりも、まずは呆然とした。

 これが現実なのか、それとも悪い夢なのか、判断がつかない。

 そもそも自分は今、いったいどこにいて、なぜ知らない女性の――この鈴原ナナエの体の中にいるのか。

 手が震え、スマートフォンを持つ指もこわばってうまく動かない。

 それでも画面を遡る手を止められない。

 一ヶ月前、三ヶ月前、半年前、どこまで遡ってもサムネイルにちらほらとユウジの姿が見えた。どの写真でも、この鈴原ナナエという女性の隣にユウジは立っていた。キスをしている写真まであった。まるでカナミに見せつけようとするかのように。

 一年前、二年前――どんどん遡るうちに、自分が知らず知らず息を止めていたことに気づいてカナミは必死に深呼吸をしようとしたが、胸の中で湧き上がる感情の奔流に押しつぶされそうだった。

 目の前に突きつけられた残酷な事実を、どう受け止めていいのかわからない。

 カナミはどうするべきかもわからないまま、ただ呆然と携帯を見つめ続けた。

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